思潮〜2019年の総括〜

最近印象に残った言葉がある。戦前の治安維持法下で軍部による独裁や言論弾圧を激しく批判したジャーナリストの言葉で、名前を桐生悠々(1873-1941)という。「他山の石」に次のように書いている。 

《人間は他の動物なみに概して安心せしめられるよりもおどかされやすい動物である。特に群衆心理が手伝った場合には常軌を逸して、狂態をすら演ずる。狡猾なる政治家はこの群衆心理を利用して自家の利益に資する。国民は心して、そうも容易におどろかされてはいけない》(他山の石 1937年7月5日)

文面を読んで思う。まったくもって古さを感じない。むしろ既視感しかないのはなぜだろう。あの時代の潮流が今とおそろしいくらいに酷似しているからなのか。人間のあらゆる側面を総じて問われる瞬間ないしそうした出来事に遭遇しない限り、内省や総括をすることができない。またはそうなってからでも総括し仕切れぬ怠惰極まりないこの国の国民性を極めて示唆に富んだ筆致で表しているからなのか。どちらも当てはまりそうな気がする。

集団心理に惑わされる人々が多い一方で、そうした人々の多くは一見するとみな善良であるように見える。またこの国の民族は他の民族とは一線を画するほどに勤勉だと思う。一方で大変まとまりやすい性質を持っている。それには功罪という二面性があることは言を俟たない。だがその実態に気付いている人がどれだけいるのか。非常に気になるところだ。 

私は孤独と仲が良い。だがそうさせているものはなんだろうかと考える。おそらく万人受けしないようなものを好む性質があるからだと思う。正直、上に書いたようなことを書いても一体どれだけの人が共鳴してくれるか。かなり少数派だと思う。

今年は昨年までと大きく異なる点がある。それは自らの立場だ。学生と世の中に出て働いている人。俗に言われる「社会人」という部類か。私はあまり「社会人」という言葉を好んで使いたくはない。同様に「就活生」という言葉もそうだ。「就職活動中の大学生」という表現だとしっくりくるが、「就活生」って一体何なのか。もとをただせば大学生であるにもかかわらず、これでは就活のために大学生をやっていますよと自らそう晒しているようにしか見えない。大学という学府の最高機関はいつから就活予備校になったのかと問われても仕方がないだろう。

経団連の調査で企業が学生に対してどういった力を求めているのかを問うたところ、まず筆頭に挙がるのが「コミュニケーション能力」だという。これも「コミュ力」という言葉で簡略化されて巷に流布してからというもの久しい。よく若者を一括りにして最近の若い人は「コミュ力がない」とか「付き合いが悪いね」などという不届き者が多くいるが、そうした人こそ熟考が足りないと言わざるを得ない。実際に生身で会話をしてそう思うのならまだしも、単純化されたイメージで物事を語っている人が圧倒的多数を占めているように思えるのだ。そうした一面的評価をすることに何の後ろめたさも抱かないことに対して憤りを感じざるを得ないのは私だけか。

通信技術の発達により人々が情報を送受信する速度は圧倒的に速くなった。一方で情報を精読したり文章の行間を味わうことが軽視される。そのような風潮が同時に勃興してきていることは無視できない。豊かなインテリジェンスを育む上ではこうした地道で興趣の尽きぬような体験を決して怠るべきではないと思う。それは自己啓発本に読み耽り、正しい答えはこれしかないんだという極めて狭隘なのとは正反対の営みである。単一的な正答を強く訴求する風潮が強まっている背景には不安という名の魔物が各々の心の中に潜んでいるからか。私だったら文学作品や社会問題を扱った書物をおすすめしている。

そうした世の中の風潮がひいてはどういう人々を形成していくことになるのかは火を見るよりも明らかであろう。つまり考えない人間が増えていくのだ。考えないことは実に楽なことである。だって考えなくていいのだから。さらにいえば学校、職場あらゆる環境において無思考の連鎖が生まれれば、規定の路線にはまっているのかが第一義になってしまう。つまりより良い社会を作るための方策として、いま自分に何ができるのだろうかという視点は自然淘汰されるのである。そのような社会にもはや寛容さを求めることこそがあほらしいようにも思えてしまう。

いずれの観点において共通することは、人々が分かりやすさというものを過度に訴求した結果ではないのか。見栄えや流行はそうした要素の一つとして当てはまるだろうが、分かりやすさをあまりにも求めすぎているに違いない。一見、誰もが使っている言葉が誰かを傷つけたり、誰かをふるい落とすような表現になっていまいか。よく慎重に吟味する必要があろう。

古今東西、いつの時代にもどこの地域にも権威や妙なしきたりに抵抗する人々は孤独と隣り合わせだった。でもきっと分かり合える人がいる。その人と柔らかく手を携えていけばささやかであれその先の展望も見えてくるのではないのだろうか。そんな期待を2020年に込めたいと思う。来年もこの小欄にお付き合いいただけたら幸いだ。皆さまどうぞ良いお年を。

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