素晴らしい大学日本拳法 2分30秒の教えV.2.1


第1話 一寸の虫にも五分の魂

  初段を取るのに5回もかかった私が、練達の士たち(の拳法)をとやかく言うのもおこがましいのですが、
「智者は千慮に必ず一失あり、愚者も千慮に必ず一得あり」
「聖人は狂人の言葉も採りあげる」
とも申します。

  現在、大学日本拳法をやられている方にとって、「こういう見方もあるのか」という参考になれば幸いです。
① YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」   
    https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns

② YouTube「2019年 第32回 日本拳法東日本大学リーグ戦(女子)
   【明治大学永岡里沙子-学連選抜高橋】
https://www.youtube.com/watch?v=zOGwTaiEymM

③ YouTube「Thi Minh Huyen Tran 28th SEA Games Singapore 2015」
   ベトナム人Thi Minh Huyen Tran さんの、2015年第28回SEA Games in Singapore WUSHU(武術の中国語読みウーシュウ)に於ける太極拳の演武。46分頃
 https://www.youtube.com/watch?v=Oz4pfvb0Uzk


第2話 「惴惴たる小心、谷に臨むが如し」負け際の素晴らしさ

  勝って驕らず、の岡崎さん。
  一方、負けて悔しがったり落胆しない谷さん。

  (こういうことは考えてはいけないのですが)谷さんは、2回相手を足払いで倒し、もし1回目も押さえ面突きを取っていれば、・・・。
  それなのに、残念がる・悔しがる素振り(心)が微塵も見られない。
  「善く敗るる者は乱れず」。

  両者とも、絶対に勝つ、という意気込みであるにせよ、勝ち負けという目に見える結果に拘泥せず「コギト・エルゴ・スム」、どこまで自分が自分になり切れるかという、真理を追求するスピリット(魂)が、そこにはありました。

 「道を求めて止まざるは水なり」(の境地)とは斯くの如し。
  勝者たる者の立派な姿と「善く敗るる者」の心を、お二人は鮮やかに見せてくださいました。

  「善く勝つ者は争わず、善く陣する者は戦わず、善く戦う者は敗れず、善く敗るる者は乱れず。夫れ、棋は、始めは正を以て合し、終わりは奇を以て勝つ。凡そ敵、事無くして自ら補う者は侵絶の意有り。小を棄てて救わざる者は大を謀るの心有り。手に随って下す者は無謀の人なり。思わずして応ずる者は敗けを取るの道なり。
  詩経に云う『惴惴たる小心、谷に臨むが如し』とは此の謂なり」
  「西遊記(一)」小野忍訳 岩波文庫

第3話 大学日本拳法に見る「腹八分の思想」

① YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」

   https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns

  彼女たちは防衛本能として、100%力を出し切っていない。
  手抜きとか手加減ということではありません。
  女性特有の防衛本能というべきか、100%力を出し切ってしまったら「あとがない」ということを、知っているかのようだ。

  それは「本能的」に知っているのか。
  或いは、子供の時からの鍛錬によって、究極の一点に到達するために必死になる・真剣になるとはいえ、最後の最後のところで1~10パーセントの力を残す、ということを自分で学んだのか。究極のところで「詰む」もしくは「詰まれない」ために、力を残すという技術(思想)を。

  ですから、この試合、彼女たちは120%の力を振り絞って、前へ出て・蹴って・殴って・投げて、死に物狂いで闘っているようで、無意識のうちに1なり10なりの力を隠し持っている。本当のファイナル・最後の・最終の詰めのために。

  これは拳法の技術とか体力・筋力・持久力といった顕在化した力のことではなく、純粋な精神上のことでもない。あくまで「精神と一体化し・不可分となっている肉体」という、第三の能力を彼女たちが無意識のうちに涵養してきたということなのではないか。

  純粋に肉体と言えず、心とも定義できないこの第三の機能・力・働きを、古来より在来種純粋日本人は「神」と理解し、大切にした。
  男というのは、その点バカなので、一気に全力を出し切ってしまうものなのです。
  まあ、古来より、それで男と女の役割分担がうまくいっていたのでしょう。
  ユダヤ脳・韓国脳・客家脳によるLGBTなんて(私からすると)おかしな考え方が、世界中で大切な価値観を壊していますが。

