月と水 V.1.3


第1話 中国人のスピリットは無尽蔵

  「スピリット」とは、精神・気性・気風・意気のこと。

  北宋の詩人である蘇軾(1036~1101唐宋八家の一人)は、水と月についてこんな文章を記しましたが、ここで述べられた「水と月」こそ、中国人というものの本質をみごとに言い当てています。

「水と月」

① 月も水も一瞬たりとも同じ状態ではない。常に変化している(盈虚する)。しかし、 
② 水も月も、ともに(無限・無尽蔵であるという点で)全く変化することがない(消長する莫き)。そして、
③ 川の上を吹き渡るすがすがしい風と、山あいに昇った曇りのない月(と江を流れゆく水)は、万物を創造した神の、いくら取ってもなくならない蓄え(造物者の無盡藏)である、と。

 盈虚えいきょ:月の満ち欠け。転じて、栄えることと衰えること。
 消長しょうちょう:衰えることと盛んになること。盛衰。
   広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

  で、私はこの「一瞬たりとも止(とど)まることがない前進の気性」と「いくら取ってもなくならない無盡藏の気魂」こそ、中国人のスピリット(精神・気性・気風・意気)であり、それは大学日本拳法という真剣勝負の世界を(心身で)哲学してきた私たちにはmake sense(筋が通る・よくわかるもの)なのです。

  21世紀の今、私たちは目の前で、様々な次元と位相であらゆる問題を解決していく中国(人)の壮大なドラマを見ているわけですが、そんな彼らの(パワーの)源泉とは「無尽蔵のスピリット」にある。
  まるで、「西遊記」の主人公である孫悟空が、天竺への長い旅の途中で出会うあらゆる魔物・頑敵に対し、変幻自在・臨機応変・千変万化の術によって幾多の困難・苦難を乗り越えていく様をリアルタイムに「人民網日本語版」で楽しませてもらえるのです。

赤壁賦「水と月」(蘇軾)

 ※ 蘇軾が赤壁という所で友人と船遊びをした時のことを記した文章の一節。

蘇子曰く
客も亦た夫(か)の水と月とを知るや
逝(ゆ)く者は斯くの如くなれども
未だ嘗(かつ)て往(ゆ)かざるなり
盈虚(えいきょ)する者は彼(か)の如くなれども
卒(つい)に消長(しょうちょう)する莫(な)きなり
蓋(けだ)し將(は)た其の變ずる者より之を觀れば
天地も曾て一瞬なること能はず
其の變ぜざる者より之を觀れば
則ち物と我と皆盡くること無きなり
而(しか)るを又何をか羨(うらや)まんや

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君もあの水と月を知っているか。
流れ行くものはこの水のようであるが、行ったままになってなくなったことはない。 満ちたり欠けたりするものはあの月のようであるが、結局、減りも増えもしない。
そもそも、
変化するという視点から見れば、天地さえ一瞬の間も元のままでいることはできない。
変化しないという視点から見れば、万物も我々人間(中国人)も、どちらも尽き果てることはないのである。
そうであるならば、この上、いったい何を羨(うらや)もうか。

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且つ夫れ天地の間(かん)
物各々主有り
苟くも吾の有する所に非ずんば
一毫と雖も取るなかれ
惟だ江上の清風と
山間の明月とは
耳これを得て聲を為し
目これに遇ひて色を成す
これを取れども禁ずる無く
これを用うれども竭(つ)きず
是れ造物者の無盡藏(むじんぞう)にして
吾と子(し)との共に適する所なり

造物者:天地間の万物を創造した神
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天地間のすべての物には、それぞれ所有者がいる。
もしも、自分の持ち物でなかったならば、たとえ髪の毛一本であっても、取ってはならない。
ただ、川の上を吹き渡るすがすがしい風と、山あいに昇った曇りのない月だけは、耳にそれ(風)が快い音として聞こえ、目にそれ(月)が美しい色として見える。
いくら取っても差し止める者はおらず、いくら使っても尽き果てることはない。
これこそ、万物を創造した神の、いくら取ってもなくならない蓄えである。
そして、あなたと私の、ともに気に入るものなのです。

