裸の心

駅前にある商業施設は、先日から一部の店舗で営業を再開した。退勤後に少しばかり店内の様子を覗いてみたが多くのテナントが感染防止対策の一環として透明な仕切りを設けていた。そして従業員は皆マスクの上からさらに防護用のフェイスシールドをかぶっていた。コロナ禍以前の通常の光景が当たり前のように映っていたのが遠い昔のようで、一体自分たちはこれからどういう世界を生きていかなければならないのだろうか。そう考え始めた途端に何か土産物でも買っていこうかという気力も失せ、気がつけばそそくさと店を出ている自分がいた。

人との距離を常日頃から意識しなければならない社会が到来するなど、つい数ヶ月前までは想像すらしていなかったことが現実に起きている。誰かと飲み食いを共にして日頃の憂さを晴らしたり、普段は語れない心の奥底に宿る本音の数々を互いに明かし合う。そうした意思疎通は実際に面と向かって会ってこそ得られる興趣である。合わせて密接でなければ人の気持ちは正直にはなれない。それがすっかり煙たがられる世の中になってしまうことを思うと、何か新しい関わり方を模索するしかないのかとも思ってしまう。無論、直に会わなくとも今の時代はオンラインでいつでもどこでも誰とでもすぐにやりとりができる。でもどこか置き忘れてしまったものはないだろうか。

政府はあすにも1都3県と北海道に出されている緊急事態宣言を解除する方針を固めた。この間、人々の生活スタイルは目に見える形で変化した。そのためか今まで意識していなかった事柄が突如として顕在化した。ソーシャルディスタンス、在宅勤務、ハンコ文化、リモート面接、おうち時間。ウイルスの脅威とともに、耳慣れない言葉を聞くことの多かったことを思えば、資本主義という既存のイデオロギーは決して完全無敵ではないということだろう。ウイルスという脅威は人種、国籍を問わず誰にでも訪れる。そして日本の小泉・竹中以降の構造改革、新自由主義的政策がそうした感染症の脅威に対していかに脆弱であることを物語る。

社会的な距離が保たれる世の中になろうとも私は変わらない。人との会話、言葉を交わすことの営為、哲学的な思考を伴ったものの見方・考え方を顕示し続けていたい。相手の裸の心を見つめ続けていくことによって、社会的な距離の意味が分かってくるのではないのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?