空疎なイメージビデオとは一線を画するアーティストの言葉

小欄は一週間ぶりのご無沙汰である。何を書こうにも思い浮かぶのはコロナの話題ばかり。頭の中を覆うコロナ災禍に平常ではない心の絵模様を重ね合わせながら、一体いつの時代を生きているのかという時代錯誤を感じずにはいられない。とっくの昔から政権の愚策を見抜いてきたつもりであるが、今はそんなことを考えるのもあほらしいと思えてしまうくらいにどこもかしこも感覚が鈍麻してきたような気がする。おそらく私だけではないだろう。生きるという人間本来の誰もが持つべき最低限の尊厳を踏みにじってくるような権力の側の人間にしなやかに中指を立てる練習でもしてみるか。せっかくの長い休みである。当初のニューヨーク行きはなくなった。毎朝、鏡の前で中指の立て方の研究に勤しむのも悪くはない。こんなことを書いている自分もあほの類に入るのか。

 「逆さまの世の中」シリーズを連載してはや2年が経過した。2年前の今頃は新聞社の就職試験に集中していた。それも今では懐かしい。しかし2年後、世界中の人々がこのような疫病の災禍に遭遇するなどとは、まさか想像していなかったことではないか。この間、電話やFacebookのメッセンジャー等で高校の仲間や恩師と連絡を取り合った。皆、口々に言うのは「この先どうなるのだろう」という不安の声だ。私自身も出口の見えない状況が続くことを憂えている。実際に会って食事を共にしながら世迷い言を語りつつお互いが抱える問題意識を共有する。あるいは都会の雑踏にあえて自ら足を踏み入れ、世の中全体がどうなっているのか。街をふらつきながら世相を感じることだって厭わなかった。しかしこの災禍によりそうしたことすべてができなくなったわけだ。不用意に何かを語ることすら憚れるほどの事態である。誰もがピリピリしていて、どこかの自警団が自分のことを袋たたきにするのではないかとも思ってしまう。

 「バカな大将、敵より怖い」とは誰かの言葉である。Twitterを開いていたら安倍晋三と星野源が並んでいる動画が目に入ってきた。最初は誰かが政権を批判する目的であえてつくったものかと思った。しかしよくみると、安倍本人の公式アカウントから投稿されたものだった。反吐が出るとはこのことを指す。菅官房長官は「いいね」の数がこれまでて最も多かったと言っていた。首相の側近や官邸の人間はこの投稿を見て何も思うことはなかったのか。

 緊急事態だと称しておきながら、首相自身はブルジョアを気取る。自らは優雅な生活をしているのだとひけらかし、今般の事態によって生命の危機に瀕している市民の窮状には何の思いを馳せようともしない。「飲み会ができない、友だちにも会えない」ではなく「あすの暮らしもままならない、生きていくことさえ難しい」ではないのか。想像力の欠如も甚だしい。

 一緒に動画に映っている星野源は著書『働く男』(文春文庫)にこう書いている。
 
 今でもたまに「音楽で世界を変えたい」と言う人がいる。僕は「音楽で世界は変えられない」と思っている。無理だ。音楽にそんな力はない。でも、音楽でたった一人の人間は変えられるかもしれないと思う。音楽は真ん中に立つ主役ではなく、人間に、人生に添えるものであると思う。国を変えるのはいつでも政治だし、政治を変えるのはいつでも金の力だ。そこに音楽は介入できない。できたとしても、X JAPANの楽曲を使って型破りというイメージを定着させた小泉純一郎のように、ただ利用されるだけだ。でも、音楽でたった一人の人間は変えられるかもしれないと思う。たった一人の人間の心を支えられるかもしれないと思う。音楽は真ん中に立つ主役ではなく、人間に、人生に添えるものであると思う。人前で歌を歌うようになって、自分の歌で客席で泣いているおじさんを見たときに思った。どうかこの歌があなたの人生の役に立ちますように。僕の歌は応援しかできない。苦しい日々を変えたり、前に進めることができるのは、あなた自身、たった一人しかできないことなのだ。

 集団での論理で物事を捉えようという安倍とは対照的な個に立脚した捉え方をする星野源の知性あふれる言葉が、なぜかこの災禍に響く。一国の首相が投稿したイメージビデオとは大きく一線を画する。全国のコンサートホールや劇場、美術館などで軒並み休業の事態となっている今こそ、文化的なものを通じて、人々の良心やそういった感覚に訴えるような言葉を大切にしたいと思った。

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