春になれば思い出す V.4.1


第1話 新入生勧誘を2回受けた私

   毎年4月のオリエンテーション期間中は、体育会系や文系サークルの新入生勧誘で、キャンパスが最も賑やかになる時期です。
  私が入学した1976年(昭和51年)、我が校には数十の公認文系サークル(英語研究会、茶道・華道、合唱、占い、等々)と、勝手気ままな(非公認)サークルが数十、2号館という大きな建物の地下にひしめいていました。ちゃんとした部室を学校からあてがわれていた体育会と違い、畳200畳敷きくらいのスペースに、各サークルが自由に椅子や机を並べ、看板を掲げてワイワイやっていたのです。
 
  時の学長であった磯村英一という人は、東大出でもかなり進歩的でリベラルな方でしたので、大学を批判する活動家たちにも寛容でした。2週間のオリエンテーション期間中、彼らも革○派なんていう畳3畳くらいの大きな看板をキャンパスのど真ん中に立てかけ、マイクを使い大きな声でアジ演説をしていました(かれらは年中やってましたが)。
  体育会系も文系も政治活動家たちも、一人一人に「コギト・エルゴ・スム 自我」があり、大学も日本社会も真の自由と元気があった時代でした。

  文部科学省とか警察官僚が天下りとして大学や様々な民間機関に入ってくるにつれ、そんな自由で伸び伸びした学生自治・風通しのいい社会の気風は失われ、認可とか公認なんていう管理社会になっていくのを、私たち年寄りは見てきました。
  大学日本拳法も、40年前に比べて蛮カラの気風がすっかり消えてしまったようですが、今後、警察官僚による管理社会化が進み、自由で個性的な自我が発露できる場ではなく、管理・監視する側主導の見世物興業化していくでしょう。

  50年前の漫画「嗚呼、花の応援団」のような「強引な勧誘」というのは、当時でも関東で聞くことはありませんでしたが、韓国系の創価学会や統一教会(当時は国際勝共連合という名前でした)といった新興宗教は、部活の勧誘に混じり、巧みに(強引に)学生を口説いていました。
  オリエンテーション期間中、私もそれらにつきまとわれたことがありましたが、張りピンを喰らわせて難を逃れました。当時(の社会的雰囲気・風潮)は、強引・巧妙な宗教の勧誘に甘かったし、それに対して個人が自分なりのやり方で抵抗することにも寛容だったのです。
********************************
  高校時代は水泳部でしたので、大学では何か他の運動をやりたいと思っていた私は、その頃、関東ではほとんど誰も知らない武道とはいえ「空手や少林寺と違い、寸止めではなく思いっきりぶん殴れる。」という言葉に惹かれました。そして、キャンパスで勧誘されて部室へ行き、胴着に着替え体験練習をして、翌日も・・・という流れになりました。
********************************
  そんな単純なきっかけで、1976年4月に日本拳法部へ入部し、家庭の事情でその年の9月一杯をもって休学(退部)した私は、翌年の4月、再び大学へ戻りました。  
  そして、練習が終わる14時半頃、クラブへ復帰することなど全く考えず、挨拶だけするために部室へ顔を出したのです。
  半年ぶりに同期たちと会い旧交を懐かしんでいると、奥で主将の生川(なるかわ・三重県)先輩が、財務の下田先輩(群馬県)に、なにやら耳打ちをしています。

  数分後、素早く道着から学ランに着替えた下田先輩に私だけが連れ出され、なんとタクシー! で巣鴨駅前へ行き、飲み屋で遅めの昼ご飯というか、早めの夕食をごちそうになりました。
さすが財務担当、ビールに酒、刺身の盛り合わせに肉や惣菜と、なんでも飲み放題・食べ放題の大盤振る舞い。
  そして17時半頃、腹いっぱい、すっかりいい気分になった私は、ハワイという名のピンサロ(キャバレー)へ連れて行かれました。ミニスカートのピチピチギャルたちのお化粧や香水の匂いが充満し、景気のいい音楽が鳴り響くほぼ真っ暗な店内は、若い男性の心をウキウキさせてくれる、まさに「大人のディズニーランド」。
 
