「分人主義的成人発達理論」試論
1月から、橘川幸夫さんのほぼ全著作を年代別に読んで解説するという試みをしている。
全11冊のうち、9冊の解説が終わったところで、1970年から2004年までの時代の流れを振り返って、参加型社会を構想するに至った橘川さんの人生のプロセスを追体験している。
その中で浮かび上がってくるのが、「情報化社会における個人とは、どういうものになるのか?」という問いだ。
橘川さんは、2000年の初めに、
農村共同体⇒家族⇒個人⇒(その次)
というようなプロセスを想定している。戦後、農村共同体が解体してし、核家族化したが、核家族も個人へと解体していった。
その先に生まれる自我とはどういうものだろうか?橘川さんの『自分探偵社』(2004)は、それをテーマにした小説だ。
林雄二郎さんは、情報化社会においては、個人がトータルでコミュニティに所属するのではなく、機能ごとに分かれた複数の「ファンクショナルコミュニティ」に所属するということを予見している。
これは、終身雇用が崩壊し、複業が奨励されるようになった現在の状況を現しているようでもあるし、様々なオンラインコミュニティが生まれ、一人が複数のコミュニティに参加している状況を現しているようにも見える。
「分人主義的成人発達理論」試論
個人がさらに分かれていくということで、「分人」を思い浮かべた。
作家の平野啓一郎さんは、人間を一つの「個人」ではなく、シチュエーションに応じた様々な「分人」の総体として捉える考え方を提唱している。
ちゃんと本を読んでいないので、詳しく考察するときには、まずは、書籍を読んでから、と思っているが、アイディアのメモなので、とりあえず、書いてしまう。
「私は何々である」と言えてしまうような固定的な西洋的自我に対して、様々な「分人」の総体として、状況によってゆらいでいる「分人的自我」というものを置いてみる。
成人発達理論は、
第1段階 利己的・道具主義的段階
第2段階 他者依存・慣習的段階
第3段階 自己主導・自己著述的段階
第4段階 自己変容・相互発達段階
というように整理されているが、これは、西洋的自我をモデルにした発達段階のように思う。
「分人的自我」という見方で、発達段階を捉え直すとどのような光景が見えてくるのかというのを考察するのが、今回、やってみている「分人主義的成人発達理論」試論である。
頭の中のアイディアを2軸でまとめてみたのが次の図である。
お面:役(ロール)を演じるためにかぶる
仮面:正体を隠すためにかぶる
という言葉を使うと、整理しやすそうだったので、とりあえず書き込んでいる。
エゴの要塞としての分人システム
まずは、自分の人生における「分人化」が、どのように起こったのかを振り返り、人体実験の結果として提出してみよう。
「第1段階 利己的・道具主義的段階」は、社会化される前段階なので、そのままで、まだ分人化していない気がする。
「第2段階 他者依存・慣習的段階」あたりから、ちゃんと考える必要がありそうだ。私には3つ上のきょうだいがいて、中学生になった頃、反抗期を迎えて、家庭内が荒れていた。弟の私は、それを見て、「もっとうまく立ち回ればいいのに」と思っていた。実際、私には反抗期らしいものはなく、親と衝突することのないまま、大学生になった。
しかし、その頃から、強烈な違和感が生まれてきた。「親の視線(特に母親の視線)」が、自分の内側に内在化されていて、自分が行動しようとすると、その視線に沿っているかどうかが気になるという現象が起こり始めたのだ。
親の期待を読み取って、それをあたかも自分の意志であるかのように振る舞ってきたツケが回ってきたような感じだ。関係性のプロトコルが、「相手の期待を読み取って、それに応えるように動く」となってしまったため、自分の意志が分からなくなってしまった。
自他の境界線をうまく引くことができず、「相手が期待しているように振る舞ってしまう」行動パターンが生じた。その行動パターンから自由になるために、「相手の印象を操作して、自分が見てほしいような自分を演出し、そのように期待してもらって、その期待に応えるように振る舞う」といった、大変ややこしい行動パターンへと派生していった。
いろんなことに手を出し、いろんなエピソードを引き出しに蓄え、相手に応じてエピソードを披露しながら、その時々の仮面をかぶり、相手の印象を操作して、その印象通りの自分として振る舞う。そんなスキルが、どんどん磨かれていった。
自己イメージが肥大し、自分でも分からなくなってきた。いや、むしろ、自分でも分からなくなるように、自分で自分を煙に巻こうとしていたように思う。他者の期待を操作しながら、ひたすら肥大していった自己イメージとはくらべものがない、内側にある大したことのない実体を直視することが、一番怖いことであり、それをやらなくてもよいような要塞を、あらゆる手段を使って作り出していた。
この状況を「エゴの要塞としての分人システム」と呼ぶことにする。
「適応の仮面」は、自分にとって都合のよいイメージを、外側から持ってきて、それと一体化することで作り出す。
「適応の仮面」と「本音の自分」に分離し、自分にとって都合の悪い「本音の自分」の存在をないことにして、「適応の仮面の総体=本当の自分」だと思い込もうとする自己欺瞞的な状況である。
ここでは、「分人=適応のための多様な仮面」である。
社会の縮図としての分人システム
その後、あることをきっかけに、「エゴの要塞としての分人システム」が崩れ落ち、真ん中にいた「本音の自分」という不都合な実体が発見された。