「実戦演習 基礎漢文」松井光彦編著 桐原書店より

第2話 大学日本拳法に見る「水と月」

  
① 2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦
  岡崎(立命館大学)VS谷(同志社大学)
     https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns

② 2018 Kempo 第31回全日本拳法女子個人決勝戦
  坂本佳乃子(立命館大学)vs谷南奈実(同志社大学) 
     https://www.youtube.com/watch?v=DI-HxBtlxxg

  <男は根性、女性はファイティング・スピリット>
  男子の場合、男性的なパワーによって問題解決する(戦う)ものですが、女子の場合、男性に比べて力不足という以前、(本能的に)女性らしい戦い方によって問題を解決していこうとする。
そんな女性としての戦いぶり・身のこなしを象徴しているのが、上記お三方なのです。
  とくに、②における谷さんには、蘇軾の指摘した「江上の清風と山間の明月」の如き、無尽蔵の(ファイティング)スピリットを感じさせられます。

<体力や技術を超越したスピリット>

  これこそ私たち大学日本拳法人が、自ら体験し・実践し、「江上の清風と月を楽しむ」ようにして味わうべきものではないでしょうか。
  無尽蔵のファイティング・スピリットこそが、盈虚・消長することなき水や月の如く、満ち欠けはあってもなくなることなく、盛衰があっても消えることなき生(いのち)にしてくれるのですから。

水に映る月を切る者はいるが月を斬るものはいない
水に映った月を切るか、月(そのもの)を斬るか
コップの水、水たまり、池、川
そこに映る水を切っても月を斬ったことにはならない
月を斬ることはできない
が、(スピリットで)月を斬る者はいる。

  水に映る月ではなく月そのものを射る(斬る)ことができた者。

第3話 水月

  自分の名前をGoogleで検索すると、たくさんの検索結果が出てくる。これは誰でも同じ。有名人であれば数万件もの検索結果がでてくるでしょう。
しかし、いくら検索結果(という仮身)が多くとも、自分(という実身)はただひとつ。

  アマゾン・Kindleで何万冊もの本を読むことができるといって、実際に生涯で読めるのは数百(千)冊。
  死ぬときに心で思い出せるのは数冊。
  しかし、本当に幸せな人とは、たとえば、生涯一冊の聖書を読み込んで、それを心に刻み込んで死ねる人ではないでしょうか。
水に映った月ではなく、月そのものを射る(斬る)ことのできた人。

  ヒッチコックの映画「救命艇」(1945年)で、死んだ赤ん坊を水葬するとき(14分30秒辺り)に、心に刻まれた聖書の言葉を言えたのは、子供の時から人種差別に遭い、奴隷のような境遇のなかで、本といえば聖書しか手にしたことのない黒人でした。

主は羊飼い
主は私を牧草地で休ませ、そして、
憩いの水へと伴ってくださる
私の魂を生き返らせ、その名にふさわしく
正しい道へ導いてくださる
死の陰の谷を進むことになろうとも
私は恐れない
あなたがそばにいて、ムチと杖(つえ)で励ましてくださる
命ある限り
恵みと慈しみを忘れはしない
私は永遠に主の家にとどまる
アーメン(まことに、たしかに、かくあれ)

  「怒りの葡萄」で、長い旅の途中で息絶えた主人公の父親の埋葬に際し、元牧師のホームレスはこう言います。

この老人は人生を全うした
善人か悪人であったかは問題ではない
生きとし生けるもの皆神聖なり、という詩もある
私は死せる者のために祈りはしない
生きて迷える者のために祈りたい
爺さまにはもう迷いも苦しみもない
行く道も定まっている
土を掛けてあげよう

  これだけ簡単明瞭で的を射た、そして心のこもったはなむけの言葉はありません。
  私は父の死にぎわにも・葬式にも、立ち会うことができませんでしたが、遺影にこの言葉を投げかけることができたことで満足しています。

  大学卒業後就職した会社時代、ディールカーネギーや鈴木健二(元NHKアナウンサー)といった著名人や「ヤクザは人をどう育てているか」といった、人間関係や人材育成・教育の本をずいぶんと読みあさった時期がありましたが、結局は自分自身で体験して学んだ人間関係や、大学日本拳法時代の後輩の指導といった体験に如くはなし、でした。

2024年5月14日
V.1.2
平栗雅人


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