  大卒初任給が手取りで10万円前後の当時、食事とピンサロで1万円強の接待は効果抜群、翌日からさっそく練習に復帰した私は同期からずいぶんと羨ましがられましたが、仲間が増えたので、みな喜んでくれました。(しばらくのあいだ、ピンサロでお相手をしてくれた女の子の源氏名が私のニックネームとなりました)。

  どんな人間でも、食い気と色気には弱いもの。私のような脳足りんには、創価学会や統一教会の訳のわからない政治や宗教の話なんかよりも、こちらの方がずっと効き目があった、ということです。

  現在、各大学とも、キャンパスで勧誘して練習を見学してもらい、その後にお食事会という流れが、一般的な勧誘スタイルのようですが、これは人間心理に適っているわけです。
  すなわち、キャンパスにおいて口頭で説明し、道場で実際に体験してもらい、日本拳法についての理解が深まったところで、夕方からお食事会で心の交流をして、絆を深める。
  
  頭で理解(知性)・身体で体験(理性)・心で仲良くなる(感性)、というスタイルは、ビジネスにおいても同じです。
  会議室や応接室でのスライドやOHPを使用したプレゼンテーションによって、先ず頭で商品を理解してもらい、デモンストレーションによって実際に体験してもらう。そして、夜は接待で心の交流を図る。(私が扱っていたIC設計装置やテスト装置の場合、お客さんの実データを使って実際にテストする「ベンチマークテスト」という実証実験もありました。)

  その意味で、大学における新入生勧誘というのは、社会人(ビジネスマン)になってから役に立つ、善き体験といえるでしょう。大学のゼミ同様、積極的にこの機会を(学業修行の一つとして)活用するといいかもしれません。

2024年4月30日
V.1.1
平栗雅人

第2話 昇段級審査の後で ウォール・ストリート・ジャーナル

  4月のある月曜日。

  日曜日、明治大学和泉校舎で行なわれた昇段級審査で、○○大学のキャプテンSがウォール・ストリート・ジャーナル(Wall Street Journal英文)を読んでいた、という話になりました。

杉山「さすが○○大学だな。辞書なしだったよ。」

小松「なんや、ウォール・ストリート・ジャーナルいうんわ。」

三堂地「アメリカの日経新聞みたいなもんだよ。」(当時、朝日・読売が60円、日経が80円、ウォール・ストリート・ジャーナル(英文)は100円か120円した。学生アルバイトの時給が400~450円の時代。)

桜井「小松は経法やから読まなあかんのやないの。」

小松「ほなら、明日巣鴨の駅の売店でこうてみるか。」

平栗「バカだな、お前。同じ東京といっても池袋や大手町とちがって、巣鴨なんて、とげ抜き地蔵にお参りに来る爺さん・婆さんの街だぞ。ウォール・ストリート・ジャーナルなんて置いてあるわけないだろう。
  あの人たちの関心は、現世のカネやモノじゃなくて、死んでからあとのことなんだぜ。だから、巣鴨駅の売店にあるのはだな、あの世タイムズとか冥土通信なんていう新聞ばかりよ。」

  ここで、桜井・小山・杉山・三堂地・原は笑いを堪える。

小松「東京には、そんな新聞があるんか。ほしたら、今日、帰りにこうていくか。」

三堂地「ばっかだなぁー。夕方行っても売り切れてるよ。ジジババは朝早いんだから。」

小松「ほんなら、明日1限やさかい、8時かそこらに行けばええやろ。」

・・・

翌日、彼は私たち同期に口をきいてくれませんでした。

********************************

  練習開始は昼の12時ですので、1年生は11時に部室に来て、前日干したタオルやバンデージを取り込み、畳んだり巻いたりしていました。

  11時半になると2年生がやって来ます(当時、3年生はいなかった。)

  そして、11時45分頃になると、3人の幹部がやって来て、煙草を一服しながら胴着に着替えて、という一連の儀式というか流れになっていました。

  私たち1年生が、ウォール・ストリート・ジャーナルのことを再び話題にしていた土曜日のこと(昔は日曜日だけが休みだった)、どういう訳か、4年生の松本先輩が11時半頃、部室に入ってこられました。相手が2年生であれば、座ったまま「押忍!」と挨拶するだけですが、幹部に対しては全員立ち上がって「押忍!」と言いながら一礼することになっています。

