大学日本拳法と太極拳 V.1.2


第1話 本物を見よう

  日本の韓脳政治屋やマスコミといった、ポリシーもなければ正統的なスタイルもない、浮ついた名聞利養(世間の名声と利得)ばかり求める意地汚い人間ばかり見ていては、こちらまで、最近流行りの「感染する」被害に遭ってしまう。

  ○ 青山骨董品通りの中島誠之助(古美術鑑定家)氏は仰いました「本物を見よ」と。(5年間、本物ばかり見るか、偽物ばかり見るか、どちらかにせよ。)

  ○ 京都大徳寺の大亀和尚は「カスは要らん」と、人の生き方を喝破されました。

 毎日、真剣に練習し、死に物狂いで戦い、「本気でものごとにぶつかる精神」を涵養する大学日本拳法人は、少なくとも金勘定と関わることのない学生時代だけでも、本物を見て自分を磨くべきではないでしょうか。

 「土俵の砂つけて、男を磨く。」相撲甚句

第2話 「武術で人々を魅了する甘粛省天水市の張含亮さん」

      http://j.people.com.cn/n3/2024/0321/c94475-20147496.html

     人民報日本語版人民網日本語版 2024年03月21日の記事から、抜粋引用
 ・・・。 

  8歳の時、2番目の兄に勧められて、張さんは武威市体育運動学校に通うようになり、その時から厳しく長い武術の練習の日々が始まった。・・・
  同校で6年間厳しい練習を積んだ彼女は並はずれた根気さと意志の強さを身につけた

  2003年9月、武術の面で素晴らしい成績を収めた張さんは、甘粛政法大学にスポーツ特待生として入学した。その後、2007年に大学を卒業してからは、生まれ故郷にある天水師範学院で武術の教師になった。

張さんは、
 ○ 「武術が私を成長させ、健康な体と優れた精神状態を与えてくれ 
 ○  自分らしく、自信を持って生きることができるようにしてくれた。
 ○  私の人生は本当に素晴らしさに満ちており、そんな素晴らしさ与えてくれたのが武術。
 ○  自信を持ち、強く勇敢に独り立ちできている」
    と話す。

  2007年3月、張さんは初めて海外へ行き、フランス・パリで「ベルシー国際文化武術フェスティバル」に参加して、武術を披露した。
 その時、1万人以上の観客の前で、張さんが兄と3人で、中国の武術を披露すると、会場から万雷の拍手が沸き起こった。
  そして、開催責任者が走り寄ってきて抱きつき、「素晴らしい、素晴らしい!」と大絶賛し、全員がサムズアップで励ましてくれたと言い、


○ 「その時、民族文化を誇りに思う気持ちが心に焼き付いた
  と振り返る。

  張さんは、・・・

○ 「言葉というのはツールの一つで、うまく使いこなせれば、中国伝統の武術、文化などを、正確に世界の人々に伝えられると思う」
  と話す。

第3話  自分のスタイルをもつことのできる人間

  張さんは、「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」 のお二人と同じく、心技体における、明確な自分のスタイルを持っているようだ(張さんの記事のみからだけの感想ですが)。

  ポリシー(スピリット)と技術(動作)、そしてそれが一体となった様式美(所作・ふるまい・身のこなし)。
  だからこそ、言葉や服装にもそれが現われるのでしょう。
  太極拳とは、大学日本拳法人が二人での戦いで得るもの(精神的な境地)を、自分一人の戦いによって体得することができるようです。

  ベトナム人のThi Minh Huyen Tran さんの演舞( https://www.youtube.com/watch?v=Oz4pfvb0Uzk 46分頃)に、如実にそれを見ることができますが、達人になると、個人的な自分の表現を越えて、更には彼女たちの民族性まで表現(演武)できるようになる。

  これはなかなか、大したものなのです。
  デカルト(1596~1650)は「三銃士」のような真剣勝負師たちを見て「コギト・エルゴ・スム 真の我」という存在・人間の在り方に気がついた。

  大学日本拳法人は、フランスの剣士たちと同じく、本気で戦う(殴る・蹴る・投げる)という鍛錬から、「コギト・エルゴ・スム 真の我」に行き着くことができる。

  太極拳人は、中国人という長い歴史の中で煮詰まったDNA由来の強靭な精神力を凝縮することで、「中国人としてのコギト・エルゴ・スム 真の我」を体現している。  ベトナム人のThi Minh Huyen Tran さんもまた、太極拳のもつ「自分を掘り起こす力」によって「ベトナム人」を見事に表現されているではありませんか。
○ 100年戦争(1337~1453年)や30年戦争(1618~48年)を体験してきたフランス剣士も、○ 戦国時代を乗り越えてきた日本の武士も、
○ 数千年もの昔から春秋戦国時代を経て、ありとあらゆる艱難辛苦を戦い抜いてきた中国の拳士も
○ 5,000年間に亘る、周辺諸国との戦いや、現代ではアメリカの侵略戦争に勝ち抜いたベトナム人も、
  それぞれの剣技・武道・武術(中国語読みでWUSHU)による、同じ真剣勝負の心に徹することで、自分が本来持っている自我をdistinguish(浮き彫り・明確に)し、フランス人としての・日本人としての・中国人としての・ベトナム人としての存在感を、ビシッと示しているのです。