こいつの存在を認めて、こいつとして生きていかなくてはならないのだと観念した。どうやって人と接したらよいのか分からなくて途方に暮れたが、余計なものが剥がれ落ちた清々しさがあった。自己肥大的な妄想に逃避するのではなく、地道に生きていこうと思った。妄想の維持に使っていた無駄なエネルギーが、地道に生きていくことに使われるようになったら、実体が少しずつ成長し始めた。
この時期は、自分は素朴な自分として単一だった。社会と自分とを分離させながら、素朴で平凡で単一な自分として地道に生きようとしていた。
「第3段階 自己主導・自己著述的段階」は、「分人=適応のための多様な仮面」を否定して、できるだけ素朴な自分として、他者と関わって生きる段階だったように思う。
もちろん、その場に応じて役を果たすことはあるが、それは、「本音の自分」の存在を隠すためのものではなく、自覚的に役割を果たすものだった。
その後、仕事のすべてがオンライン化することになって、複数のオンラインコミュニティを主催することになった。いろんな分野のプロジェクトに同時並行的に関わることにもなった。
コミュニティやプロジェクトごとに果たす役割が違うと、相手の気持ちを想いはかりやすくなることに気づいた。リーダーの役割をしているときに感じることが、サポート役をしているときに役立ったりするのだ。多様なプロジェクトに多様な役割で関わることで、自分の内側の多様性が増してきた。
対話を重ねる中で、自分を保留して相手の話を深く聴くと、相手の体験を追体験することになる。共感によって、その人の人生の一部が自分の中に入ってきて、「こんな状況で、Aさんだとこんな気持ちになるだろうし、Bさんだとこんな気持ちになるだろうなー」というように、素朴な自分の感じる気持ち以外の気持ちも生まれてくる。対話のファシリテーションをしながら、場にいるいろんな人の気持ちがオーケストラのように流れ込んでくるような感覚が生まれる。その中の一つが、素朴な自分の気持ちであるが、同時に、場に発生している気持ちも感じているのだ。
場を自分の内側に内包しながら、場の意志を感じ取って進むべき方向を嗅ぎ分けていく。プロセスの中で、柔軟に自分の役(ロール)を移動させていく。
自分の内側に多様な他者がいる感覚、いわば、自分の中が社会になっていく感覚。言い換えれば、世界という場の中の分人としての自己がいて、その自己という場の中の分人として多様な役(ロール)があるというフラクタル構造。
様々な人と共感的に関わっているうちに、自分自身の内部に社会の縮図ができてくる。そして、社会の縮図である自分を、未来社会のプロトタイプとして活用しながら、未来を模索しはじめる。そのように生きるようになったら、いつの間にか、社会活動家になっていた。
これを、「社会の縮図としての分人システム」と呼ぶことにする。
ただし、この段階の分人は、第2段階の「分人=適応のための多様な仮面」ではなく、「分人=共感によって内包した具体的な他者」であろう。
「第4段階 自己変容・相互発達段階」は、第2段階の「エゴの要塞としての分人システム」とは、違うレイヤーで分人化するのではないだろうか。
世代による違いを考えたらどうなるか?
というわけで、団塊ジュニア世代の私の人生を振り返りながら、自分に起こった「分人化現象」を記述してみたが、1つのサンプルで議論するには荒っぽすぎるし、何よりも、世代による違いが考慮されていない。
子どものころからネットやスマホがあった世代の自我の発達は、私たちの世代のものとは、当然異なるだろう。
Twitterやインスタのような匿名のSNSのアカウントを複数使いこなしている若者に起こっている現象や、VRのアバターで起こっている現象などについても考察していけるような、足腰の強い議論にするには、さらなる考察が必要だろう。
今回は、第1段階として、団塊ジュニア世代の自分の「人生実験」を素材にして立てた仮説は、
第2段階で「エゴの要塞としての分人システム」を形成し、その要塞が壊れた後の第3段階を経て、第4段階「社会の縮図としての分人システム」へと移行するのではないか
ということだ。
第2段階、第4段階、ともに、西洋的自我との違いは、自他の境界線の曖昧さにある。母親などの他者に境界線を侵犯された結果として生じる自我の分離が、「エゴの要塞としての分人システム」を形成するきっかけとなるし、社会と自分の境界の曖昧さが、「社会の縮図としての分人システム」を形成することになるような気がする。
成人発達段階でも、第2段階と第4段階とは、自分軸ー他人軸のらせんにおいて、第2段階(他人軸)⇒第3段階(自分軸)⇒第4段階(他人軸)⇒という関係にあり、混同されやすい。分人主義的成人発達理論においても、第2段階と第4段階とが分人化して混同されやすいというのも、面白いところだ。
日本文化は、良くも悪くも、自他の境界があいまいなアジア的コミュニティ社会である。それを土台にした成人発達理論は、自他の境界が明確な西洋的自我とは異なるはずだ。その違いが「分人」という形で表れているのではないかと考えてみたのが、今回の試みだ。欧米から輸入したものを、そのまま当てはめるのではなく、自分たちなりにアレンジしながら考える第一歩として、この試論が役立てばうれしい。
この試論を書いたことで、次のステップが見えてきたので、私も、さらに本格的に考えていきたいと思う。
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