  慌てて立ち上がり礼をする私たちの間をすり抜けて窓際の椅子に座った先輩は、煙草をくわえながら「おう、杉山、お前も競馬やるのか。」なんて仰います。

杉山「? 押忍、いいえ・・・」

松本先輩「いま、扉の外で聞こえたけど、なんとかストリートとか言ってたじゃねえか。明日の○○賞にそんな馬でるのかな?」なんて、独り言を言いながら、競馬新聞を拡げました。

  練習後、幹部(4年生)も2年生もいなくなった部室で、私たち新入生は、同じ4年生でありながら「ウォール・ストリート・ジャーナル」と「競馬馬」の違いに自分たちの未来を重ね合わせ、暗澹たる気分になりました。

2024年5月1日
V.2.1
平栗雅人

第3話 山手線一周大会 バカになる道

  昔は毎年4月末、体育会主催・自動車部後援「東洋大学山手線一周」という行事がありました。私は1年生の時、日本拳法部として参加しましたが、これが私の「バカになる道」の第一歩でした。

 「もともとバカじゃねえか」と、言われるかもしれませんが、バカな人間でもバカを隠して格好つけて生きようとするもの。しかしそんな私を、たとえ一瞬でも「バカのまま・バカそのものとして」生きることができるようにしてくれた。その第一歩が、この時のバカ騒ぎだったのです。

  思いっきりバカになれるから真剣になれる。知性や理性のみでただ真剣にやっても、良か優ですが、バカになって真剣にやると、一つ次元を越えて狂の境地に入ることができる。
  則ち、(人によっては)技術を越えて芸術の範疇に入ることができるのです。
(私の場合、ただのバカで終わってしまい、狂まで行きませんでした。)

 ① YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」

     https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns

  この時の岡崎さんと谷さんの戦い方には、両者ともに理性がある。お二人とも、もの凄い迫力で「狂ったように」戦っていらっしゃいますが、狂ではない。

  とくに岡崎さんは、極めて冷静に宮本武蔵「五輪書」「枕を押さえる」「剣を踏む」攻撃で、谷さんの気勢を削いでいるのです。

ところが、

 ○ 「2018 Kempo 第31回全日本拳法女子個人決勝戦 坂本佳乃子(立命館大学)vs谷南奈実(同志社大学) 」

https://www.youtube.com/watch?v=DI-HxBtlxxg

  この時の谷さんには(むき出しの)狂がある。

  徹底的に戦いにのめり込んでいる。

  もちろん、試合の中だけで発揮する意識的な狂ですから、ただの「狂人・狂気」とは全く異なるgood control(よく把握した)下にある驚異的な集中力、熱中狂瀾、疾風怒濤(シュトゥルム‐ウント‐ドラング)という状態です。

 そして、ここまで自分を追い込み、戦いに専心されている彼女には、(試合の結果抜きで)芸術的な美しさがあるのです。

 ********************************

  私の予備校時代、現代国語の講師(大学教授)が「戦後、最大の文学」とまで評した「嵯峨野明月記」。これを書かれた辻邦生(1925~1999)という小説家(でもあり、立教大学の講師もされていた)は、この小説を書いた2週間のあいだ、一種のトランス状態にあったという。自分が自分でない、狂の状態であったらしい。2週間に及ぶ驚異的な集中力によって書かれたのがこの文学なのです。

  やはり東大(帝大)出の芥川龍之介も凄まじい狂を持っていらしたようですが、2週間集中して一つの作品を書くには、彼の神経は鋭利に過ぎたのかもしれません。
  しかし、それ故に芥川龍之介の作品は、人生の様々な位相を鋭く切り取った(優れた)短編が多いのでしょう。

  一般に東大の人間というのは、頭は超素晴らしいのですが、知識や教養に埋もれて狂になれない。だから、知識の羅列・教養の記述ばかりで面白みがない・味わい深さがない。芸術性や文学性に欠ける、という嫌いがあるものです。
  しかし辻邦生という方は、旧制松本高校(大学の予備教育段階)時代に、やはり後年作家となられた北杜夫(1927~2011)氏らと、蛮カラ(学生時代のバカ騒ぎ)に陶酔されていた時期があったせいか、狂になることができたようです。
  この小説家の「背教者ユリアヌス」という小説も、この方の異才を放つ作品です。

