The noble science としての大学日本拳法 V.3.1
第1話 魂として存在できるか
私の願いとは、あの世でモハメド・アリや、リヤカーを引いて世界一周をした日本人とか、大学時代に原付バイクで日本のすべての都市を走破した、なんていう人たちと話をすること。そういう真実を見た人・真に存在感のある人たち(の魂)と波長が合う人間に(生きている間に)なりたい、ということです。
すでに物故されたアリ以外、皆さん私よりもずっとお若いので、私が向こうで待つということになりますが、「西遊記」にも書かれていることですが、この世の10年があの世では指パッチン(1秒)くらいの長さ(短さ)なので、すぐにお目にかかれるでしょう。
彼らのようなリアリティー(現実味)のある、本当にこの世で存在することができた人(魂)と話していれば、来世までの何十億年、何兆年でも退屈しないでいられる、という(私流のお気楽な)考えなのです。
英語ができないとか、知識や教養がない、生前の地位や肩書きがどうこうなんて関係なし。要は、彼ら「現実に存在した人」たちは、必ずあの世でもしっかりと存在している(存在する)のですから、この私もまた(生前、何の偉業も成し遂げなかったとはいえ)狂気の商社時代における「真剣勝負の心」を彼らとの共通項として、たくさんの素晴らしい人(魂)と心で話ができるにちがいない。
まことに自分勝手な考えなのですが、この世で真剣に生きてこなかった人間とあの世で会うこともないし、さすれば、来世でもない。
大学時代の在日韓国人の恐ろしい先輩とは会いたくありませんが、そこで苦闘した炎天下1ヶ月間の狂気じみたキツい仕事のおかげで、私の中にあった外来種の血が完膚無きまで絞り出され、在来種純粋日本人になれたのですから、どんなに辛くて嫌でも、来世で再びあの試練を甘受するしかない(こういうのを運命というのでしょう)。
およそ来世を求める人間というのは、子供の時から死ぬまでに身の回りに起こった様々な思い出が、人生におけるマイルストーン(里程標・里標石)となり、彼や彼女を新たなる人生に導いて(引っ張って)くれるということを肝に銘じ、そんな思い出の数々を大切にすべきではないでしょうか。大切にするとは、何百回でも何万回でも思い出す、ということ。
私がこれまで、①②③のビデオを何十回(Thi Minh Huyen Tran さんのは100回以上)も見たというのは、なにもネット環境が時間的に少ないので、ほかに存在するであろう、たくさんの素晴らしい試合・演武映像を探してこれない、という理由ばかりではありません。
せっかく巡り会えた素晴らしい試合や演武の映像を「私自身の思い出(マイルストーン)」となるように、何度も見返して心に焼き付ける、ということを無意識にやっていたのです。
どんなに素晴らしい日本拳法のスーパーテクニックを見ても、心の思い出としてあの世に持って行けるほどのマイルストーンレベルの思い出にならなければ、本当の価値が見出せないし、自分の思い出にならない。。
つまり、私はただ漫然と彼女たちの試合を鑑賞しているのではなく、積極的に観照(主観をまじえずに、自然や人生の真の意味や本質を見極めること)することで、真の思い出(来世のためのマイルストーン)にしようとしているのです(たとえそれが、ビールを飲みながら観るなんていうことであったとしても)。
浪人時代に、ろくに受験のための勉強もせず10回以上読んだ「坂の上の雲」全6巻、ビジネスマン時代に何度も読んだ「海の都の物語」、15年前には「武蔵と日本拳法」という本を書く時、やはり何度も「五輪書」読み返しましたが、そのおかげで、私の知識や見る世界がその本の世界に限定されたとはいえ、次の人生のためのしっかりとしたマイルストーン(里程標)になったと思っています。
その意味では、知識や教養というよりも、自分という人間の思い出(人生における目印)にするための読書と言えるでしょう。
いま現在、私がひとつの目印(マイルストーン)にしようとしているのは「山岸勝榮「スーパー・アンカー英和辞典」 第5版 株式会社学研プラス」です。
