日立市と東海村:茨城県民投票と私たちの物語
私が育ったのは茨城県日立市。電気メーカーの日立製作所が誕生した町です。市内は、日立製作所の関連企業で埋め尽くされていて、企業城下町という点では、愛知県の豊田市と似た構造の町です。
私は第二次ベビーブーマー世代ということもあり、とにかく子どもがたくさんいて、人口も20万人を超えていました。
住宅不足を補うために山が切り開かれ、建て売りの一戸建てが整然と並ぶ団地があちこちに作られました。私は、そんな団地の1つで育ちました。
男子の多くが少年野球チームか、少年サッカーチームに所属していて、私も、例に漏れず野球チームに所属していました。
私の所属していたリトルリーグのチームは、日立製作所の関連企業が持っている福利厚生のためのグランドを借りて、毎週日曜日、練習をしたり、試合をしたりしていました。
私の父は、日立製作所の関連企業ではなく、東京に本社がある材木関連の会社に勤めていて、日立港での取引を担当していました。私が中学生の頃に、第一次産業の衰退が原因で事務所を畳むこととなり、東京へ転勤となりました。
東京に転校した私は、その後も野球を続け、高校でも硬式野球部に入りました。一方、同じチームやライバルチームにいた友人たちは日立工業へと進学し、春の選抜大会で甲子園に出場しました。
高校を卒業した彼らは就職し、給料でローンを組んで車を買い、乗り合わせて、当時、浪人生だった私の家に遊びに来ました。
「甲子園に出ると、就職がいいんだよ!」
と彼らは言っていました。彼らの就職先は、原研(日本原子力研究所)と動燃(動力炉・核燃料開発事業団)でした。
原子力発電企業の1つであるHITACHIのお膝元の日立市で生まれ育ち、隣接する東海村に原発があり、同級生たちがそこで働いているという状況にありましたが、その当時の私は、原発にまったく無関心でした。
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