2024年5月1日
V.2.1

<大学としての新入生歓迎会>

 体育会主催とはいえ、参加者3百名(くらい?)のほとんどが一般学生であり、山手線一周大会とは、つまりは大学としての新入生歓迎会といえるものでした。体育会も、文系サークルも、どこにも所属しない学生も、みんなで一緒に一晩、東京をブラブラ歩いて楽しもう・仲良くなろうという。

  私自身は、他の体育会・文系サークル、一般学生の新入生と仲良くなったわけではありません。むしろ、10数時間、誰とも話をせず、大声で歌を歌い、叫び、走り回り、クタクタになると、無言で歩く。自分一人でバカをやって疲れて、沈黙していたのです。
  ただ、その孤独な戦いのおかげで、(それまでの)自分が吹っ切れて「東洋大学という世界」に、ストンと入り込めたのではないかという気がします。

********************************

  体育会本部の学生(学ラン着用)が、「東洋大学山手線一周大会」と大きく書かれた幟を(旗)を掲げて先頭を歩き、酒やジュース、おつまみを満載したリヤカーが続き、その後ろを、大勢の学生たちが好き勝手にゾロゾロついて歩く。最後尾には、自動車部の運転するセドリックが医療品、担架などを載せて伴走する。

  18時に白山の大学前を出発し、上野・東京・有楽町・品川・五反田・渋谷・新宿・池袋・巣鴨を経て、翌朝10時頃、大学へ戻る。参加資格は東洋大生ということになっていますが、登録も認証もなしで誰でも参加できるし、途中で気に入った街並みのしゃれた居酒屋があれば、そこへ途中下車してそのまま、なんて人たちや、やはり、途中で疲れて家に帰る者もいるので、最後まで完走というか歩き通したのは、体育会本部の10数名を除けば、数十名程度であったようです。

  完走認定証も記念品も出ません。私の場合、ただただ疲れたという実感が認定であり、大きな声を出しすぎて潰れた喉とすり減ったビーチサンダル、そして足のマメが記念でした。
  なにしろ、18時にスタートしてすぐに振る舞われた日本酒でいい気分になり、第一休憩地点である上野は西郷さんの銅像の前で、大声でがなる(どなる)ようにして何曲か歌う。銀座の松屋デパートや三越・阪急デパートの並ぶ大通りを行進する頃には、ほとんど酩酊状態。歩道で徒競走をする、ポプラ並木によじ登って大声で叫ぶ、なんて、狂気のフリではなく本物の狂乱状態。

  新橋の辺りで体力を使い果たしてぐったりし、渋谷のハチ公前の景色も覚えていません。おそらく、幽霊かゾンビのように、朦朧とした意識の中で機械的に歩いていたのでしょう。
  新宿を歩いている朝6時頃、高層ビル(京王プラザ)から見えた朝日が異様に眩しかったのを最後に、記憶はぷっつり途切れ、気がついたら大学の前で解散となっていました。
  昼過ぎに帰宅するとそのままバタンキューで、今度は10数時間、延々と眠り続けました。

<新入生歓迎会の意味>

  新入生歓迎会とは、それまでの常識や価値観を捨て去り、新しい社会・場に頭と心を切り替えるための儀式というか鍛錬、或いは、昆虫でいえば脱皮、なのかもしれません。

  私は、上野の西郷さんの前で、何百人もの観光客を前にして大声で歌い、かの銀座の大通りを突っ走り、街路樹によじ登ってゴリラのように叫ぶ、なんて狂態(正気とは思われないような態度やふるまい)によって、それまでの小中高・浪人生という型・常識・価値観・世界から脱皮した。
  少なくとも、あの十数時間の行進は、それまでの「平栗雅人」という殻を脱ぎ捨てる第一歩(きっかけ)となったのではないのかと、いまにして思うのです。

第4話 新入生歓迎コンパ 新になるには旧を捨てる

  山手線一周と同じ頃、私たち日本拳法部の新歓は、池袋駅の近くの「池袋温泉」という宴会場で行なわれました。温泉といっても大浴場があるわけではなく、4階建てのビルすべてが大小の宴会場でした。

  50畳くらいの宴会場に数十名のOBが座り、約2時間、6畳間ほどの一段高い舞台で7名の新入生全員で自己紹介し、その後は交替で歌を歌う。うまく歌うのではなく、とにかくバカでかい声で思いっきり歌いまくることが要求されました。歌わない時はOBの席を回ってお酌するというか、ガンガン飲まされる。つがれた酒やビールは必ず飲み干す。

