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父の焼き鳥と私の焼き鳥屋

小学1年のぼくが今のわたしの焼き鳥を食べたらどんな顔をするんだろう?」

と想像しながらいつも焼き鳥を焼いております。

「めっちゃ美味しい!!」

と目をまん丸くするのか

「お父さんの焼き鳥の方が美味しい」

とダメだしするのか。

コレはどういうことかといいますと、わたしのペルソナは「小学1年のぼく」ということです。

明確に「誰に、何を、どうやって届けるのか?」を定めることで、自分の仕事はブレなくなるな、とつくづく思います。



父の焼き鳥と私の焼き鳥屋


昨夜、夏休み中の旅行客と思われる二組の家族連れが「薩摩炭火やきとり 居酒屋つかさ」に来店してくれました。

子供たちは長ーーいお皿にのった大量の焼き鳥を見て目を輝かせ、食事が進むにつれて笑顔が溢れていました。

ご注文と来店時間が重なったため、少し慌てた場面もありましたが、無事に対応できたことに胸をなでおろしました。

家族連れの方々が

「おいしかったね~」

と満足そうな笑顔で店を後にする姿を見たとき、

「今日のミッションは無事クリアした」と感じることができます。

この仕事のやりがいを感じる瞬間の一つは、お客様が楽しそうに食事をしている姿を見ることです。

そして、その光景は私の幼少期の思い出と重なります。

小学校1年生の頃、私は学校が終わると真っ先に父の焼き鳥屋に駆け込んでいました。

焼き鳥屋の前に漂うタレの香ばしい匂いに心を躍らせながら、店に着くと父が笑顔で迎えてくれるのが日常でした。

父は忙しい中でも、私のために焼き立ての焼き鳥を用意してくれ、その焼き鳥を手に取る瞬間が何よりも楽しみだったんですよね。

父が焼き鳥を焼く姿や、父の焼き鳥の味。

直接教わったわけではないけれど、遠い記憶の中にその光景が浮かんできます。

あの頃の私にとって、父の焼き鳥は特別でした。

香ばしい香りやジュージューと焼ける音、父の真剣な表情。

腹巻からミニボトルのウィスキーを取り出し、キュッと飲んでからの笑顔。

その記憶は、時間が経つにつれて少しずつ曖昧になっていくものの、不思議と今でも鮮明に思い出すことがあります。

父が焼き鳥を焼く姿を見るたびに感じた安心感や、焼きたての焼き鳥を食べる喜びは、私にとって宝物のような感覚です。

けっして教わったわけではないけれども、そんな思い出が、今の私の焼き鳥屋の原点となっている気がするんですよね。

先ほども申し上げましたが、焼き鳥を焼いているとき、私はよく「小学1年のぼく」を想像します。

「もし小学1年のぼくが、この焼き鳥を食べるとどんな顔をするんだろう?」

「めっちゃ美味しい!」と言ってくれたらうれしいけど、

「お父さんの焼き鳥と比べるとまだまだやね」と笑われそうな気もするよな、と。

私のペルソナは「小学1年のぼく」です。

明確に「誰に、何を、どうやって届けるのか?」を定めることで、自分の仕事はぶれなくなるとつくづく感じています。

この明確なペルソナ設定が、日々の仕事において大きな指針となっています。

私が大切にしているのは、あの頃の自分が感じた父の焼き鳥への思いと、そこから生まれる幸せな時間です。

お客様がまた訪れたくなるような焼き鳥屋を目指して、私は今日も今日とて炭火の前に立ちます。

焼き鳥を通じて、父の焼き鳥を目指しつつ、自分なりの新しい風を吹き込みたいと思います。

そして、「小学1年のぼく」が今の私の焼き鳥を食べてどう感じるか、常に想像しながら、これからも一串一串を心を込めて焼くとです。

なので、「つかさ」に焼き鳥を食べに来てくださいね。

あなたとお会いできるのを心から楽しみにしております。

良い一日を!

いつもありがとうございます。

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