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「さんかく」じゃない何かを見つけたい

反応あって嬉しい単純人間なので、また書きました。読んでくださりありがとうございます。ちょっと文体のテイストが変わりますが、今回もよろしくお願いします。

今回の内容は前回のnoteで綴った「素直に生きるには、この世界はちょっと窮屈」というフレーズに紐付くものになるかなと思うので、そんなイメージを持っていただきたい。


前置きはこのあたりにして、本題に入ろうと思う。僕にはこの世界が「さんかく」に溢れているように見える。何かが欠けているような、欠けてしまうような。

別の例えを用いるなら、この世界は歯車が複雑に噛み合って出来ているように見える。みんな元々満月のように丸かったけど、噛み合うために表面を凸凹に削られているような。

ここでいう欠けている、削られているものを表す適切な言葉は思いつかない。むしろ言葉に無理やり収めようとすることに違和感を覚える。ひと言では表せないそんな何かを感じている。

このような「さんかく」の世界で、欠けるあるいは削られることに対して、気づかない人、見て見ぬふりをできる人、痛みを感じながら足掻き変えようとする人、いろいろな人がきっといると思う。(思うにコーチング界隈に飛び込む人は1番最後の部類に近いのではないだろうか。)

改めて、ここでいう「さんかく」をどういう意味で用いているのか記述しようと思う。1つは記号だ。「〇、◎、はなまる、×ではない」のニュアンスがある。もう1つは漢字の「参画」のニュアンスを時折込めている。自分がその世界に足を踏み入れられない事実から、飛び込む人々へのリスペクトがある。

次に自分の立場を示そうと思う。上記からわかるように、自分は何かを否定したいわけではない。きっと欠けるものと引き換えに別の大切なものを得ているから。それも素晴らしいことだ。

このような考えを抱く中で自分はどうしてきたのか。それは動かなかったり、手を出して探っては引っ込める、そんな日々を過ごしてきたし今もそんな状態だ。

傍から見ればワガママ、臆病、迷子、芯がないよくわからんやつ、そう見えるだろう。自分でもそう思う。(意外とそう見えてないのかな、気になるところ)

欠けてしまう感覚に目を背けられず、足を踏み入れられない自分は恐らく社会不適合なんだろうなと自覚しつつあるし、過去を振り返れば思い当たる節がいくつもある。

それでも、そうした日々にもきっと意味はあると心のどこかで願っている。手を出してみたり、出さなかったり、引っ込めたりしてきた。そうやって自分なりに「さんかく」に「×(ペケ)」をつけてきた。

自分にもまだ、どんな糧になっているのかわからない。道を見失っているから。それでも、ひとつひとつちゃんと「×(ペケ)」をつけてきた。そう、ちゃんとつけてきた。それは無ではない。"自分に合わなかった"という事実がちゃんとある。非効率というか、愚直というか。必死に生きるとこうなってしまうのかな。

いつの日か、「さんかく」じゃない何かを見つけた時、振り返れば無数の「×(ペケ)」が道となっているだろう。見つける自信も見つかる確信も全くない。もしかしたら既に自分の中にあるのかもしれない、見失っているだけで。しばらくは引き続き愚直に手探りの日々を過ごすことになりそうだ。

いつこれらのnoteを恥ずかしくなって消すだろう(笑)。次回は講座も終わってしまうので、手を出してみた事例の1つ、コーチングについて触れようかなあなんて思ったり。心の赴くままに書いているので確証はないです。

p.s今日の講座の物語というフレーズはすごく心地よくて、それが重なり合うのは素敵だなと思いました。

巡り巡ってサポートしてくださったあなたへ何か還せるように生きていきます。よろしくお願いします!