この辞書は本屋さんで他の英和辞典と見比べればわかりますが、ひと言で言えば「読む辞書たり得る辞書」です。単なる字引・字書・辞彙(じい)以上に、読み物としての深い存在価値をもつ、いわば、英語学習者に限らず、広く「一般の人向けの教養書」という内容を持っている。日本語の辞書における「広辞苑」のように、文化を語れる辞書というのは(寡聞にして)そうそうないものです。
私がアメリカ滞在中、この辞書があったなら、毎日暇さえあれば本のように読んでいたことでしょう。たとえそれでも、私の英語が下手であったとしても。
10数年前に突如「思い出は一瞬のうちに」という本なんぞを私が書き出したのは、前世から現世、そして来世につながる自分の人生というものを、無意識に意識し始めたが故なのだと、近頃感じます。
私の「独断的」人生論のようになってしまいましたが、モノカネ・地位や肩書きを超えて存在できる魂、それを引き寄せるほどのしっかりとした思い出作り、なんていうことを「思い出は一瞬のうちに」を書き始めた頃から考えているようです。
独断的(dogmatic)
①カントの用語。認識能力の限界や本質を吟味せずに純粋な理性だけで実在が認識できるとする形而上学の考え方。
②一般に、慎重な吟味を経ずに無批判的に主張するさま。
広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店
第2話 私のspiritualな思い出(のいくつか)
どんなに社会的地位が高い方でも、話して面白くない人というのはたくさんいらっしゃいますし、また、靴磨きのおっちゃんでもスーパーのおねえちゃんでも、面白い話を聞かせてくれる(私と同じ波長)という方は、∞というくらいに存在します。
アメリカでの駐在員時代には、現地の住人以外、数百人もの(主に、日本からの半導体開発者・お客さん)とお目にかかり、インスパイア(啓発)・いい思い出を与えてもらいました。
ある取引先のマーケティング・マネージャーは、オックスフォードとケンブリッジの両方を卒業した(暇とカネのある)イギリス人貴族でしたが、この人には、ほんの数語の会話で、社会の仕組みというものを教えてもらいました。
2つの大学で何を勉強したのですか、という私の超シンプルな質問に対し「詐欺の手法だよ」。英語でレトリック(修辞法。修辞学)とは、インドを植民地にする際の「ごまかしの手口」さ、なんて。
この方は私の英語力と知識や教養ではとても太刀打ちできる人ではないのですが、当時の私が日本で戦っていた必死さ(24時間営業・真剣勝負)が伝わったのか、幾つかの機密(技術)資料まで、CEO(社長)の反対を押し切って提供してくれたりしました。
つまり、波長が合ったので「私という人間」の存在を認め(理解し)てくれた、ということなのです。
シリコンバレーのある小さな中華料理屋のオヤジさんには、厨房で一緒に飯を食わせてもらい、彼ら中国人の洗練された振る舞いや、その底にある激しいガッツ・根性というものを見せてもらいました。
南米で私が殺されかけたナイフ使いの少年とその一味からでさえ、(日本人にはなかなか見ることのできない)彼らのストレートなハングリー・スピリットとは、危機が去ってみれば、充分リスペクト(敬意をはらうこと)できる、私の魂をインスパイア(鼓舞・触発)してくれる体験だったのです。
あの世で何十億年も時間があれば、そんな彼らとも再会することができるでしょう。
もちろん、かの5人の方々(本書末<大学日本拳法的 私のspiritualな思い出>参照)には「大学日本拳法」「太極拳」というタグ(目印)があるので、あの世ですぐにお目にかかれるにちがいない(向こうが会いたくないといっても、「スタンドは引き合う」もの。スタンド使いとは、その人なりの強烈な個性・スタイルを発現することができる人、ということなのです)。
まこと、母親から「ごしょ楽(天皇みたいにノー天気でお気楽)な子」と言われて育った私らしい発想ですが。
第3話 The noble science
西洋では、ボクシングやフェンシングのような真剣勝負の戦いを、(テニスや野球のようなゲーム性の強いスポーツと一線を画した)気高い護身術・格闘技(The noble science)と呼ぶそうです。
