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01 グリーフケアという言葉を知るまで

私は、2023年4月に妻を胆のうがんで亡くしました。64歳でした。約1年間の闘病期間のほとんどは自宅で過ごし、最後の一晩だけは緊急入院することになりましたが、できるだけ最期まで普通に暮らしたいとの妻の希望もあり、延命治療は行わず、幸い、子どもたちとも一緒に最期を看取ることができました。


この文章を書いているのは2024年2月29日。もうすぐ一周忌を迎えます。これを機に闘病からこれまでの約2年間を振り返り、体験したこと、感じたことを書き綴ろうと思いました。自分の気持ちをリセットして、再スタートしたいということが目的ですが、同じような体験をされた方やサポートをされている方の参考になればという想いもあリます。少しでも何かの役に立てれば幸いです。


少し長くなりますが、最初なので、これまでの経緯をまとめてみました。

妻のがんがわかったのは2022年の4月のことでした。これまで病気などしたことがなかった(本当はしんどくても顔や口に出していないだけだったのだと思いますが)妻が、わき腹が痛いと言って、近所のクリニックでエコーを撮ってもらったのが始まりでした。胆のう炎や胆石とは少し違うようだという診断で、市民病院に紹介状を書いてもらいました。精密検査を受けたところ、胆のうの他にも肝臓や肺、首のリンパ節にも影があり、腺がんの疑いが強いということでした。ちょうど亡くなる1年前のことです。前月の3月末に私は定年退職後の再雇用を2年間で辞め、これから夫婦でのんびり過ごそうと思っていた矢先のことでした。

市民病院では十分な治療が困難だとのことで、がんセンターの肝胆膵内科を紹介され、再度検査をしたところ、胆のうがんのステージ4と診断され、抗がん剤(ゲムシタビン、シスプラチン、TS-1)による標準治療が始まりました。治療開始の際に主治医から「治る病気ではないですが、比較的若いので、できるだけ延命できるように最善を尽くします」と言われました。

それからしばらくの間、夫婦それぞれに本を読んだり、ネットで調べたりして、情報交換し、1年生存率が20%ほど(5年生存率は一桁)であることも共通の理解として受け入れ、子どもたち(30代の女と男でどちらも独身で同居)にも伝えました。正直辛かったですが、状況を正しく理解して受け入れることで、心の平穏を保つことができたのだとも思います。

抗がん剤が効果を示したのは最初の2~3ヵ月だけだったと思います。妻はあまり辛いとは言いませんでしたが、副作用に苦しんだようで、主治医と相談しながら、投薬の組み合わせを変えたりもしました。秋頃からは、効果があまり見られなくなり、夫婦ともに「延命よりも緩和ケア」に考え方がシフトしていったように思います。11月には相談支援センターを通じて在宅緩和ケアを行っておられる自宅近くのクリニックを紹介していただき、診察を受けました。

当時、妻はパート保育士として不規則ですが1日2時間程度、週3日程度勤務していました。職場には事情を話し、理解もあって、治療の間も変則勤務で様子をみながら仕事を続けることができました。そして、残された時間をできるだけ楽しく過ごしたいと、7月には家族4人で信州へ1泊旅行にも行きました。これが最後かもしれないとそのときは思いましたが、結果的には、その後、その年の12月まで夫婦で近場ですが1泊旅行を3度もすることができました。他にも趣味の絵画教室やボイスレッスン、映画鑑賞、寄席通いも続けることができました。

年が明けて最初の診察で主治医と相談し、これ以上の抗がん剤治療は行わないことを決めました。「治療の副作用に1ヵ月苦しんで、1ヵ月長生きしても仕方ない」と、以前読んだ本のどこかに書いてあったことが頭の片隅にありました。この時点で「余命3ヵ月という診断になります。もっと早くなることもあるし、長く生きることができることもあります。これからは在宅で緩和ケアクリニックの先生に診てもらってください。ホスピスを紹介することもできます」と言われました。

