見出し画像

アスファルトの下の魑魅魍魎 -鑓水篇-

辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』(1975 角川書店)を読んだ。

過去に多摩美術大学八王子校に通っていたということもあり、今までに読んだ民俗学の本のなかではダントツにおもしろかった。

大まかに言えば、これは八王子 - 横浜間の近代日本の「絹の道」を走った有形無形様々なものを、とくに八王子市内の鑓水という土地に絞って1970年代前半にリサーチし記述した本だ。

それらは以下となる。

・鑓水商人(富と出世への野心を持った男たち)
・籠のような織場に閉じ込められた八王子など養蚕地の機織り女たちが過酷な条件下で働いて紡ぎ出した生糸や織物
・キリスト教
・自由民権運動
・武相困民党(1884年(明治17)に蜂起し多摩・相模を揺るがすが、鎮圧される)
・1923年関東大震災の発生直後の混乱下で流された朝鮮人暴動のデマ(横浜→原町田→小山→田端→鑓水)
・横浜から八王子監獄署(現:八王子医療刑務所跡地)に護送される咎人
・第二次大戦の出征兵士

開国後の横浜から流れ込んできた文明開化のきらびやかなものよりむしろ、ドロドロした血生臭いものの方がはるかに多く駆け抜けていった道だ。

歩いてみると実感するが鑓水は平地が少なく丘陵と河川で入り組んだ狭い谷戸地域だ。
であるにもかかわらずまるで『八つ墓村』か『犬神家の一族』のような冥い情念が、そんな狭い土地に動脈硬化のように吹き溜まっている。

鑓水
大塚山から見た八王子方面

実際に鑓水では2件の有名な殺人事件が起こっている。

・1963年、道了堂老女(浅井とし)殺人事件
・1973年、立教大学助教授(大場啓仁)一家心中、教え子(関京子)殺害事件

「大体あそこは変よ。…あんな小っぽけな村で、何人も豪商がでるなんてふつうじゃないわ。それも満足な死に方をしたのは一人もいないじゃないの。…絹の道だかなんだか知らないけれど、呪われた道よ。恨みつらみの道だわね。」

辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』 1975 角川書店 P.277、作者の友人の言葉
道了堂跡
道了堂跡

2010年代にすでに多摩ニュータウンとして郊外化しきっていた頃の鑓水の多摩美術大学八王子校に通っていた身としては複雑な気持ちになる。
少なくとも当時の私の眼には比較的小綺麗な地域に映っていた。
しかしせいぜい半世紀分のアスファルトをはがしたら大量の虫ではなく魑魅魍魎が渦を巻いている。

鑓水
多摩美術大学八王子校前

ちなみに2018年に移転した八王子医療刑務所があった八王子駅南方至近一帯の広大な跡地は現在市民に開放された交流スペースとするため整備中だ(2026年完了予定)。
この一帯も近い将来、鑓水が多摩ニュータウンに飲み込まれたように郊外という小綺麗な蓋がされる。

https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_01530/#hd_title_3

そんな鑓水(だけに限らず日本中のそこかしこ)に吹き溜まった魑魅魍魎が表面的には隠蔽される潮流が生まれたのはやはり戦後からだろう。

「アメリカの生産力、科学、技術の力の前に、『日本的精神』とか『大和魂』とかいうものが太刀打ちできなかった」という先の敗戦への教訓から、60年代を経て大阪万博へと至る四半世紀は「科学の時代」だった。
当時は「経済成長や科学、技術の振興に対する…人々の強い希求」が「科学的に説明のつかないことを『迷信』『まやかし』として否定する…精神風土」が存在した。

内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』2007 講談社 P.39 - 41

こうして経済成長を遂げた後から現在までの半世紀近く(80年代末からは個人的な実感を伴うが)、
多くの日本人は「東洋人の顔して西洋人のふりしてる」(※Mr.children『光の射す方へ』1999)という時代の空気を徐々に無意識に内面化していったと感じる。

私含め、多かれ少なかれ誰もがそうだったと思う。
しかし実際にはそんな時代は日本史の中では一時的で特殊な時期だったのではないか。

今ではこの70年代頃までの『八つ墓村』的ヴァナキュラーな魑魅魍魎こそが私たちの生きている場所の本来の姿だと言われた方が、正直納得がいくのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?