  これが歌舞伎という芝居なら、「日本人!」とか「中国人!」「ベトナム人!」と、天井桟敷から声が掛かるところです。

  自らの内に存在する・血に流れている、戦いの歴史・記憶を正しく思い出すことで、逆に平和な心を発揮できる人たちこそ、真の(存在感をもった)人間と言えるでしょう。

  対照的に、現代日本の「三大韓脳裸の王様たち」のような、地位や肩書き・名聞利養ばかりの人間は、その存在(感)が煙草の煙のようでしかないのです。

第4話 自分が自分になる道

  敵を殺すための自衛隊の格闘術、利権や権力を手にするための道具としての警視庁日本拳法と異なり、また、子どもたちが精神鍛錬でやる日本拳法でもなく、女性の護身術としての日本拳法でもない。
  大学日本拳法とは、自分が自分になるための道。意識するとしないとにかかわらず、形而上下での戦いによって自分を哲学する場といえるでしょう。  

  畢竟、コギト・エルゴ・スム(明確で明晰な、自分という存在の意識= 自我の覚醒)をすることで、何度でも自分を繰り返す・自分の血を濃くする。それこそが人生の目的だとすれば、大学日本拳法も太極拳も、或いは他のスポーツでも、そして、スポーツとは全く異なる静的な日本の茶道であっても同じこと(太極拳とは、究極の静的武道・スポーツ・運動といえるかもしれません)。

 ① YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」
   https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns
  の、お二人の立ち居振る舞い(蹴ったり殴ったりする動作は除く)に私は、茶道の宗匠のよう姿を見ることができました。

 また、「作用・反作用」To every action there is always opposed an equal reaction. ニュートン)という物理学の原理を、端的・簡潔な、彼女たちの姿と立ち居振る舞いによって示してくれたかのようです。

 ② 武術で人々を魅了する甘粛省天水市の張含亮さんhttp://j.people.com.cn/n3/2024/0321/c94475-20147496.html

 ③ YouTube「Thi Minh Huyen Tran 28th SEA Games Singapore 2015」  ベトナム人Thi Minh Huyen Tran さんの、2015年第28回SEA Games in Singapore WUSHU(武術)に於ける太極拳の演武。 https://www.youtube.com/watch?v=Oz4pfvb0Uzk 46分頃

   太極拳もまた、古くは鴻門の会で演じられた「戦いの心の一つの表現方式」であり、現代では毎朝の公園におけるジジババの健康法でもありながら、中国人として中国人になり切る道なのでしょう。

  たとえ「太極拳」という看板の元で師に薫陶を受けるにしても、また、多くの中国人が、自分から毎日・無意識に、太極拳を(心で)実践しようとも、彼らは永遠に自分が自分であろうとして生きようとしていることに変わりはない。

  40年前、私はシリコンバレーの或る中華料理屋の厨房で、中国人一家のなかで飯を食わせてもらった時の、彼らの機敏で無駄のない動作に、言いようのない洗練さと美しさとを感じました。飯を食う動作に太極拳を見たのです(もちろん、その時は「太極拳」という言葉は思い浮かびませんでしたが)。
  日本の首相で言えば、故田中角栄元首相の姿勢・歩き方・握手のしかたは「太極拳」であり、「大学日本拳法」であり「茶道」と形容してもおかしくないでしょう。美しく無駄のない、場と時間とを追求した在来種純粋日本人としての心の姿勢が、そこに見えるからです。

  中国の習近平国家主席やロシアのプーチン大統領にしても、その人自身が明確にdistinguishされていると人々に感じさせる以上に、彼らの民族性をも端的・簡潔に表現されているのは、さすがに選ばれた人間といえるでしょう。
  故大宅壮一氏は「男の顔は履歴書である」と評論されましたが、大学日本拳法や太極拳に精進し、身も心も精通された方とは、顔も姿も立ち居振る舞いも、各々の個性・人間性・民族性を如実に表出している、と強く感じます。

  残念ながら、近年の日本の首相たちや政治屋の、いかにもだらしなく、場所を汚したような姿勢や表情・動作や、時間を浪費するかのような軽率な立ち居振る舞いには、いかに彼らが在来種純粋日本人ではない、ということがわかっているとはいえ、気が滅入ります(わたしたちは「以て他山の石となす」という、逆の効用に期待するべきなのかもしれません)。

  大学日本拳法において、試合に勝つ・段位を取る(或いは、ケンカに勝つという)ことも、毎日の苦しい鍛錬のための目標(インセンティブ)として大切なことかもしれませんが、なんといっても、その人個人になり切る・動物でもなければ妖怪でもない真の人間になり切る、更には、遠い記憶をさかのぼることで、自分の所属する民族(私たちであれば縄文人)となる(自分の血へ還る)。
  その上で、たとえ人生に於いて一瞬でもいいから「神となる」ことができれば、素晴らしいこと。
  これこそ、私たち(真の人間にならんとする者)が、最も大切にすべきことなのではないでしょうか。

大宅壮一
評論家。大阪府生れ。東大中退。辛辣・明快な社会・人物評論を特色とし、多くの流行語を生むなど戦後のマスコミで一世を風靡(ふうび)した。著「文学的戦術論」「炎は流れる」など。(1900~1970)「大宅壮一日記」
広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店」

2024年3月22日
V.1.2
平栗雅人

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