大学日本拳法の神髄 V.3.1

第1話 「ネオンサインの神」或いは「機械仕掛けの神」

「The Sound of Silence 」Kei’s Echo (YouTube)

・・・
And the people bowed and prayed
そして人々はひれ伏し祈る
To the neon god they made
彼らの作ったネオンの神に
And the sign flashed out its warning
かたどられた文字列を警句として
In the words that it was forming
ネオンサインがきらめき
And the sign said, the words of the prophets are written on the subway walls
(安物の)予言者の言葉は地下鉄の壁に
And tenement halls
安アパートの玄関に書かれている
And whispered in the sounds of silence
沈黙の音の中でそうささやく

ソングライター: Paul Simon
訳詞:Kei

2020.12.29
あのKei's Echoさんのチャンネルが…【加筆と画像差し替え有】 (13)
https://plaza.rakuten.co.jp/nonbiri2010/diary/202012290000/

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機械仕掛けの神 A god from the machine ― メナンドロス

 古代ギリシアの演劇手法の一つ(デウス・エクス・マキナ)。
 局面が錯綜したところで絶対神が天上から降臨し全てに解決を与える。クレーンに似た舞台装置が神の登場に使われた事から。(テクノロジー格言より)
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 今の日本社会は、仕事をするフリをしながら、実際には小銭を稼いでいるだけのケチなサラリーマン(天皇・政治屋・マスコミ屋・警察屋、医者・坊主)ばかり。
 そして、そんな小物(タナゴ・ハゼなど、あまり大きくない魚。小人物 ⇔大物)が神のような権威と権限を持っているかのような幻想に人々が欺され、世の中が悪い方向へ向かっているかのようだ。
 外国資本に操られたマペットのような者たちによって、故田中角栄元首相、故近藤誠医師のような、本当に・真剣に・世のため人のために働く方は早世されてしまうのが現実、というのは悲しいことです。
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  明治期、北村透谷は「人生に相渉るとは何の謂いぞ」(青空文庫)で、「空の空なるものと戦う大切さ=神の意識を持つ意義」を解き、それを(天皇を神と勘違いさせられている)日本人にわかりやすく説いてくれました。

  古来、日本人は「日常すべてにおいて」「無意識に」神を意識して生きてきました(八百万の神)が、それを意識して生きる大切さを、キリスト教(やイスラム教)から学ぼうとした人たち。夏目漱石も芥川龍之介も北村透谷も、一人の神にひれ伏すという宗教にではなく、西洋人の「神を意識する生き方」に大きな感銘を受けたのです。
 
 日本では、その「神の意識」を、天皇という現人神(あらひとがみ)なんていう、子供だましに置き換えることで国民を総白痴化し、明治維新からの100年間で多大な損害と犠牲を払うことになってしまった。
 他国を侵略したという行為については、ユーラシア大陸で数百万人を殺しまくったジンギスカンのモンゴルの如く、アレクサンダー大王やナポレオンのバカげた侵略と、数多ある。だから日本の蛮行は許される、というわけではないが、日本人として真に反省しなければならないのは、現人神に狂って、常軌を逸した行動をしてしまったことでした。

 1945年の敗戦で、それをしっかりと認識せず、天皇の次は連合国最高司令官マッカーサーを現人神と崇めることで、贖罪を済ませてしまった。
現人神(あらひとがみ)を信仰することこそが問題である、ということをしっかり認識しないと、これから先の日本人は(頭が良い・死を恐れずに戦う真面目さ故に)、再び、とんでもない狂気に走ることになる。


第2話 自我の覚醒と、それを邪魔するものたち

 日本が開国したことで、唯一よかったこととは、ロシアを初めとする多くの欧米文学に触れることができるようになったこと。

  そして、それらをいち早く読むことができた一部の先進者たち(文筆家たち)は、神を意識することによって「コギト・エルゴ・スム 自我の覚醒を得る」という、西洋人の特性に気がついた。
 桁違いに大きな神を意識するからこそ、小さな自分の存在を明確にできるのだ、と。
 更には、多くの人種・民族がごちゃ混ぜになって動いている欧米社会では、明確な自我が無ければ生きていけないということを理解し、さまざまな文芸作品によって日本人を啓蒙したのです。

 日本人は何十万年もの単一民族だけの安穏とした生活に慣れきり、特に、戦国時代から江戸期にかけての数百年間は、「天皇」というものを全く意識することなく、日本人(縄文人)だけの歴史で生きてきたので、「神を意識する必要」がなかった。

 朝鮮半島由来の天皇とその取り巻き(貴族)という、全日本人の1%程度の外来種を除けば、在来種純粋日本人全員がひとつの家族みたいなものなのですから、取り立てて「自我 コギト・エルゴ・スム」など意識することなどなかったのです。