  私や原のような酒の弱い者は、一杯飲まされる度に「押忍、失礼します。」といってトイレへ駆け込み再び酒席へ戻る、を繰り返していました。 
  俗に、急性アルコール中毒というのは、吐くのを嫌い体内に酒をため込んでいるから「中毒」になる。私は台湾で消防士たち30名ほどと酒(ビール)を飲み交わし、2時間のあいだ、一方的にビールを飲まされ続けましたが、(記憶にあるだけで)30回ほどトイレへ行き吐いたので、無事でした。

  かつての商船大学(2003年から東京海洋大学)では、酔っ払うと校庭を走らせ、汗をかいてアルコールを出してしまうというやり方でしたが、数年に一回くらい(新入生歓迎コンパで)亡くなっていたので、あまりいい方法とはいえないでしょう。

  恥も外聞もなく吐くのが一番だと思います。

  現在の新入生歓迎会というのは、新入生が歴代OBの話を聞くことで日本拳法(部)の理解を深めるのが目的なのでしょうが、数十年前の、少なくとも私たちの歓迎会とは「過去の自分を捨てさせる儀式」でした。当時の日本拳法部の学生もOBもそこまで考えていたわけではありません。今にして、私が(自分なりに都合よく)考えたことです。

 「新入生」になるには「古い自分を捨てる」必要がある。
 「古い革袋に新しき酒」「故きを温ねて新しきを知る」とはいえ、先ずは自分という人間を、一旦、ニュートラル・虚心坦懐(心に何のわだかまりもなく、さっぱりして平らな心)にする必要がある。古い殻を脱ぎ捨てるからこそ、新入生になれる。自分の過去のスタイルを引きずっていたら、真の新入生にはなれないのですから。

  そして、真の新人として古い革袋(伝統ある各校の日本拳法部とか、就職した会社)に入り、温故知新するべき、というのが私の考えです。

********************************

 21時に宴会が終わると、新入生全員ベロベロでしたので、池袋に下宿住まいの桜井や杉山、小山以外の4人は、巣鴨の地蔵通りにある生川・松原・下田先輩の下宿(アパート)に泊めてもらうことになりました。

 

<人力車>

  酒の弱い私と原は、すぐにトイレに駆け込んでいたので比較的軽症でしたが、酒に強い小松は逆に重症でした。
  で、私と原がタクシーを呼ぶために、先に玄関を出たのですが、客待ちをしていたタクシーに向かって原は、なんと「車屋さーん(明治時代の人力車)」と叫ぶのです。

  私は江戸っ子(両親とも3代続いた東京人)とはいえ、3歳の時から八丈島や大島、小笠原と、父の転勤でジャングルみたいなところばかりに住んできたので、埼玉県人を田舎者と揶揄する(からかう)ことなどできないのですが、あの時ばかりは「いつの時代の人間なんだ。」と思いました。


<小松、タクシーの窓からゲロを吐く>

  7人が2台のタクシーに分乗して約15分ほど走ったのですが、私の隣に座る小松は、タクシーに乗車した時からウーウーうなっています。そして、護国寺の辺りで「ああ、もうあかん」なんて言うので、私の隣でゲロをぶちまけられたら困ると思った私は、とっさに小松の側の窓を開け、彼の上半身を外へ押し出しました。その途端、彼はゲーゲーやり始めたのですが、そのゲロが後続の生川先輩たちのタクシーに降りかかり、運転手は晴れているのにワイパー全開にして、小松のゲロを振り払っていました。

  私は私で、酒気のせいでハイになり、運転手に向かって「かまわないから、信号なんか無視しろ!」とか「歩行者なんかひき殺せ!」なんて大声で叫んでいたのですが、しばらくすると、中年の気の弱そうな運転手さんが後ろを振り返り、「旦那さん、勘弁して下さいよ。その気になっちゃいますから」なんて言われ、助手席に座る松原先輩も「静かにせんか、このバカ!」なんて(笑って)言っている内に到着しました。