日本で剣道や空手が、スポーツというよりも武道という範疇に区分けされるように。(広辞苑によると、boxingとはギリシアに起こり、中世以後イギリスで行われた、というくらい、歴史のあるスポーツであり文化なのです。)
極論すれば、「殺し合い」を連想させるほどの真剣味・凄み・気迫を感じさせる「一対一の戦い」を、西洋人はThe noble science と呼んだ、ということなのでしょう。
アメリカでボクシングといえば、完全に金儲けの為のハングリー・スポーツという位置付けです。かろうじて、モハメド・アリだけが哲学者というか政治家的思惟をもっていました(1997年米映画「アリ」)。
それは恐らく、彼が敬虔なイスラム教徒であったが為に「神の目線で物事を見ることができた」からなのではないか。
scienceとは、この場合、play(スポーツにおける競技)・game(遊戯)とは違う、命をかけた真剣味が要求されるということ。
いい加減な遊びとして、その場かぎりの・行き当たりばったりの気持ちでで戦っていては「殺されて」しまう。科学と呼べるほどの合理性・論理性・(勝利の)再現性が要求される戦いであるが故にscienceなのです(nobleは気高い)。
* gameには、~するファイト(気力)がある、という意味もあるそうです。
He is game for anything.彼はなんでもやる気がある。
山岸勝榮「スーパー・アンカー英和辞典」 第5版 株式会社学研プラス
また、(力だけに頼らない)専門的訓練を積んだボクサーのことを a scientific boxer と呼ぶ。
その場限り、行き当たりばったりで、ただただ殴り合いに興じる(大学時代の私みたいです)、いわゆるstreet fighter(ケンカ屋)でなく、きちっとした理論と思想を持ち、(再現性のある)科学的な戦いをすることができる人のこと。
ですから、西洋でのボクサーとは、単に腕っ節が強いから恐れられていた、ということではなく、殴り合いを科学的に行なうことができる人として「a scientific boxer」と呼ばれ、更には、時に殺し合いともなる殴り合いというものを科学的に捉え、哲学や思想にまで昇華させることのできるクールな人間という意味でmartial artist(戦いの芸術家)と尊崇されていたということなのでしょう。
日本では一般に「武道家」が、a scientific boxerやmartial artistに当てはまるでしょう。もっとも、警視庁や文部科学省が介在するようになってからの柔剣道というのは、すべて「見世物」であり、やはり、ボクシングという現実にぶん殴るスポーツのみが「a scientific boxerやmartial artist」の接点を維持しているようです。
実際、柔剣道でオリンピックに出た人たちで、王貞治氏や鈴木イチロー氏、或いはガッツ石松氏のように哲学的な人間はいないのではないか。石松氏は、商売柄「バカのフリ」をしているだけで、薄らぼんやりパトカーでウロウロしているような緊張感のない警察官などよりもよほど「martial artist」の趣があります。
40年前の関東の大学日本拳法界で私は、他の学校(マネージメント・チーム)や選手に、そういうもの(単に拳法が強い・ただの殴り合い集団ではなく、個人も組織にもscientificな趣)を感じることがありました。
特に、私が4年生(ダブったので3年生)のとき、立教大学とは2回の大会で優勝を争った相手でもあり、最前線(先鋒)で戦った私は、彼ら選手の後ろに存在する「知性」というものを強く感じました。
まあ、私のように、バカはバカなりに、一回こっきりのストリートファイト気分で殴り合いに興じる、という楽しみ方も、いま考えれば「あり」であったのかもかもしれませんが。
(当時、私以外の仲間はけっこう真剣に優勝ということを考えていたようなので、申し訳なかったと思っています。)
第4話 3つの成長を目指す大学日本拳法(私の個人的な考え)
「physical, mental, and spiritual health」とは、 肉体と精神と魂の成長ということ。