武士は殿様を現人神と崇め、百姓町人もまた自然信仰をベースにしながら、やはり、地元の殿様(将軍)を一番偉い人」と崇める(恐れる)。全日本国民の神ではなく、各地の大名がそれぞれの領民たちの神的な存在でしたので、大した神にならないですんだ。
  江戸時代、毎年どこかで一件は百姓一揆があったというくらい、人間の神(領主)は絶対的な存在ではなかった。へたに逆らうと斬られるから、とりあえず頭を下げておこう、という程度だったのです。

 ところが、明治維新によって、京都に封印されていた天皇という悪魔が復活した。そして、日本国民全員がこの「生きた神・ネオンサインの神」にひれ伏すことになってしまい、祖国防衛戦争という名の侵略戦争を行い、数百万人もの優秀で健康な若者を自らの手で殺してしまった(戦死の6割が餓死)。

 明治維新の時、日本の指導者たちがキリスト教でもイスラム教にでも改宗していれば、少なくとも現在のような、何でもかんでもいい加減に作っては壊しという社会にはなっていなかったでしょう。

 たとえば、ドイツのニュールンベルグという町は、第2次世界大戦中、アメリカの空爆によって町の80%を焼失しながら、戦後30年間かけて元通りに復旧した。これが「絶対という神」を、真に信仰する人間の生き方(社会)なのだ、と無神論者であった私は40年前にこの地を訪れた時に思いました。

 自分たちが絶対に正しいと信じて作った家並みや街並みは、火事や地震、或いは戦争によって破壊されたくらいで、そう簡単に「はい、それまでよ」と、捨て去るわけにはいかない。そういうドイツ人(ユダヤ人ではなくゲルマン民族)の魂を見た思いでした。

 今でも私はイエス・キリストやムハンマドが神とは思っていません。イエスやムハンマドは、徹底的に神を信じ切ることができたという意味では、確かに常人離れした偉大な人間だとは思いますが。

 神とは、あくまで人それぞれの心(自然)のなかにあるものであり、私の場合、教会やモスクで、ではなく「殴り合い」という真剣勝負の中で励起される「無意識の存在」なのです。

第3話 第3話 私が見た現代の神

○ 「絶対の追求という道」に
○ 「真剣になる」ことで
○ 「自我の覚醒」を成し遂げた人たち。

 私は「神を意識することで、本気になって戦うことのできる人たちの魂」というものを、2023年第68回全日本学生拳法選手権大会 における、ある観客の女性から、そして今回、あらためて鑑賞した各種試合(演武)のビデオによって、再認識させてもらいました。

① YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」   
    https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns

  帳(とばり)の後ろに身を潜め、陰にして在。
  彼女たちは力を持つ魂であった ― ジャン・ラシーヌ
Behind a veil, unseen yet present, they were the forceful soul that moved the mighty body.

 → 彼女たちの激烈なbehavior(外見上の立ち居振る舞い)の中に、日本女性としての奥ゆかしさ・謙虚さという、静かなる強い(精神)力を見た。

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② YouTube「2019年 第32回 日本拳法東日本大学リーグ戦(女子)
   【明治大学永岡里沙子-学連選抜高橋】
https://www.youtube.com/watch?v=zOGwTaiEymM

 真の誉れとは、その行動が記録するに値し、その記録が読む(観る)に値することである ― プリニウス
True glory consists in doing what deserves to be written; in writing what deserves to be read.

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③ YouTube「Thi Minh Huyen Tran 28th SEA Games Singapore 2015」

   ベトナム人Thi Minh Huyen Tran さんの、2015年第28回SEA Games in Singapore WUSHU(武術の中国語読みウーシュウ)に於ける太極拳の演武。
 https://www.youtube.com/watch?v=Oz4pfvb0Uzk
 46分頃

 「設計者はこれ以上付け加える物が無くなった時でなく、これ以上取り去る物が無くなった時が完成だと知る」 ― アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ  A designer knows he has achieved perfection not when there is nothing left to add, but when there is nothing left to take away.

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 彼女たちの神や宗教が何なのか、私は知りません。また、彼女たちは「神なんか信奉していない」のかもしれません。
 彼女たちの戦う姿だけを見て、私自身が「神的な姿」に感動したというだけの話であり、それで私は満足しているということです。

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 また、素晴らしいものを見てその存在感をdistinguishする(明確に見分ける・強く浮き彫りにする)と同時に、それと相反する「つまらないもの・くだらないもの」を見ることで、なお一層、素晴らしい存在をより明確に認識する(他山の石 → 他人のつまらない言動でも自分の役に立つことがある)という手法から、「全く神的でない現代の神御三家」を悪いお手本として、彼女たちの発する素晴らしさをより一層深く味わうこともできました。

