文学座クラウドファンディング、その後

今年の2月に ↑ こんなことを書いた。最近そのクラファン特典である「オンライン対談視聴権」としてのYouTube動画『文学座の100周年、その先へ』を視聴した。

私は二回に分けて支援を行った。添付した二月の投稿は、一回目の支援の後に書いたもの。そこでは「当面の経常運転資金に充当するのではなく、今後の投資に充てて欲しい」という主旨の意見を表明した。実際にどのような使途となったかはわからないが、動画にあったような、今後どうしたいかといった点を知りたかったので、「文学座の100周年、その先へ」を非常に興味深く視聴した。

コロナ禍の影響で劇場に足を運ぶ機会が激減した影響は大きく、以前なら種々コミュニケートできた演劇人の皆さんのナマの声を聞かなくなって一年以上が経過している。その点、「対談」を通じて多数かつ世代を超えた劇団員の想いを知ることができたのは良かった。「対談」(実際は座談会的な感じだったかな)に加えて数名のコメントも紹介されており、その中にも傾聴に値する意見があった。

最若手が「フランクに或いはフラットに意見を交わす機会が減少した」と切り出した。「劇団の良さは、経験値を問わず自由闊達に意見を出し合えること」であり、そのような機会が減ることはクオリティの維持向上に(中長期的に)影響があるらしい。確かにコロナにより、直接的には経済的な影響があり、更に加えて作品のクオリティ維持向上への危機感があることは、外部の素人には新たな発見であった。人となかなか会えない時代になり、血の巡りが停滞してしまう、と。

劇団員の新陳代謝も必要で、大ベテランの物故が相次ぐ中でも新たな人材が入ってくることで刺激が生まれる。経済的には負担であっても教育(ここでは研修科の事業を指す→研修科から新メンバーを加えていくという仕組み)は止めてはならない、とも。刺激という点では、外部演出家の起用とか、外部作家による作・演出、或いは外部俳優とのコラボなども提案がなされていた。気心の知れていない世界から得られる変化への期待、ということか。

また、欧米諸国との比較において、この国に演劇或いは舞台という文化が浸透していない点が変わっていけばいいといったコメントがあった。平田オリザ氏も同じようなことを週刊文春でも書いていた(「演劇をやることが音楽を聴いたり絵を描くのと同じくらい、当たり前のことになってほしい)」が、これは芸術教育の在り方の問題でもあり、文科行政とも絡むので、ちょっと話は大きいか。

一方で、個人的に大事なポイントと思った点がある。「誰を意識するのか」ということだ。「面白い作品」もいいが「本物の作品を届ける」ことが求められている、或いは文学座には大道(おおどう)を、という大御所評論家のコメントへの言及があった。エンタメが多様化する中で、若い人たちにどう興味を持ってもらうか、温故知新の「新しきを知る」が不足していないか。劇場だけではなく様々な媒体を通じて、届けたいときに求める人に届ける。ここを突っ込んでみたい。

演劇は総合舞台芸術であり、本物を届けたいという芸術家の矜持は十分に理解できる。一方で、それが「本物」であるかどうかは誰が評価するのか。

「心に残る」作品という言葉があった。上演中のある場面で心が動くことはよくあることだ。そして終演後に思わず立ち上がり拍手する、これも時にある。では、その後年月を経て本当に「心に残る」或いは人生の局面において何等かの影響力を及ぼすような作品がどれだけあるだろうか。

〇〇演劇賞とか、演劇雑誌の劇評は、その道の専門家とされている人の意見が反映される。ではそれが市井の一般人の声を代弁しているか。その意見に忖度はないか。一点の曇りもないか。

本物という基準はどこにあるのか。絶対的なものは存在せず、結局は主観。作品を提供する側が「これは本物ですから」と言っても、受け取る人が心底「本物」と思えるだろうか。演劇作品というメディアを通じて、提供する側の想いを客席側の私たちが受け取る。そこにギャップがあるのが当たり前、という芸術家の上から目線は確かに存在している(と少なくとも私は感じている)。そしてその芸術家の作品の良し悪しを評論する。ここにも上から目線があり、多数の一般観客の想いから乖離があるようにも思える。一般観客も「〇〇の作品だから」「評論家が高く評価していたから」を自分の評価の軸にするケースがままある、かな。少なくともそういう時期は私にもあった。

作品を消費するという表現がある。終わると忘れ去られて残らない、という意味だろう。それだけに「心に残る」の方が「本物」より大事じゃないかな。評論家が何を言おうが、観客の心に残ればそれはその人には本物。私にとっては、作品に触れる場所がリアル劇場であっても、TV放映やオンライン配信経由であっても、いくつかは心に残っていて、それが本物かなと思っている。「誰を意識するのか」→評論家というよりは多数の観客、という意識づけが大事のように思えるが、現実はそうでないようにも…。

そこで「知新」が不足しているというAさんの言葉に辿り着く。「様々な媒体を通じて」というBさんの主旨にも。これからのマーケットは、これまでのマーケットとは異なる。危機を契機に大きな成長を遂げるには、従来の考え方からの切り替えが必要。

対談の中で「温故」的なコメントがあり、これは伝統の継承という点で必要だと思う。でもそれだけでは今の苦境から本格的に脱却することは難しい。ファンディングで得た資金は、本来は一部でもいいから投資に充てて欲しいとは思うが、それはそれとして、「支援者の想いに応える責任がある」「劇団員の意識が変わった」という「意思」の部分に変化があるとしたら、まさに従来の発想に何か新たなものを加える、そのきっかけにこのクラファンがなればいいのかな。

例えば「作品を熟成させるために40日もの稽古期間が必要」。「本物」を作り上げたい、「本物」を届けなきゃ、といった「本物からの呪縛」があるように思う。稽古期間を劇的に短縮し(それによるコストは削減できる)、ゲネプロは有料(但し格安)とし緊張感を持たせ、プレビュー、前半中盤後半と徐々に完成度が上がるにつれ値段に多少の色を付ける、といった発想はありじゃないか。

作品に触れる対象を広げるのに劇場以外のメディアを活用しつつ、一方で劇場の特別感を際立たせる工夫もあっていい。それはサイン入りパンフかもしれないし、アフタートークかもしれない(アフタートークの中身も重要だが)。でも何が特別感か。それは提供側が考えるというよりは、受け止める側が何を求めるかが大事だし、そのサーチはやってみる価値がある。

答えは一つではなくて様々な試行錯誤があっていいだろう。挑戦に対して、支援者は寛容であるはずだから(程度問題ではあるけど)。それでもトライアル或いは挑戦による前進感は必要。

最後に。司会役のXさんが紹介していた、「対談」撮影クルーのYさん。実際にクラファン実施の原動力となったこの方が、今何を考えておらえるか、聞いてみたかった。


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