日常的にいう、肉体に対する精神的な、とはmentalで、書物を読んで知識を増やしたり頭脳の働きをよくするような精神的成長はmental growth。
spiritualとは、さらに高次元の宗教的体験や優れた芸術を追究する精神性に関することをいう。
山岸勝榮「スーパー・アンカー英和辞典」 第5版 株式会社学研プラス
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昔の旧制高校生が、「でかんしょ!」(デカルト・カント・ショーペンハウエル)と叫び、「三太郎の日記」「善の研究」「出家とその弟子」を熟読することで目指した魂の成長。
それを、私たち大学日本拳法人は、旧制高校生とほぼ同じ青春時代(大学生活)において、「真剣勝負」「思いっきりぶん殴る」「個と集団の中での葛藤」というアプローチによって追求する。
これこそが大学日本拳法をやる意味と意義であると思います。
大学1年生の6月、防具を担いでリーグ戦に行こうとする私は「いい歳して、殴り合いなんてバカなまねは止めなさい」と、母から抗議されたものですが、それに対して、もしも私が「自衛隊や警察でもやっているから正しいスポーツ・武道である」と反論したとしたら、それは誤った考えなのです(実際には、わたしは無言で家を出ました)。
そういう場合の正しい応対とは「純粋日本人である旧制高校生が追求した『でかんしょ』という崇高な哲学的行為を、私たち大学日本拳法人は、殴り合いという肉体的・精神的な双方向運動(戦い)によって追求している。」と述べるべきなのです。
まあ、そんなことを母に言っても「何かの新興宗教に、はまったのかしら」なんて、気味悪がられるだけでしょうが。
○ デカルトの「コギト・エルゴ・スム 真の自我」の確立
○ カントの「純粋・理性・批判」精神の涵養
○ ショーペンハウアーの「意志と表象」の体得
風姿花伝「さるほどに、音曲は体なり。風情は用(ゆう)なり」
段位や優勝を目指して一生懸命になる、大学生として日本拳法を様々な位相で楽しむ。しかし、なんといっても、「physical, mental, and spiritual health(肉体と精神と魂の成長)」を追求して楽しむところに、大学日本拳法(の面白み・味わい)があるのではないでしょうか。
戦前・戦中・戦後に「でかんしょ」を追求した旧制高校生の世界については、「どくとるマンボウ青春期」に、真面目にそして楽しく・面白おかしく解説されています。
50年前に愛読したこの本のことを、私はかの「5人」と、2023年11月26日に出会った名も知らぬ a spiritual fighterによって思い出すことができました。
* 北杜夫(小説家。本名、斎藤宗吉。茂吉の次男。東京生れ。東北大医学部卒。作「どくとるマンボウ航海記」「楡家の人びと」など。(1927~2011))
「楡家の人びと」は高校時代に読みましたが、これくらい「人物像」を明確に描いた小説はない、というくらい、見事に登場人物の模写がなされています。
これは、北杜夫という人が、昆虫採集狂と言えるほど、対象の観察(観照)というものに熱中されていた所為であった(神の目線で物事を見られる人間)からなのでしょう。*
<大学日本拳法的 私のspiritualな思い出 → ビデオで誰でも見られるもの>
① YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」
https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns
② YouTube「2019年 第32回 日本拳法東日本大学リーグ戦(女子)
【明治大学永岡里沙子-学連選抜高橋】
https://www.youtube.com/watch?v=zOGwTaiEymM
③ YouTube「Thi Minh Huyen Tran 28th SEA Games Singapore 2015」
ベトナム人Thi Minh Huyen Tran さんの、2015年第28回SEA Games in Singapore WUSHU(武術の中国語読みウーシュウ)に於ける太極拳の演武。46分頃