  三内丸山古墳をはじめ、多くの縄文人遺跡からは、女性のアクセサリー・装飾品がたくさん出土する。縄文人は朝鮮半島から来た外来種と異なり、武器ではなく女性の装飾品を作って、毎日を楽しんでいたようです。
  10,000年前、縄文人の男たちには、女性の隠された力が「見えた」。だからこそ、彼らは女性たちの内に存在する神性に(畏敬を込めて)、それらを献上したのでしょう。

第4話 自分という神(本物の自分)になり切った人たち

  ○ コギト‐エルゴ‐スム【cogito, ergo sum ラテン】
  デカルトの有名な命題。「我思う、故に我あり」の意。
  ただし、ラテン語は別人による訳。
  すべてを疑うことで確実な第一原理を求める方法的懐疑で、唯一疑いえないものが「考える我の存在」とされたが、その意味については今日まで多様な解釈がある。 広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

  彼女たちは、我思わずして(特に意識しなくても)、しっかりとした我を把握している。
だから、

 → 真剣勝負の心で取り組める(格好をつける必要がない。素のままの自分でものごとにぶつかれる)。
  偽名という仮面をかぶって生きる在日韓国人や、警察手帳という権威の殻の中で名無しの権兵衛として生きる日本の警察官にはない真剣さがある。

 → 真に熱くなれる(集中力)

 → 真に現実の存在感がある(偽物ではない)
   これも、在日や警察官にはない存在感。素のままで存在できる真の強さ。

 → 真の個性(自分の魂のスタイル)がある
  「Every great artist has a distinctive style.」
  偉大な芸術家はみな独自のスタイル(様式)をもっている。

 → 真に謙虚な心 humilityとmodest
  「神の味噌汁(神のみぞ知る)」と、会社員時代の上司(上智卒)は言いました。
  人間同士でああだこうだ言って横並びにするということではなく、「神の前ではみな平等というシンプルな平等意識」由来の謙虚さ。

○ 無意識の意識 
 → 意識しないで意識して(間違いなく・あやまたずに)行動できる。
 → これこそ茶道で求められる、究極の(心技体の)姿。特に「岡崎&谷」コンビには、茶道の宗匠の趣があります。

 「おまえに茶道の宗匠を語れる資格があるのか ?」
  京都大徳寺の雲水時代、私はある時期、三千家で毎月お経を読み、その際、読経後の茶礼で各家元にお目にかかり、その歩き方や素振り・話しぶりを拝見させて戴きました。たとえ5分~10分くらいとはいえ、本家本元・本物に接したことがあるので、私に茶道の嗜みがないとはいえ、その趣というものは、ごくごく僅かとはいえ知悉しているのです。

○ 矛盾の解消 → 戦争(の心)と平和(の心)の共存

○ 形而下の問題を形而上の思惟によって解決する力
  ものごとの姿形に惑わされず、引きずられずに、芯(核心・胆・根本的)のところで問題を解決する。
  勝つための技とか、試合運びのための(小手先の)技術を使わない。
  全身全霊で前へ出て、心で闘っている。まさに闘志・闘魂。
  「頭で考える」という戦い方ではない。もちろん、練習の時には考えに考えて戦うのでしょうが、「本番」では無念無想・一意専心・無我夢中(の境地)。

① YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」  
   https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns

② YouTube「2019年 第32回 日本拳法東日本大学リーグ戦(女子)
   【明治大学永岡里沙子-学連選抜高橋】
    https://www.youtube.com/watch?v=zOGwTaiEymM

    「岡崎&谷」に比べれば、10年選手と2年選手という「年季の違い」こそありますが、その属性は同じ在来種純粋日本人のものです。

③ YouTube「Thi Minh Huyen Tran 28th SEA Games Singapore 2015」
   ベトナム人Thi Minh Huyen Tran さんの、2015年第28回SEA Games in Singapore WUSHU(武術の中国語読みウーシュウ)に於ける太極拳の演武。46分頃
    https://www.youtube.com/watch?v=Oz4pfvb0Uzk

    Thi Minh Huyen Tran さんの太極拳においても、上記、大学日本拳法に見る属性と特性は全く同じです。

  一神教のキリスト教やイスラム教と違い、在来種純粋日本人は八百万の神ですが、太陽のような大自然や自然のサイクルを神と考える、という点では同じでしょう。
  一神教では、天皇のような「ネオンサインの神(サイモンとガーファンクルの歌「Sound of silence」)」を神とは考えないのですが、在来種日本人の私も、朝鮮渡来の天皇とは、ただの作りものの権威であり、私としては太陽に対するような畏敬や尊崇はできません。