2月からは緩和ケアクリニックの先生と24時間対応の訪問看護ステーションの看護師さんがそれぞれ週1回ずつ訪問してもらえるようになりました。在宅支援薬局の薬剤師さんからもいろいろとアドバイスを受けました。

その間も妻は仕事や趣味を続け、夫婦でカフェに行ってお茶を楽しんだりもしました。食事の量はみるみる減ってきて、歩くペースも落ちてきましたが、見た目は元気で、兄妹や友人らもがん末期だとは気づかない様子でしたし、妻もほとんど弱音を吐くことはなかったです。

亡くなる5日前から急に体力が落ちてきたような気がしました。腹水でお腹の張りが目立ってきて、食べたものを戻すことが多くなってきました。それでも次の日には2時間の保育所のパートに行きました。妻は「家にずっといたら病人やけど、保育所にいったら保育士やから」と自分を鼓舞していましたし、実際、園児と接することが癒しになっていたのでしょう。

亡くなる日の前日の朝、妻が「苦しいので腹水を抜いて欲しい」と言いました。すぐに緩和ケアクリニックの先生に連絡をしました。腹水を抜くことには賛否あることは知っていて、先生も賛成しかねていましたが、看護師さんを派遣してもらい様子を確認したうえで、各方面に当たってくださいました。最終的に市民病院で対応してもらうことになり、その日の午後に連れて行ったところ、たまたま昨年最初に診ていただいた先生(女医さん)が担当してくださり、緩和ケアクリニックからの情報も共有されていて安心しました。

検査の結果、「がん性腹膜炎を起こしていて、本来なら腸の手術をするところですが、延命治療は希望しないとのことなので、手術はせずに緩和ケアを行います」との説明を夫婦で受けて、承諾書にサインしたうえで、その日の夕方、緊急入院しました。

コロナがまだ2類で、面会制限もありましたが、病院の配慮もあって、仕事を早退した子どもたちも病室へ駆けつけ、会話することができました。幸い2人部屋で隣のベッドが空いていたので気兼ねなく面会できました。

その晩、私はいったん帰宅し、入院用品などを後でナースステーションに届けましたが、翌日、午前3時過ぎ頃、病院から「血圧が下がって危険な状態です」と連絡があり、子どもたちと一緒に駆けつけました。病院に着いたときは、意識は少しもうろうとした様子で、言葉ははっきりしませんでしたが、こちらの話していることは理解でき、うなづいてくれていました。

子どもたちと3人で交代で手を握ったり、身体をさすったり、「ありがとう」と声を掛けたり、楽しかった思い出を話したりしました。しばらくして、痛みがひどくなってきたようで、看護師さんに頼んで、痛み止めを追加してもらいました。それでもあまりにも苦しそうに見えたので(意識がなくなるかもしれないと言われましたが)、鎮痛剤を使ってくださいとお願いしました。しかし、鎮痛剤を使う前に痛み止めが効いてきたようで、しばらくの間安らかな表情を見せてくれ、そのまま息を引き取りました。病院に駆けつけてから約6時間後でした。

その後、葬儀や手続きなどあっという間に時間が経過して2週間ほど経ち、忙しい中にも悲しさや寂しさが何度も押し寄せてきて、ふと、同じような体験をされた方はどのように過ごされているのだろうかと思い、ネットで検索をしてみました。まず、がんセンターに患者会や家族会があったことを思い出し、遺族会もあるのかなと探していると、葬儀社が母体の会や宗教団体のようなものなどもありました。実態がよくわからなかったので、もう少し調べると、近くの総合病院に「グリーフケア遺族外来(遺族外来)」という診療科があることがわかりました。

そこで初めて「グリーフケア」という言葉を知りました。


次回以降は、グリーフケアについて体験したこと、感じたことなどを具体的に書いていこうと思います。


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