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浜の人と島の人は瓢箪を媒介して交感する

石原七生×村上佳苗
「いきかよふ ほとり ほころぶ」
GALLERY枝香庵
2020/3/21 – 3/30
 
「いきかよふ ほとり ほころぶ」というこの展示のタイトルにしてコンセプトである言葉に対して、
石原七生は「身体」、村上佳苗は「道」をイメージしたとパンフレットに記載がある。
それに対して私はハブ(交通結節点、ネットワークの集線装置)を連想した。
散在した要素がある一点で集まり、その後再び散解していくような、前世代から受継いだものを次世代へつないでいくようなイメージだ。
 
石原、村上はともに基本的に具体的なモチーフを描く画家だが、重要なことはそのモチーフの背景にある。
つまり私には石原と村上は自らの美術家としての自我を一定範囲の土地に同期しているように見えるのだ。
 
 石原は自らの出身地である東京湾岸の品川周辺に「最果て」感を抱いている。
それは明太子パスタを箸で食べるような、漢字と平仮名と片仮名と英語の表記が同居しているような、さまざまな文化が流れ込む最果てである日本らしさの縮図とも受け取れるが、その最果て的ごった煮の感覚は石原の絵画に対面したときのそれと似ている。
石原の絵画の多くは画面がフラットな線描で描かれた記号的モチーフに埋めつくされており、色彩もハレーションを起こしていたりして、遠近感や絵画空間が捉えがたい。
絵画の前で視点が定まらず困惑することもある。
まるであらゆるものが漂着したシュールな浜辺のパノラマのようにも見える。

村上は瀬戸内海にある愛媛県大三島の出身だ。
大学進学を期に島を出た後も祭りに参加するなどの目的で月に一度以上のペースで帰郷する村上は、まぎれもなく自立した主体でありつつも、同時に自我を共同体の一部に、そして島の一部に埋め込んでいるように見える。
それはつまりその土地をいきかよふ(行き通う)波、木々、果実、大気、祭りという慣習などの前世代から受け継いだものを次世代に渡すまで預かっているという、前近代的な感性を備えているように見えるということだ。

そんなふたりの今回の展示で目立つのは瓢箪だ。
複数ある展示空間に数多くの瓢箪が展示してある。

これらの瓢箪はもともと村上が育てていたもので、数年前その一部が村上から石原に授けられ、影響を受けて石原も育てはじめた、いわばケータイでも手紙でも伝書鳩でもない、友好の証の記念樹のような交信媒体だといえる。
 
これらの瓢箪は村上の出身地・大三島の目と鼻の先にある無人島「瓢箪島」を連想するものであり、
さらには「島」そのものの隠喩としても解釈できる。
また大三島の砂を入れ島に流れ着いた流木でふたをした「器」として機能する作品であり、
さらにその形状は石原がよく絵画のモチーフにする「未確認飛行物体」のようでもあり、
時空のある一点から別の離れた一点へと直結するトンネルのような空間領域である「ワームホール」にも似ている。

石原と村上の過去作品や活動をいくらか知っている者として、今回の展示のコンセプト(展示タイトル)と瓢箪というモチーフの前面化によって、ふたりの作品に対して別の視座に立てたように感じた。
 
それぞれの出身地に自我を同期した浜の人と島の人は、瓢箪を媒介していきかよふ(行き通う)のだ。

※GALLERY枝香庵 HP
https://echo-ann.jp/exhibition.html?id=384

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