マユのご飯とゴミ捨て
うちの母は和裁の内職でお金をいっぱい持っていた。和裁の先生に侍從してやがて独立して、呉服店から依頼を受けていた。今で言う自営業者である。
帯一本で1万円が手に入った時代に、一日一本縫っていたというから、良い稼ぎである。お金は、僕が使った(笑)。
父は経理担当のサラリーマンで、東京の本社の社長に目にかけられて、新発田にある工場の経理を任せられていた。
手羽先は、先頭をマユのご飯にして、元の方を骨を割いておく。腱を切って割っておくとよい。
工場長の監視役として辛いことも多かったのだろうと思う。何人もの工場長が来ては去りを繰り返した。総務部長だったので大量のリストラの担当者でもあった。
人事部は総務の一部であったので、採用担当でもあり、社員の家の事情にも詳しかった。社員は農家との兼業である。そうでもなければやっていけない給料であった。
働き方改革で、政府が推し進めていることをすでにやっていたのである(笑)。だから、働き方改革などというものがまやかしであることをよく分かる。
父は大学を出ていなかったから経理部長止まりで、最後の数年は同じ敷地内の別な会社で働きながら工場長の密偵であった。父と3年一緒に働けたのは面白い体験であった。
こちらに帰ってきてから、一度、繁華街からの帰り道で警察の人に保護されているのを迎えに行ったことが有る。多分結婚前(労働争議の前)である。何度も「人生は面白い」と繰リ返し言っていた。大雪の冬であった。
父の家には「会社をやめたくなったなら」と言う本があった。僕が東京の大学に行く時に父は帰ってくるなと言った。
しかし、最後には一緒に過ごせたのである。幸せであった。
今朝は妻がゆっくり寝ている日なので僕がご飯を盛り付けた。ご飯作りは僕の仕事である。
小さい頃、父がいつも飼っていた犬のご飯をつくっていた。
ゴミはパンチングメッシュのザルに集める。
生ゴミ捨ても父の仕事であった。
新聞紙で生ゴミをくるんで、巻いて捨てるのである。
こうすると、新聞紙は水を吸ってくれるの散らからない。
色々なことを教えてもらった。厨房仕事をするときにはいつも父の事を思い出す。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。