格差の方程式:ガンホーの時代、そしてトヨタの凋落
かつて、経営者と労働者は共に働いて同じ目的を持っていた。企業と労働者の歴史を考えると、労使が共闘していた時代が少しだけあった。
恐ろしく近くて遠い昔の物語である
マイケル・ムーアさんのドキュメンタリー(『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』 )にかつて自動車工場で働いていた自分の父親と話をするところがある。歩いて工場にいって、働き子供が父を迎えに行く。
その街ではコミュニティがあって、工場を核に人々が繋がり、コミュニティが成り立っていた。工場は人を雇い共に生きることを目的としていて経営者も工場の工員と話し合うことがあった。
再建型の倒産などと言うと聞こえは良いが、結局は労働者にドロを飲ませて自分たちは安泰な逃げ道である。
ガンホーの時代
ガンホーの時代とは、まだ規模が小さくて共に働いていた時代なのだ。1986年の映画である。この後、マイケル・キートンはバットマンとなり、金持ちの味方になるのだ(笑)。
そんな時代があったことなど誰も考えもしない。誰もが大金持ちになりたいのだから仕方がない。けどね、その金は誰かが働いてくれて商品を作り、彼等に公平に分けて払わないで自分が「ポッポ」に入れているのだ。
しかし、問題は「正当な評価と公平な分配」とは何なのだ?
世界にそんな物があったためしがあるのだろうか?
正当な評価による「豊かさの格差」というのは、無論悪いことではない、その人にはその人なりのアタワリというものがある。
けどね、その差があまりにも激しいと、絶望は社会を壊す。
いくら経営者が優秀だからといって何億もの報酬はおかしいだろ
「ヒト」はコミュニティ(共通の価値を求める集団)の中で楽をしようとする。ズルをして、供出するべき労力や財を出さないで受け取るものは多くしようとする。これをフリーライダー(タダ乗り)という。
権威、リーダーとして他人を動かすということも、コミュニティにおいては必要なことなのだ。強いリーダは多くの価値をもたらし、分配もリーダーの占有事項なのだ。
「フリーライドとサクリファイ」は裏表なのだ。
本来すべき仕事をしない「政治家・役人」、家庭の中での「ネグレクト」や「いじめ、パワハラ、セクハラ」いずれも、自分のために他人を働かして、自分が得をしている。セックスしたい人間を社員にするも、パシリにパン買いに行かせるのも同じ律をもつ。
同時に「この心」は、友愛と慈しみの根源でもある。他人のために自分を犠牲にする行為、国や仲間を守るために自分の命を捨てる兵士、老人を助ける少女、これらは決して分離も否定も出来ない。そしてヒトの奥底から動かすものなのだ。
僕は「宗教」という、ヒトの集団を動かす「共感の原則」に心をはせる。
いつから、この社会は「ここまでヒトを苦しめて」も平気になったのだろうか。私達は神様(共通の価値)を信じることが出来るだろうか。
1980年代を分水嶺とする「家庭の崩壊」は「シェルター」の破壊とともに、自分(の強欲)を律する「欲望の檻」から、ヒトの貪欲を解き放ってしまったのである。情報蚊の社会は、自分の苦しみと遠いところの誰かの「富」の間に直交的な因果関係を見る。
薬を与えられないで死んでいく子供を見入る親が、特許を持ち薬価を釣り上げている製薬会社の経営者が豪華ヨットでバカンスを取る姿に殺意を抱いても何ら不思議はない。実際その2つには因果関係がある。
その因果関係を見る瞳を私達は「宗教」と呼び金にならないと切って捨てたのだ。しかし、それがいかに重要なものであるかは年取れば分かる。
TVシリーズにもなった。しかし、ほんの数十年のことであるのだ。
マイケルムーアさんのドキュメンタリーであった。僕は大好き。今度しっかりと書きたいと思う。
マイケル・ムーアさんはすごく面白い。世界征服のすすめという映画の中でも経営者と労働者が共に働いている会社としてドカティをあげている。
この映画は見るといい。今度ゆっくりと書きたいと思うのだ。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。