異端を攻むる(考究する)は、それ害のみ V.1.1


第1話 異端を攻むる(考究する)は、斯れ害のみ

   学問・技術などで、すべて正道をはずれたものを異端という。
  そして、(正道ばかりか)この異端をも考究するのは、結局、益よりも害が多い。
  やはり、奇や危を追う(考える)よりも、正道を踏んで堅実に勉強することが、成功への本道だ。(論語)
  「中国古典名言辞典」講談社学術文庫

 かつて日本(大和)は、韓国(百済・新羅)経由で中国の文化・文明を学んでいると、正統でない・紛い物・偽物を学ぶことになり、そんな学問・考究をしていては国を危うくするということに気づき、直接、中国と交流することにしました。
  これが遣隋使の事の起こりであり、聖徳太子の英断でした。

<聖徳太子>

  推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行う。憲法十七条を制定、遣隋使の派遣を行なった。(574~622)
  広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店)

<遣隋使>

  大和政権から隋へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子(おののいもこ)ら、614年に犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)らと計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されている。6回派遣されたとする説もある。 広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店
 → 遣唐使

  正統な国家、正当な人物、業界スタンダードな流儀に目を向けることで、「自ら其の意を浄う」すべき。これが日本という国家の正しい始まり(第一次文明開化)であったのです。
諸悪莫作 (諸々の悪をなすことなかれ)
衆善奉行 (もろもろの善を奉行せよ)
自浄其意 (自ら其の意を浄うする)
是諸仏教 (これ諸仏の教えなり)

  日本の韓国脳「三大裸の王様」を見ていては、こちらまで惘(くら)くなる(蒙昧:知識が開けず、物事の道理に昧(くら)いこと)。曰く「朱に交われば赤くなる」「バカが移る(病気などが他に感染する)」と。

  私たち在来種日本人は、もはやそんな「ネオンサインの神」「痴愚神」などにかまわず、まともな国や正しい民族の、政治家やマスコミ・警察に目を向けることで、自らの魂を高めるべきではないでしょうか。
  私自身、若ければ南米にでも行き、まともな人間や社会のなかで人生を切り拓くのですが、この歳では日本で死ぬしかない。
  せめて、冥土のみやげに本物を見ながら死んでいきたい。偽物を見ながら死んだら、正しいところへ行けなくなってしまうのだから。

  そんな、私のような無気力・無批判の人間ばかりになることこそ、衆愚政治・愚民政策を目指す彼ら韓国脳たちの「思うつぼ」ではありますが、まあ「禍福はあざなえる縄のごとし」、100年・1,000年経てば、やがて再び在来種日本人の時代がやって来るにちがいない。

「The Sound of Silence」 by サイモンとガーファンクル

・・・
And the people bowed and prayed
そして人々はひれ伏し祈る
To the neon god they made
彼らの作ったネオンの神に
And the sign flashed out its warning
かたどられた文字列を警句として
In the words that it was forming
ネオンサインがきらめき
And the sign said, the words of the prophets are written on the subway walls
(安物の)予言者の言葉は地下鉄の壁に
And tenement halls
安アパートの玄関に書かれている
And whispered in the sounds of silence
沈黙の音の中でそうささやく

ソングライター: Paul Simon 訳詞:Kei

  50年以上前の(アメリカの)歌ですが、まさに今の日本を予言していました。
  町中に貼られた政府広報・警察からのお知らせというセンスのない・俗っぽいポスターによって、駅や街頭が汚されている。
  台湾でも欧州でもアメリカでも、電車の中・バスの中、駅構内、街頭に日本ほど偽善的なポスターがベタベタ貼られている(税金の無駄使い)国は無いだろう。
  電通や博報堂といった大手韓脳広告代理店のパワーを感じます。

  「オレオレ詐欺に注意しよう」なんて、真実を語らないのは自分たちではないのか。
  詐欺師たちの使う「顧客リスト」の出所を知っているくせに、わざと野放しにして事件を起こさせる。これが「マッチポンプ」というもの。この世の詐欺とは、すべてマッチポンプであり、「警察に絶対に捕まらない元締めがやっている」(ヒッチコックの映画「サボタージュ 」1936年 )のです。

第2話 本(もと)を務(つと)む。本立ちて道生ず(論語)

  人はすべて、何ごとについても、末梢のことや、形だけにとらわれないで、根本を把握するようにすべきであり、根本のことをやっていれば、あとは自然に方法は立つものだ。
  この場合の「道」は方法の意。務本。本立而道生。
  この語から儒学は「務本(むほん)の学」ともいわれる。
  「中国古典名言辞典」講談社学術文庫

  かつて、中国が五胡十六国の時代より、夷狄に国を引っかき回され続け、13世紀にはモンゴルの軛(くびき)のもとで100年間自由を奪われ、19世紀には、アヘン戦争の敗北によって英国を始め西洋の貪欲な列強に国土を食い荒らされ、中国全土にアヘン(麻薬)をばらまかれて国民(人民)の精神は廃人のようにボロボロにされ、20世紀には日本に侵略されて存亡の淵まで追い詰められた中国人が、なぜ21世紀の今、不死鳥のように復活を果たしているのか。

  それは、彼らが何百年のあいだ被支配者であっても奴隷のような境遇にあっても、「中国人(漢民族)としての本を忘れなかった」からなのです。

  日本もやはり、明治維新(1867)より今日までの100年有半、欧米列強に操られた天皇とその一味によって、男と男が結婚するとかわけのわからない法律だの社会常識といった「アヘン」が蔓延し、見かけだけ好景気の下、精神的頽廃と政治屋・警察屋の腐敗、マスコミの堕落(マスコミとは元々堕落した企業)によって、21世紀の現在、かつての清朝末期のような様相を呈しています。

  ここは一番、聖徳太子の時代に戻って、「本を務める」精神に変えるべきではないでしょうか。

  日本の第一次文明開化(聖徳太子の時代)の本(もと)となった中国(の古典思想)に再び学び直そう、というと、プライドばかり高くなった日本人はよしとしないでしょうから、まあ、せめて「不死鳥のように甦った中国に目を向け、教訓とすべきところは大いに学ぼう」としましょう。

2024年4月12日
V.1.1
平栗雅人

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