  山手線一周大会も新入生歓迎会にしても、今になって考えてみれば、私にとっては(一時的な)過去への訣別でした。

  それから5年後、なんとか卒業した私は、4月からの3ヶ月間、(ビジネスマンとしての)新入社員研修を受けたのですが、学生時代の「過去との訣別体験」のおかげで、30名の新入社員中、真っ先にビジネスマンになれました。
  5つのチームに分かれて競争する、という形式の研修だったのですが、私たちのチームが優勝、最優秀賞は私でした。最後の仕上げに行なわれた3日間の山名湖湖畔での合宿でも私と私のチームが優勝しました。
  私一人が、完全にバカになり切り、その場・その相手との駆け引きに真剣にのめり込めたからです。

  たとえば、研修期間中は、様々なビジネス場面を想定したロールプレーイング(role playing ある場面を設定し、定められた役割を演じる)や、街頭に出てのアンケート調査、コンピューター・メーカーとタイアップしてマーケティングの実践演習、なんてことをやらされたのですが、どんな時でも私は、恥ずかしがったり臆したりすることなく、積極的にその役になり切れました。

  小賢(こざか)しいことなど考えず、とにかくバカになって、その場・その人たち・その社会・その世界に順応する。順応するだけではなく、積極的に発言し自主的に行動する。
  山手線一周も新歓も、酒の力を借りてバカになったのですが、その「ノリ」をそのまま社会人の入り口で(シラフで)発揮し、第一歩をうまく踏み出せたというか、テイクオフできたのです。

  禅寺の坊主が15年、或いは40年坊主をやっているから本物かといえば、そうでもない。ただ、坊主という殻をかぶって飯を食ってきただけであれば、中身は磨かれていないのですから。
  そんな、見かけだけの偽モノをたくさん見てきた私にとって、2023年11月26日の全日(府立)で、爆声を発して後輩を鼓舞していた女性の声に、私は再び目覚めさせられました。自分のバカ声ではなく、彼女の芯のある正統的な強い声によって、です。
  そして、それが誘因となり、過去に撮りためた大学日本拳法の試合映像を見直すうちに、「狂」となって戦う女性を再発見したのです。

  こういう方たちは社会人になれば社会人に、妻となれば立派な妻に成りきれる人なんだ、と思います。大学時代を入れれば20年もの(拳法)修行で自分を磨かれてきた人というのは、見た目の拳法の技術云々では計り知れない形而上的存在感を持っている。しっかりとした自我(コギト・エルゴ・スム)が芯にあるから、どんなシチュエーションにも対応できる。
  かつての旧制高校生と同じ精神的鍛錬を、御自身の意思で行ってきているからです。

 たとえば、俳優で言えば、菅原文太さん。
  シリアスでもコミカルなヤクザでも演じることができる。警察官を演じるにしても、街で見かける警官が偽物に見えるくらいの「真の警察官」をやれる。コミカルで優しさ・人情味のあるトラック運転手、そして、文太さん晩年の傑作「千と千尋の神隠し」の釜じいの声。芯がしっかりされているので、どんな役でも味わいのある役にしてしまう。

  森繁久弥さんも、様々な芸域の広さと深みがあります。
  歌手では美空ひばりさん(まあ、この方は天才の域ですが)。

  表面の色や模様を変化させる、ただのカメレオンとは違うのです。
  本質をつかんでいるから、何も変わらず、而して変幻自在。
  芯(心)からそのものになれる。真に新になることができる。
  技術や体力という「器」以上に、形而上という「道」を歩む姿が見られる大学日本拳法の達人たちというのは、極端な話、あの世に逝っても存在することができる(ほどしっかりとした自我を持っている)と、思わされます。

「三つ子の魂百まで」ではありませんが、15~20年間一つのことを(超真剣に)やり続けている人間というのは、(その場だけに存在する)器ではなく、その先にも永遠に続く道を歩んでいる。単に年月の長さに由らず、次元の違いからくる位相の豊富さを感じさせてくれる。やはり、「大学だけ」では追いつけないものがあるのです。
  技術や体力ばかりでなく、彼女たちの身のこなし、立ち居振る舞いには、茶の宗匠に通じる洗練さ・簡潔さ・小気味よさが「溢れて」いる。拳法の強さだけではないのです。