https://www.youtube.com/watch?v=Oz4pfvb0Uzk
2024年4月9日
V.1.1
平栗雅人
第5話 神と人間をごっちゃにしてしまう日本人
日本には「心・技・体」という「武道などで重視する、精神・技術・肉体の三つの要素。広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店」という、同じような考え方があります。
異なるのは、日本では心と精神が一緒なのに対し、西洋(キリスト教世界)では、mental とspiritualが別物である、という点です。
これは彼らが一神教だから。太陽や大自然という絶対的な神の元に、イエス・キリストだのモハメッドだのがいる。イエス・キリストもモハメッドも神の代弁者でしかないのであって、根本原理は太陽や大自然の営みを運行する神なのです。
人間は太陽ではないのですから、人間が神になれるわけがない。
神と人間はあくまで別物と考えるキリスト教やイスラム教では、人間はphysicalと mentalを鍛えることで、神の境地(spiritual )に限りなく近づこうとする(が、決して神にはなれない)。神に近づこうとしたイカロスは、父の発明した翼で空中を飛んだが、太陽の熱で翼の蠟が溶け海に落ちて死んだという。
一方、日本の場合、人間であっても死ねば神になれる(人もいる)。日露戦争における功績によって、軍神と讃えられた東郷平八郎(1847~1934)という軍人は死んで東郷神社になりました。1805年のトラファルガー海戦で有名なイギリスのネルソン提督(1758~1805)は勇敢に戦い、戦死しましたが、神にはなりませんでした。
どちら良い悪い、というような話ではもちろんないのですが、人間と神を一緒くたにすると、天皇を現人神(あらひとがみ)という「生きた神」にしてしまう、という悪弊がいつまで経ってもなくならない。
オレオレ詐欺どころではありません。宝くじという詐欺、年金詐欺、健康保険詐欺、医療詐欺、消費税詐欺といった、お上だとか権威という殻をかぶった詐欺を神と見間違えて容易にだまされるのは、「日本人の神観」が悪用されている姿といえるでしょう。
昨日のネットのニュースで。「泥棒が政治をやっている」と、憤懣やるかたなき年配の男性の映像がありましたが、いまや、民衆が「政治家こそ詐欺師、つまり政治の専門家ではなく、政治で金儲けを企む商売人 → 政治屋」という認識が広まっているのでしょう。
まあ、たとえ民衆の100%がそう思ったとしても、政治屋・マスコミ屋・警察屋という3大バカの神が存在する以上、何も変わらず、この3バカというハメルンの笛吹き(神の仮面をかぶった商売人たち)に導かれて堕落していくしかないのです。
坂口安吾が「堕落論(1946年)」で「日本人は敗戦(1945年)で堕落したのではない、人間だから堕落するのだ」と仰ったそうですが、人間である政治屋・マスコミ屋・警察屋を神と勘違いするから、だと私は思います。
その意味で、日本人は「physical, mental, and spiritual health、 肉体と精神と魂の成長」というようにして、神と人間とを分けて考える習慣をつけた方がいいのではないか。
別に大したことではありません。太陽は太陽であって人間ではない。いくら科学が発達しても太陽を作ったり、宇宙の運行・四季の移り変わりといったことを人間が代わりに行なうことはできない。
これが「神の味噌汁(神のみぞ知る)という謙虚な(humble)考え方ということなのですから。
*「humbleとは、神の前では誰もが等しい価値を持ち、自分だけ特別優れていると考えないで、偉ぶらない」、おごらないという意味の謙虚さを意味する。
modestは、自分の達成したことを吹聴しない控えめな態度をいう。」*
山岸勝榮「スーパー・アンカー英和辞典」 第5版 株式会社学研プラス
2024年4月9日
V.1.1
2024年4月10日
V.2.1
2024年4月11日
V.3.1
平栗雅人
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