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眠る

眠ると、亡き父に会えるかもしれない。心のどこかでそう思いながら、いや、そう願いながら、眠りにつくことが、僕にはある。

そう思うようになったのも、きっかけがある。2日連続で亡き父が、夢に出てきたのである。しかも、あまりにも普通に、あまりにも自然に、だ。

というのも、これまで夢に父が出てくる時は、普通ではなく、自然でもなかった。第一に、父は話せない。いるはいる。普通に立って存在していたとしても、話すことができない。時には、病室で横たわっていたこともあった。タンカーみたいな何かで運ばれていたこともあった。兎にも角にも、話せない。それが夢に出てくる父の特徴だった。

約3年半前、父はクロイツフェルト・ヤコブ病で亡くなった。百万人に一人の確率で発症する不治の病である。発病から僅か半年間のいのちであった。だんだん歩けなくなり、だんだん動けなくなり、だんだん食べられなくなり、だんだん話せなくなっていった。最後の数ヶ月には言葉は絶たれ、僕たち家族は言葉以外の部分でやりとりをした。

その父が、である。夢に「話せない存在」として出てきたのである。ところが、その様子が最近になって変わってきた。夢の中に登場する父の、その在り様が変化してきた。普通にそこにいて、自然に話すのだ。あの父が。

正直、これには驚いた。驚いて、驚きすぎて、思わず、スイスの精神科医・心理学者カール・グスタフ・ユング(1875〜1961)の著書『ユング 夢分析論』を買ってしまったほどだ。

読み進めていくと、どうやらユングは、一回の夢だけで判断するのではなく、それ以降の夢の流れ、シリーズの中で考えていく必要がある、と考えていることがわかった。これには大いに頷けた。まさにシリーズものとして、父の夢を理解しようとしていたからである。

それに、夢の変化にも身に覚えがないわけでもなかった。父が亡くなったことを、折に触れて話す場面もあったが、その時はいつだって不自然で、ぎこちなく普通には話せない自分がいた。ほんとうは日常のふとした瞬間に父の存在が頭をよぎっている。でも、日常ではそれを気安く出すわけにもいかない。びっくりされてしまうし、下手したら慰められてしまうし、腫れ物に触れるように扱われてしまうからだ。

そうじゃない。僕は普通に父のことを話したい。そして、普通のこととして聞いてほしい。日常会話の何でもないレベルで。普通に。自然に。

でも、それには随分と時間がかかった。3年半という月日が経ち、ようやく父のことを普通に話すことができつつある。

夢の中の父が「話せない存在」から「話せる存在」に変わっていった時、同時に、現実世界の僕自身こそが、父について「話せない存在」から「話せる存在」に変わっていったのかもしれない。僕の在り様の変化を、夢を通して父は教えようとしてくれていたのではないか。そんな気持ちになって、いま、心がじんわり温かくなっている。

今日も、やや期待しながら、眠りにつくことにしよう。やや、と言いたいのは、毎日出てこられても困ってしまうのだから。

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