「アキレスは亀に追いつけない」 ゼノンのパラドックスの意味

  亀がゆっくり・じっくり歩んできた形而上的道のりは、単に足が速い=力や技術がある、知識がある、といった単純機能では「追いつけない」。
  真の存在感という形而上的価値を侵すことは難しい、ということなのです。
  しかし、関東でも、青学のWさんのような、徹底的な知性と理性で、なんとか「試合の戦い」だけでも乗り越えようとする努力家、往復数時間の通学電車やバスでは絶対に座らない、といった鍛錬を日常にするOKさん、卒業後も新入生勧誘に協力したりして、愛とガッツで根気よく後輩を育て、「総和の利」を向上させようという立教のTさんといった人たちを見るにつけ、やがて、関東は関東なりのスタイル・問題解決方法を見いだしていくのではないか、と期待しています。

  私自身は、バカにはなれますが、狂にはなれない。狂になれる人やその事象を見る(見極める)ことはできても、自分がそうなれない。
  まあ「見ることができる」だけで、十分幸せなのかもしれません。

2024年5月2日
V.3.1
平栗雅人

第5話「人生のスクランブル交差点」 三堂地君を偲ぶ

「ボクたち高校生じゃありません」

  故人を思い出してあげることこそ、最高の供養であると思います。

4年間、ただの一度も練習をサボることなく、一年生のときでさえ、苦しい、辞めたいと口にすることなく、4年生のときには練習や試合以外にも、主務として大学や学連との対外交渉でクラブの運営を支えてくれた仲間。

  私たちはいま目の前で、練習し試合で戦い選手のために働く多くの学生たちのなかに「彼」を見るにつけ、過去と現在がつながるのを感じることができる。

  死んでしまったものはもはや、この現世に帰って来ることはないのだから。

  しかし、肉体が亡んでも思い出は生き残る。

  現役の学生たちの元気な姿を見ることで、私たちは過去の出来事を通じて彼の魂と一体化できるにちがいない。

  心の中で魂の酒を酌み交わすことで、人は安らかに眠ることができるのでしょう。

「ある晴れた日に」

春の日差し

うぐいすの声

ポカポカ陽気

通行人もみなウキウキしたような

  毎年四月は、新入生勧誘の季節です。

  1977年(昭和52年)から、文系の新入生は2年間、朝霞にある新校舎で授業を受けることになった為、オリエンテーション期間(新入生勧誘)中、前年に入学した私たち2年生は、池袋から東武東上線に乗り朝霞台まで何度か通いました。桜の花びらが残る新校舎の屋上で、ぽかぽかした陽射しを浴びながらフレッシュマンたちに教えるのは、いい気晴らしにもなったのです。

  当時2年生であった私たち七人(私はダブったので1年生ですが、入学したのは前年でしたので、白山で授業を受けることができた)は、白山校舎へ帰る際、池袋で途中下車し、お茶を飲んだり昼飯を食ったりしたこともありました。

  これは、そんなある日の出来事です。

  池袋駅東口の地下道から出た学ラン姿の私たちは、桜井と原以外、早速たばこを吸いはじめます(当時はいい時代だったのです)。

交差点の向こうに見えるマック(今では全く食べなくなりました)を目指したのですが、スクランブル交差点を渡りきったところで、埼玉の牛飼いペーターこと原が、私たちの群れからはぐれた三堂地を一番に発見します。

「あれ、三堂地と小山が(交差点の)向こうで誰かと立ち話してるよ。」

  黒澤明の映画「羅生門」とは、ある殺人事件の目撃者4人が、ひとつの事実に対してそれぞれが全く異なるストーリーを語るという話です。

  この「事件」現場でも、それを目撃した人間たちは、それぞれが違う「事実」を語ります。

「落とし物でも拾ってあげたのかな」原。

「相手はアベックやで。ラブホテルの場所を聞かれとるんやないか」小松

「変な勧誘にひっかかってるんでないの。(彼の通った予備校のある)高田馬場の駅前は多いんだよ」杉山

「あのトラッド風の女に三ちゃんがちょっかい出したら、男連れだった(笑)。そんなんちゃうの ?」桜井

「カツアゲ(恐喝)か。高校生じゃあるまいし・・・(笑)」と私

「なんや知らんけど、早うメシ食うて(学校に)戻らんと、4限に間に合わへん」と、ぼやく桜井。

  しかし、誰も交差点を引き返そうとはしません。

いくら同期だ友情だのいっても、人間いったん自分が安全圏にたどり着けば、あとから遅れて来る者のところまで戻るのが億劫なのか、薄情なのか。

自分さえ彼岸にいければ、ジジババが三途の川を渡れなくても気にしない、という坊主のようです。

  といっても、無数の亡者が地獄の血の池で苦しみ呻いているのに、極楽でうまいものを食い、昼寝をし、暇つぶしに地獄を覗くのが日課というのが、かのお釈迦様だというのですから、困った人を憐れんでも身を挺して助ようとしない人(の罪)を、いったい誰が非難できるでしょうか(芥川龍之介「蜘蛛の糸」)。

