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それでも種をまく:茨城県民投票と私たちの物語

茨城県にある東海第2原発の再稼働をめぐって、現在、県民投票の実施を求める活動が続いています。

私が、この活動に関わっている理由は2つあります。

1)私の故郷で起こっているできごとであること
2)いばらき原発県民投票の会の共同代表である姜 咲知子さんとの縁

これまでは、1)について書いてきたが、今日は、2)について書いてみようと思います。

明峯哲夫さんから受けた影響

私は、28歳で大学院を中退してから、13年間、予備校講師として物理を教えていました。その頃、もっとも影響を受けた人物が、明峯哲夫さんです。

明峯さんは、残念なことに2017年に亡くなられてしまいましたが、不思議なことに、亡くなられた後のほうが、むしろ、私に強い影響を与えているような気がします。

私が、茨城県水戸市にある予備校(今は、ありません)で物理を教えていたときに、同じ予備校で生物を教えていたのが明峯さんでした。

明峯さんは、学生運動世代で、学生運動に敗れた後、「農」とは何か?というテーマを掘り下げて、「たまごの会」という市民活動を始めました。

「たまごの会」は、茨城県の八郷に自分たちの農場を開き、会員の数名が農場で野菜を栽培し、鶏や豚を育て、東京の会員に野菜や肉を配送するという活動へと発展していきました。

「たまごの会」は、「農的暮らし」を目指す明峯さんたちと、有機農業の契約農家として活動を展開することを目指す人たちとで意見が分かれ、明峯さん夫婦は農場を離れて東京に戻りました。

私が、明峯さんと出会ったのは、明峯さんが、東京に戻り、「都市を耕す」という活動をしていたころでした。

毎週月曜日、予備校の講師室で、明峯さんと議論するのが、1週間の楽しみでした。明峯さんは、自分の書いた原稿のコピーを持ってきて、「これを読んでみてください」といつも渡してくれました。

東日本大震災をきっかけに、茨城の予備校は閉鎖になり、私は海外に移住し、明峯さんは福島の有機農業の支援に向かいました。

明峯さんとのやりとりが、その後、私が活動を始めるきっかけになりました。

明峯さんが亡くなった後、明峯さんの著作を時代順に読み直していきました。あのとき、講師室で話していた背景が、著作を読むごとに見えてきて、明峯さんの言葉がよみがえってきました。

そして、明峯さんに対する連載をブログに書きました。

明峯さんが語っていた言葉「それでも種をまこう」は、私の心に残っていて、まかれた種は、そのときには発芽しなくても、条件が整ったときに発芽するのだと気づきました。

明峯さんが私にまいた種は、数年後に発芽しました。私がまいている種も、必要な時に発芽するでしょう。「種をまく」という考え方は、その後のプロセスを自然に任せるということでもあります。

姜 咲知子さんとの出会い

姜 咲知子さん(私は、彼女をイェジンと呼んでいるので、以下、イェジン)とは、2018年から知り合いなのですが、2019年に、彼女が、明峯さんたちが開いた農場で暮らしているということを知りました。

「たまごの会」のことは、何度も話に聞いていたけれど、その農場がどこにあるのかも知らず、日常に忙殺されていました。

農場は、茨城県の八郷にあり、「暮らしの実験室 やさと農場」という名前で40年以上続いていました。

居ても立ってもいられなくなった私は、2019年3月にやさと農場を訪れ、そこでワークショップをやらせていただきました。明峯哲夫さんのパートナーの明峯敦子さんもいらっしゃって、当時の話を聞かせてくださいました。

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イェジンとは、それをきっかけに心で響きあう仲間になりました。

イェジンが、全力で取り組んでいる茨城原発県民投票を、何とかして実現したいと思っています。

この活動には、亡くなった明峯さんを含め、多くの人の想いが乗っています。

茨城県初県民投票を実現したい!話そう 選ぼう いばらきの未来

クラファン実施中。残り7日 現在132%(Next Goalへ挑戦中)

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