 虚飾・虚妄の権威・権力によって国民を欺す、まさに現代日本の現人神(あらひとがみ)・ネオンサインの神のような者たち(政治屋・マスコミ屋・警察屋)。政治で金を稼ぐ、ガセネタでメシを食う、犯罪と違反で金と権力を求める。
  どうでもいい問題を、いつまでもダラダラ、検討だの話し合いだのまるで真剣味のない時間稼ぎだけしている政治屋稼業と、そんなくだらない茶番劇をニュースとして国民に押しつけて小銭を稼ぐマスコミ屋。そして、同じマッチポンプ体質の警察屋。

2024年3月15日
V.1.1
平栗雅人

第4話 「神」とは

 数多(あまた)ある大学日本拳法の試合(映像)のなかで、一体、なにゆえに彼女たちなのか。 もちろん、たまたま目にとまったというだけのことですが、そこになにを見たか、といえば「絶対を追求する強い心によって形成された、しっかりとした自我(コギト・エルゴ・スム)であり、それこそが「神」である(と思います)。 教会で賛美歌を歌うのも、メッカへ向かって五体投地をするのも、行き着くところの目的は、自分という神と一体化することなのですから。

 ほか(の選手)と比較して技術や試合の仕方がどうこう、という話ではないのです。

 「道を求めて止まざるは水なり」と、「絶対」に向かって永遠に流れ続ける水のようなスピリット(魂)を、私は彼女たちに感じたのです。

 もちろん、絶対に勝つという意気込みで試合に臨まれているのでしょう、そういうファイティング・スピリットが溢れています。 しかし、私が彼女たちに見せてもらえたものとは、それプラス、もっと大きくて重いもの。 それは、「自分という真の存在(神)へ向かって永遠に戦う道で、戦う姿」。

 (彼女たちにとって)それぞれの試合とは、ひたすら、蹴って・殴って・投げて・声を出すことによって、自分という神に行き着こうとしているかのようだ。

 イエス・キリストやアラーの神ではなく、自分のなかにある自我という神を信仰する、のでもない。自分が自分になり切るために(自分と)戦う。彼女たちの姿形・音聲(おんじょう)から、私はそんな(形而上の)姿を見て・感じることができたのです。

 もちろん、大学生になってから日本拳法を始めて2年目の人と、物心ついた頃からやられている人とでは、その姿形に「年季の違い」が現われるのは当然ですが、精神は同じです。

 たとえば、②(この試合当時)2年生の永岡さんの後拳は、①のお二人に比べれば「まだまだ」かもしれません。しかし、この女性は初めのうちは様子見でほとんどパンチを打ちませんが、一旦、勝機となると、執拗に7本も連続して(攻撃の位置を変えながら)後拳を打ち続けます。 私も、1年生で初めて(部員が少なかったので)大会に出場した時、技術も筋力も無い私は、ただただ、直面突きを連発していました。互いに打ち合う相打ちの連続でしたが、たまたまその内のひとつが当たって一本となったのですが、その瞬間、一本取れたとか試合に勝ったではなく、何か吹っ切れたような爽快感があったのを、40年経った今でもはっきりと覚えています。

 5年間の大学日本拳法時代、やることなすことすべてバカでしたが、あの一瞬だけは「神になれた」という気がするのです。 また、4年生(ダブったので3年生)の決勝戦、先鋒で出場した私は、やはり相打ちの打ち合いで7本一方的に取られ「圧倒負け」といういわばコールドゲームで負けました。 しかし、恥ずかしいとか悔しいという気持ちよりも、むしろ爽快感があったのを記憶しています(こんなことを言っては当時の仲間たちに申し訳ないのですが)。

 結果がついてこなくても、死に物狂いで一生懸命ぶん殴り合いをすることで、本当に「自分が自分になれた=神になれた」瞬間、それを5年間で2回しかではなく、2回も経験できたと考えれば、私は果報者であったと思うのです。

 その意味では、彼女たちのように、毎試合「真剣勝負の心に徹することで、自分になり切れる=神を見ることのできる」人というのは、ひとり彼女たちが幸せというだけでなく、(ネオンサインの神ではなく)「本当の神」と呼べるだけの存在感を実感できた私たち観客にとっても福音・御利益がある、といえるのではないでしょうか。

  ①の女性たちは、もの凄いファイトの塊、火の玉のぶつかり合いなのですが、そこには澄んだ水のような透徹感がある。

互いに相手と戦うという彼女たちの姿形を見ながら、同時に、私たち観客はそこに彼女たちが自分自身を徹底的に追求している(内面的・形而上的な)戦いの姿をも見ることができる。

「自分と戦う」という日本武道の精神が、まさにここにあるのです。

2024年3月15日
V.1.1
2024年3月19日
V.2.1
2024年3月21日
V.3.1
平栗雅人


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