  しかし、上記5人の女性に関しては、各人がその内なる神性(divinity・神性・神格)に至るほどの気迫・気高さを、彼女たちの戦いぶりに見ることができました。
  人間によって作り出される空虚な権威やネオンサインの神ではなく、現実に汗水流して戦う真剣勝負の心に「真の神を見た」のです。

2024年3月29日
V.1.1
平栗雅人

第5話 神の目線(で物事を見る・物事に対応する)

   小説「大地」の作者パール・バック(の文体)に見る「神の目線」

  これは宗教の話ではありません。

小野寺氏は、パールバックという小説家の文体(文章のスタイル。語彙・語法・修辞など、その作者らしい文章表現上の特色)について語っているのです。

なぜ、中国人という捉えどころのないくらい大きな人間(民族)を、人類学者でもなく大学教授でもない、いち外国人(アメリカ人)であるパールバックが、これだけ正確・緻密に描き出せたのか。そして、それが永遠不滅の輝きを失うことなく、世界中に存在し続けることができるのか。

それは、彼女が神の目線で中国人というものを捉えているから。

といっても、彼女がクリスチャンであったということは、ひとつの象徴に過ぎず、その愛読書であったであろう聖書の文体こそが、実質的・現実的効果をもたらしたのではないか。

そのことを、日本人の翻訳者である小野寺氏が「大地」の解説で述べられた文章です。

 世界文学全集 35 集英社 小野寺健 訳(1975年第一刷)における「大地」パール・バック(1931年出版)の解説

<引用開始>

・・・

  「大地」がこれほど多くの人に読まれてきた理由は何か。

  それは、この小説が中国の事情を伝えてくれるからではない。

  中国という特定の場所を超え、パール・バックという作者を離れて、おそらく人間の生活についての普遍的な真理を語った古典の域に達していることにある。

・・・、作品「大地」は、あるいは作者自身の「中国への愛情」をさえ上回って、より普遍的な、人間の運命についての書になったのである。その原因は、パール・バックが人間を超えた神の存在を信ずる人であったことにあるのではないかと思われる。

  彼女がクリスチャンであったこと、また「大地」が作者をさえ離れた古典的な傑作にまでなっているという事実は、この作品の文体に、象徴的に表れているといえるかもしれない。

  パール・バック自身はどう見ていようとも、多くの人が指摘するとおり、「大地」の文体は明らかに英訳聖書、それも1611年に英国で編纂された「欽定英訳聖書」のそれである。

その文体は、現代人にとっては時としてやや述語の繰り返しが多かったりして、単調に感じられるところがあるのは事実だ。

だが、普遍的真理を説く文章に固有のこの素朴な文体は、パール・バックが意識していたと否とに関わらず語ることとなった、場所と時間の制約を超えた「人間」の生活を記述するには、きわめてふさわしいものであった。

おそらく、これは人間の上に、人間を超えてその運命を支配する神の存在を感じることのできた精神によってのみ、可能だった文体にちがいない。

その精神が、こういう、いわば骨太な、はかない人間社会の変化に耐えうる一大叙事詩を生み出したのである。

「大地」を書いた時期よりははるか後でも、「毛沢東や蒋介石のような老虎といえども、永遠に生きるわけではない。明日は常に存在するのである。」(「私の見た中国」1970年)と語ったパール・バックの言葉は、人間や歴史を見る彼女の本質的な視点を示唆してくれる。

  ・・・つまりパール・バックは、そんな革命でも、すべて本質は同じ、という立場に立つ。

  要するに、それらは多少大規模な社会の「変革」「動乱」にすぎない。そして、生来平和な性質の人々は、こういう動乱のなかでも、いわば神に対するものとしての個人の務めを守り、個人として人に危害を加えることなく、危害を加えられることもなく生きていく工夫をする。

