米抗議デモから見えてくるもの

6月に入ってからというもの急に蒸し暑くなった。身体にまとわりつくようなじめっとした肌ざわりが早くも真夏の到来を予兆させるかのようである。おまけに季節柄には合わぬマスクをつけての外出にもうんざりしている。顔はもはや蒸しパン状態。背中をしたたる汗は例年以上であるから脱水の兆候にも例年以上に注意しなければならない。

アメリカでは過去数十年で見たことのない規模のデモが繰り広げられている。ミネソタ州ミネアポリスで46歳の黒人男性が白人警官に暴行され死亡した事件を受けて、全米各地で大規模な抗議活動が行われ、その規模は1968年の「公民権運動」以来ともいわれている。新型コロナウイルスによる感染拡大が、トランプ政権になってからたびたび取り上げられてきた米社会の格差拡大をより一層顕在化させ、人種差別というファクターのみならず、コロナ禍によって明らかになった格差拡大や少数者に対する迫害など、社会的問題のあらゆる側面から抗議の動きが広まっていることが窺える。

学生時代にアメリカに留学した経験を持つ高校時代の仲間(Sさん)が、ツイッター上で今回の事件を受けて次のように発信した。

「とっても根深い問題で今すぐに解決することでもない。でも自分には関係ないって思ってるのが間違い。無知は犯罪」

身近な仲間がこうして自分の考えをツイートしている例は今まで見たことがなかった。多くは流れてくる情報を鵜呑みにするだけで、問題の核心に触れようとはしない。しかし問題の核心に触れたとき、人は初めて自分の主張を他者に伝えられずにはいられなくなる。彼女もまさにそのような状況に至ったからこそツイートしたのだろう。

先日、そのツイートをした彼女ともう一人、学生時代に渡米し留学経験を持つ高校時代の仲間(Cさん)とLINEのビデオ通話で直接話をうかがった。特にSさんにはなぜあのツイートをしたのか。そこまで心が動いている理由は一体何なのか。その答えを聞き出そうとした。しかし話しているうちにそうした疑問はどこかに消えていた。彼女の発する言葉にある種の率直さがあったからだ。

Sさんはこの4月までアメリカのカリフォルニア州にいた。しかし新型コロナウイルスの感染拡大により帰国。現地では自閉症のセラピストとして働いていたそうだ。教育に携わる立場として人種の差異にこだわらず、誰もが社会の構成員として生きていく権利があるのだという考え方を、様々な人々と接する中で育んでいったという。

電話の中でSさんは「彼ら(黒人)はこれまで300年もの間、外出をしたら自分は殺されるかもしれないという恐怖に晒されながら生きてきた。そうした歴史の後ろ側を見ずに、日本のメディアは黒人か白人かの二項対立で物事を単純にさせようとしている」と、黒人差別の経緯やその歴史的背景をもっと伝えるべきだと訴える。

またCさんは「黒人の子を持つ親が、自分の子どもに対して黒人であることを理由に「出歩くときは気をつけて」などと後ろめたさを抱かせるような声かけをしている。黒人も同じ人間であるという考え方を今こそ広めなければそうした歪んだ良心も残り続けてしまう」と述べ、当事者の側の苦悩を告白した。

2人が共通して述べていたことがある。それは日本にいるからこそ感じる日本の人たちの事件に対する関心のなさだ。物理的な距離も背景にはあるのだろうが、差別と偏見の脅威をどこか対岸の火事でしか見ていないような気がするというのである。その点は私自身も常に感じている。自分たちがいつでも差別や偏見を無意識的に行なっているかもしれない。換言すれば、無関心であるがゆえに、もしかしたら自分も差別扇動の側に回っていないかという負い目を抱いていないからなのだろう。そうした細やかな感覚が欠如している社会に生きている自分たちが果たして本当の意味であらゆる差別を根絶できるのかと問われると、当然のことであるが疑問符がつく。メディアが先鋭化したデモ隊の映像ばかりを繰り返し流せば、たいていの無思考な世論はそれを仮であれど事実として認めようとしてしまうし、問題の本質からはより一層、離れていってしまう。メディアの側による世論誘導は市場原理など背景となる問題が多々あろうが、健全な洞察力が市民の側にとって必須であることには変わりない。

今回の事件はもはや遠い国で起こっているからでは済まされない。市民が声を上げることで権利を勝ち取ってきた歴史的経緯がある。それは女性参政権の問題にしても同様だ。2020年の現在地を示すためにも必要な市民としての行動が何であるのか。私もあらためて考え直したい。

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