しかたなくというよりも、野次馬根性だけは歌舞伎の河内山宗俊ばりの私が、点滅し始めた交差点を足早にわたり、歩道で向き合って立つ彼らに近づきます。

そして、冗談口調で「お前ら、高校生じゃあるまいし、カツ・・・」と言いかけると、 

「僕たち高校生じゃありません」と、目を三角にしてキッパリ宣言する三堂地。

(胸中わたしは「お、おう、それはわかってるぜ」なんて呟きました)。

そこで三堂地が学ランの内ポケットから出したのは、まぎれもない、たいして自慢にもならない我らが東洋大学の学生証。

スーツの男性は、思いっきり顔を近づけて凝視すること3秒、「や、これは失礼」と敬礼をして、二人で立ち去っていきました。

  「なんだい、ありゃ」とあきれる私。

三堂地の後ろで声を出さずに大笑いしている小山。

「まったく、失礼しちゃうよ」と、憮然とした顔の三堂地。

そうです。二人の男女は警察の補導員で、くわえ煙草で歩く童顔の三堂地を高校生と間違えて呼び止めた、というわけです。

***********************************

遅めの昼食を取るために入ったハンバーガー屋。その交差点を見下ろす席で。

「オレも予備校の前で、創価や勝共(統一教会)・キャッチセールスに、よく声をかけられたわけよ」と、成績がよかったがゆえに多くの選択肢をかかえ、「的確な相手が見つからず、ボールを持ったまま潰されたクオーターバック」の如く、2年間の予備校生活でベストの選択ができなかった杉山。

  「なんや、お前を早稲田に行かせてくれんかった予備校か?」と、突っ込む桜井

  「失礼と言うくらいなら、タバコの2・3本置いてけよ」と、憤懣やる方ない三堂地。

  「ボンタンはいとるくせに髪を7・3なんぞに分けとるから、若く見られるんや。」

  「日大の加藤みたいに、ツルツルのタコ坊主にちょびひげ生やし、雨も降らんに長靴履いて気合い見せるくらい、やらな」と、自身も「頭は東洋の青田赤道」と呼ばれる小松。

  「まあ、警察っつう所はよ、なんでも疑ってかかるもんなんだよ」と、三堂地の傍で一部始終を見ていた小山。

「あそこで出した学生証が東京大学だったら、ちっとはカッコよかったかもな。水戸黄門の印籠みたいでよ。」と私。

「東大の学生証なら、『失礼』じゃなくて土下座したかもよ。警察や税務署の署長っていうのは、みんな東大なんだろう」と原。

<人生のスクランブル交差点>

  日本拳法のルールでもなく、学校の校則でも会社の社則でもない。

  赤の他人同士が、信号という公共の規則によって、一斉に停まったり前へ進んだりする社会。

  どんなに急いでいても、信号が赤になれば立ち停まらなければならないし、逆に、渡りたくなくても人の波に押されて渡らざるを得ないこともある。安全のためのシステムは、自由な人間の心を少しばかり窮屈にする。

  そして、「袖すり遇うも何かの縁」とは、良いことばかりではない。人間はどんなときに、どんなところで「犯罪者」にされるかもしれない。社会に生きるとは、そういうリスクもある。そういうリスクの方が大きいのが現代なのかもしれません。

  「高校生」に間違われた大学生なら笑えるが、これがもし「殺人犯」だったら。

  そう考えると、ヒッチコックのサスペンス映画の数々が思い出され、40年前の思い出という懐かしいぬくもりの裏に、少しばかり背筋の寒さを覚えたのでした。

オリジナル作成日: 2014年5月23日(金) 14時08分

2024年5月3日

V.4.1

平栗雅人


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?