  この視点に立つならば、飢饉も戦争も革命も、社会的動乱としては等価であり、違いはないのである。

  これこそ、彼女が直接見た中国人の生き方だったのに違いない。パール・バックは中国人たちの人生観に即して、中国人たちの生き方を描いたのではないだろうか。

  彼らの人間としての生き方の上には「あるもの」が存在する。この寛大な肯定的精神に読者は無意識のうちに惹きつけられ感動するだろう。

  この作品の基盤にある、人間と歴史に対する作者のこういう思想それが「大地」を普遍的な古典の位置まで高めることができた。

  もし作者が、作中の人物を「裁いて」いたなら、作者もまた、作中人物の孟と、同じ過ちを犯すことになったはずである。

「大地」の女たちは、パール・バックにとって、中国人の中にいくらでも見つけることのできた人物像だったにちがいない。

・・・

<引用終わり>

○ 宮本武蔵は「五輪書」で「観見自在」という言葉を使い、「神の目線」の重要性を説きました。

○ 山岸勝榮「スーパー・アンカー英和辞典」 第5版 株式会社学研プラス とは、

パールバックの「大地」と同じく、著者山岸勝榮氏の「神の目線」から生まれた優れた文学書(辞書)です。

○ 「シートン動物記」

○ 「ファーブル昆虫記」

(共産党中国では、「神」という考えは歓迎しないかもしれませんが。)

第6話 中国人とは何か(中国人の強さ)

  大変だ、大変だと大騒ぎしながら、何が大変なのか、冷静に・具体的にその問題点を明らかにし、即座に現実的な問題解決策を模索し、大胆・機敏に対応・実行する。

猿のように敏感・機敏で、狼の如く組織的に、正確で辛抱強い問題解決のアルゴリズム(手法)を組み立て、虎のように大胆に実行する。

しかし、更に素晴らしいのは、それだけ世の変化・進化を敏感に感じ取り、機敏に対応しながら、鳳の如く、象の如く、大山(たいざん)の如く「悠揚迫らず」の心を失わないこと。

表面的、現実的・実務的には敏感で機敏でありながら、その心はゆったりとして、こせつかない(こせこせしない)。感性は敏感で行動は機敏だが、心は慌てず畏れず(畏縮しない)。とてつもなく大きな神の目線で、人間的な事象・出来事に対応する。

徹底的に人間らしく人間社会で対応しながら、その心は神の目線でいられるのが、中国人の最大・最強の強み。

頭が良いとか運動能力に優れているとか、器用だとか要領が良いというのは、彼らの精神的パワーのもたらす目に見える部分(形而下世界)という結果にすぎない。

目に見える結果ばかりを見て、その結果を導き出した中国人の思考過程や、更にそれを生み出した彼らの根本精神世界(形而上世界)を見落としてはならないだろう。

現今(当節)、あまりにもユダヤ的・韓国的・台湾客家的な感性で物事を見る目を植え付けられている日本人は、この際、「コペルニクス的転回「(カントの言葉)をして、自分たちの根本的な思考原理を変革すべき。否、縄文人として本来もっている何万・何十万年という規模での、長くて規模の大きい思考原理に立ち返るべき、といった方が良いだろう。

たとえば、中国人が中国人たる存在となる(根本思考を維持する)ために、14億の人間が毎日「無意識に行なっている太極拳」によって、縄文人本来の思考原理を呼び戻す。

明治維新以来これまで刷り込まれてきた、ユダヤ人や韓国人・台湾客家といった「あまりに人間的な思考・心的過程」から距離を置いてみる。

今まさに、そういう必要性が高まっているのではないか。

ピータードラッカーの経営書(のようなノウハウ本)を読むなら、「中国古典籍」や「西遊記」といった根本思想を、先ず日本人(縄文人)として体得・感得してからにすべきだろう。

どんなに高性能な機能を持つ豪華客船でも、その操舵室に舵機も羅針盤も無いのでは、「道に迷う」ばかりで、目的地へ着くことはできないのだから。

「理論を知らずして実地練習にのみ汲々たる者は、舵機も羅針盤も失える船に乗る水先案内人の如し。その行く手定かならず。実地練習は、常に正当なる理論の上にこそ立つべけれ」(レオナルド・ダヴィンチ)

 "He that is taken with practice without science, is but a pilot in a bark without helm or compass, never being certain whither he is going.  Practice ought always to be built upon good theory. (LEONARDO DA VINCI)"

理論以上に根本思想の大切さ、ということですが。

2024年3月31日

V.2.1

平栗雅人

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