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聴力検査は意味がない

APD/LiDという言葉と、手話について書きたいと思います。

私は生まれつき耳が聴こえます。聴こえる人間として育ちました。
実際、学校や健康診断などで受けてきた聴力検査では、両耳とも異常なし。
ヘッドホンをつけて、「音が聴こえたらボタンを押してくださいね」とボタンを手渡され、ヘッドホンから流れる高い音と低い音に合わせてボタンを押してきました。

健康診断で「問題ありませんね」と言われることは、大抵の人にとって嬉しいことだと思います。
でも私は違いました。
こんなことを願うのはよくないとわかっていますが、いつも「聴力に少し不安なところがありますね」と言ってほしかった。
「最近、聴こえにくいと感じることはありませんか」と尋ねてほしかった。
そして私は、「最近じゃありません。昔から少し聴こえにくいと思っていました」と答えるんです。
そんな場面を、小学生のころから期待していました。
今の歳になっても、そのささやかな夢は叶っていません。

大学生になって、APD/LiDという言葉に出会いました。
APD(Auditory Processing Disorder)/LiD(Listening Difficulties)は、日本語では「聞き取り困難症」と言われており、(おそらく)最近になって注目を浴び始めた言葉だと思います。
私は本を通してこの言葉に出会いました。その本のキャッチコピー「聴こえているのに聴き取れない」が、たまたま私の目に飛び込んできました。
これだ、と思いました。私のための言葉だと思ったんです。

私には弟がいるんですが、昔からふたりで「学校の聴力検査は意味がない」と話していました。
「あれは静かなところで、しかも音だけだもんな」と弟は言っていました。
あの音が聴こえることと、実際生活の中で人の話を聴き取るのはわけが違う、と。
私は弟の言葉に同意して、ふたりで「だよな!!」と言い合いました。

大学生になって、APD/LiDの言葉に出会って、
小さいころから抱えていた「違和感」に決着がつきました。
別に声を大にして言うほどでもない、でもちょっと困っていた「違和感」

どうもほかの人は、今の話が聴き取れるらしい。
あの人の喋り方がわかりにくいんじゃなくて、問題は私の耳らしい。
聴力検査で異常がなかったら、すらすらと人の話を聴き取れることになるらしい。

でも、それでも、聴こえないんです。

APD/LiD(聞き取り困難症)とは、「音は聴こえているけど、それをことばとして脳内で処理する過程になんらかの問題がある」という症状だそうです(私がそう思っているだけで、本当の定義は違うかも...)。結果、「音が鳴っている」ことはわかるけれど「何を言っているかわからない」という状況が生まれ、「聴こえているのに聴き取れない」という話になります。

APD/LiDについて調べていく中で、症状を持っていらっしゃる方の体験談を拝読しました。
私なんかとは比べものにならないくらいつらい体験をなさっていて、私よりもっとずっと「聴き取れない」ことに障害を感じて、苦しんでいらっしゃる方が何人もいました。
その方々に比べたら、私はまったく軽い方で、ほとんどなにも苦労していません。
APD/LiDの症状のせいで仕事を失ったこともないし、何か不利益を被ったこともありません。
ただちょっと、友だちと話すときに、不便がある。ただそれだけです。

たとえば、私をはさんで友だち二人が話しています。
私は二人が話していることはわかります。
でも何を言っているか、本当にまったくわからないんです。
しかし不思議なことに、両隣の二人の間で会話は成立しています。
私は内容がわからないので、曖昧に笑っています。
なんの話?と私が言うと、聞いてなかったでしょと言われます。
聴こえなかったんだよ、と言いたいんですが、二人の会話が成立してしまっている以上、そして私の聴力検査の結果に問題がない以上、私は二人の会話を「聴き取れなければいけない」んです。

だって聴こえるんでしょ?

こういうことです。

話を少しわきへ逸らします。
大学に入って出会ったものが、APD/LiDのほかにもう一つあります。
手話です。

きっかけはささいなことだったんですが、手話サークルに入って手話の勉強を始めました。
そうしたら、手話を勉強することにハマってしまったんです。
なぜかは当時わからなかったけれど、手話には妙な安心感がありました。

この妙な安心感について考えて、最近答えらしきものにたどりつきました。
たぶん、「聴き取らなくていい」ことに、安心を覚えたんじゃないかと思います。

※ここからの話は、手話をちょろっと勉強しただけの人間が言うことなので、正しくはないかもしれません。ご了承ください。

手話は視覚言語ですので、聴き取りが必要ありません。
私が通っていた手話サークルはろうの方がいて、コミュニケーションがほぼ手話でした。
手話に初めて触れたとき、こちらのほうが居心地がいいかもしれない、と思いました。
もちろん私が慣れ親しんできたのは音声の日本語で、そちらが母語です。
なので手話がわからないという不安は多少ありましたが、それでも居心地がよかった。
もちろんそのサークルの雰囲気がよかった、というのも理由だと思います。
でも確かに、自分には目で見る言語が「合っている」と思いました。

耳の問題について、もっといろいろ種類があってもいいのに、と今は思っています。
聴力の数値だけじゃなく、「今聴こえない」とか「聴き取りにくい」とか、いつでも文字情報で補助する、とか、いろいろ。
今まで見聞きした言葉で一番ぐっさりきたのは「だって聴こえてるんでしょ」です。
手話を勉強する過程で、自然と聴者とろう者という二項対立に触れました。
でも、ろう者の中にグラデーション(たとえば聴力の数値とか)があるように、聴者の中にもグラデーションがある(と私は思っている)。
そのグラデーションの一切を無視する言葉が、「だって聴こえてるんでしょ」ではないかと。
聴こえていても聴き取れない。私はAPD/LiDという言葉で救われました。
私だけじゃなかったと思いました。私は自分を責めなくていい。話を聞こうとしているけど、聴き取れないってことが一般にあるんだよ、と主張していいんだと。

とりあえず、これが今私の考えていることです、という記録。
お読みくださった方、ありがとうございます。

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