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足摺七不思議。犬塚。 犬なんですが。

そりゃね。慕って追いかけましたよ。

~犬塚~
その昔、お坊様が
「この乱世を立て直す為、一国一城の主となり生まれ来たらん」
と言い、手の腹に南無阿弥陀仏と書き、その手をにぎりしめ、
この断崖から身を投じたという
そのお坊様を慕っていた一匹の犬が、この場所から動こうともせず飲まず食わずひたすら待ち続け、ついに息絶えた。
村人はその姿を哀れと思い、この場所に犬塚を建てたと言われている。
そののち幾百年が過ぎ、土佐藩は山内家となり二代目忠義公には手の腹に黒い生印があり、その言い伝えを知った忠義公は「自分はそのお坊様の生まれ変わりではないだろうか」と思うようにになり、足摺山金剛福寺を深く信仰し度々参拝に訪れている。又、本堂、仁王門、十三重の塔など数多くのものを寄進している。それ以来金剛福寺は山内家と同じ丸に三ッ柏の家紋を頂戴している。
~犬塚 看板写し~

でもね、いくらなんだって「一国一城の主」と言ったってね。
「二代目の山内忠義公」に生まれ変わることはないでしょう。

土佐を治めていた長宗我部氏というのは、もともと飛鳥時代の秦河勝の後裔とされる「由緒ある家柄」。
一方、山内一豊は、信長や秀吉の部下として「出世した戦国大名」。

どこの馬の骨ともわからない成り上がりもの達と、
誇りある旧家の家格を持つもの達。
仲良く出来るはずがない。
当然。元長宗我部の家臣たちの内乱が頻発。

あまりの郷士たちの反発に業を煮やした
初代藩主、山内一豊公は、郷士達をだまし討ち。
長曽我部家の遺臣らを桂浜の角力大会に招待し、その場で彼らを捕縛。
73名をいきなり磔(はりつけ)にして殺害。

城下は日々斬り合いが絶えないという殺伐とした状態。戦は続いている。

そのなかで山内一豊が逝去し、
一豊の養嗣子であった山内忠義が二代藩主となる。

一豊の血を引くものでなく、弟の血だよ。山内家、家臣達の信頼も薄い。
まさに状況は、「門前の虎後門の狼」じゃない。

お慕いしていたお坊様が、こんな大変な目に合う「山内忠義公」に生まれ変わっちゃって、それを追っかけてきたら。今度は、犬から人になっちゃた。
しかも、しかもですよ。野中兼山として。 足摺山の仏様。ちょっとやりすぎ、近すぎますよ。

野中兼山が土佐藩の家老職として総奉行に就いたのは、
上士と郷士の対立が極限に達していた頃。

若干21歳の若者。
兼山に藩政改革の一切を委ねたのですワン。

なぜ兼山が選ばれたのかというと、
すでに藩内の騒乱は極限に達していたからです。

これを治める総責任者になるということは、失敗すれば、即、切腹。
ですから、家老衆は、総奉行になることを拒み、責任から逃げ、
兼山に土佐行政のすべてを押しつけたわけです。

まぁ大変。
とはいえまずは、もめごとの解決。
だいたい、腹がへったら怒りっぽくなるし、眠たいとむずかるものです。

安心して、枕を高くして、寝られることの幸せ。
お腹いっぱい食べられることの幸せ。
これさえあれば、みんな幸せ。

山内家の家臣を上士として藩の上級武士として高位を与え、
郷士の身分は低く据え置く代わりに、郷士たちの生活を豊かに。

郷士に未開の土地の開墾を命じ、新たに開墾した土地は、全部郷士たちに所有を認めました。

長曾我部の侍たちは、反乱の争いをやめ、争って土地の開墾をはじめました。土地を開墾し、孫や子が食べれるようにしていこうと努力するようになったのです。

上士は、安心して眠る幸せ。
郷士は、満足に食べる幸せ。

まぁそこから、土佐藩の総奉行を30年間勤め、藩内の揉め事を一掃。

人としての後半。
藩公が急逝し、三代目藩主が後を継ぐ段階に至ると、
「嫉妬」が物の怪になり、野中兼山を襲う。

藩内に、野中兼山の中傷を撒き散らし、藩内の数々の矛盾や不足を、
ことごとく野中兼山の「せい」にしたのです。

そして若い三代目藩主に対し、
「これまで兼山は、藩政を私物化して壟断し、筆頭国老の体面をも踏みにじり、目に余る独断専横を行ってきた」

と、兼山打倒のための「弾劾書」を提出しました。

内容は、
一、武士たちが租税で苦しんでいる
一、農民たちが工事で苦しんでいる
一、町人たちが御用金で苦しんでいる、
というものです。

そして彼らは、農民、漁民、町人の代表を呼んで、藩主の前で藩政への苦情を上申させました。

ぜんぶ小芝居。

そもそも封建制度の中にあって、民衆に藩政を公然と批判させるなどということは、通常ではありえないこと。

それをやったのです。

ところが見かけ上は、筆頭家老らが藩政を憂いて決意を新たにした真摯な態度を装っています。

「ふだんは民のことなど考えもしない彼らが、この時ばかりは“民の声”を持ち出した。ここにも彼らの狡猜さと、いかに追放の口実を欲していたかを見ることができる。事実、土佐藩において、このように民の意見に耳を傾けることなど、このあと、ただの一度もなかったのである。」
 (『野中兼山』横川末吉著 吉川弘文館)

彼らは民を「利用」したにすぎなかったのです。
筆頭国老らの「弾劾書」が出でから、
わずか十日後、野中兼山は、総奉行職を解かれ、蟄居が命じられました。

野中兼山は、「藩主中心の土佐藩」を築くことに半生を賭けてきました。

ところが「藩主中心の土佐藩」という美辞麗句で職を追われたのです。

言葉は同じ 「藩主中心の土佐藩」 です。
しかし、
藩主を中心に藩の民が潤う善政をひくという意味での「藩主中心の土佐藩」と、藩主の地位を利用し、藩の高官の保身を図るという意味での「藩主中心の土佐藩」では、その本質はまるで違います。

でもまぁ。

その昔、お坊様が
「この乱世を立て直す為、一国一城の主となり生まれ来たらん」
と言い、手の腹に南無阿弥陀仏と書き、その手をにぎりしめ、
この断崖から身を投じたという
そのお坊様を慕っていた一匹の犬が、この場所から動こうともせず飲まず食わずひたすら待ち続け、ついに息絶えた。

お慕いして、追っかけて、お役にたてたら充分かな。

野中兼山の言葉。
この堤は、未来永劫切れることはないよ。
なぜなら野中兼山、
私のためにひと塊の土、ひと筋の水も動かしていないからだ。
すべて藩主のため、領民のため、ひいては日本国のためです。
この心は、誰も知らなくても天のみ知っている。

同じく野中兼山の言葉に、次のものがあります。

たとえ90歳、100歳まで長生きしても、死後ひとりもその名を伝えないのでは、虻(あぶ)も同然である。長生きの甲斐もない。

犬塚。主役は、白い犬なんですが、お坊様のお話し。

えっ。
白い犬なんですか。
そう。
「尾も白い」(おもしろい)

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