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「錯雑」 #1/14の日記

今日楽しかったな。

若干の二日酔いのだるさはありつつも、ボドゲをしてから飲んで、散歩に行き、風呂を洗い湯船に浸かっています。
自分の中では長めの1日。いーい疲れを感じながらあったけ~~い風呂に入れていて多幸感マシマシ。

「イヤな虫」のゲーム。

今日ボドゲカフェに行きました。色々やったんですが、ごきぶりポーカーが一番印象に残っています。

このゲーム、とても有名ですよね。ボドゲの中でもわかりやすいし、害虫モチーフというキャッチーさ。誰でも楽しめる。

これ。このWebページすごいな。俺でも書けるぞこのHTML。まあいいか。見てもらえれば分かるが、ぺらっと1ページで説明しきれるくらいルールがシンプルなのがいいよね。

まあ、とはいえルール説明は蛇足になるので避けますが、物凄く簡単にいうと、「他人の嘘を見抜けなければ敗北する」というルールです。

「人間」を映すゲーム。

これが、単純なのに奥が深い。単純に嘘を見抜くか否かで言うと二分の一ですが、様々な要素によってその単純さをどんどん見失っていくのが非常に面白い。

大事なのは、単純さを「失う」のではなく「見失う」こと。冷静に考えれば大して考えなくていいのに、自分で勝手にゲームを錯雑したものと捉え、ドンドンどツボにハマっていくのだ。

人間がやることで生まれるゆらぎが重要な要素になる。それこそがこのゲームの本質だと思う。

負けないために必要なこと。

単純さを見失うとはどういうことか。
それは、このゲームの単純さを理解すれば分かります。
色々細かなルールはあれど、要は「渡されたカードがどのカードか分かれば負けない」のです。

そしてこのゲームは、それを実現する考え方があります。本当に簡単だけど、確実に勝てる確率を上げる考え方。

それは、相手や自分の手札、場に出ているカードといった「目に見えて分かる数字情報」に基づいて相手の言葉の真偽を判断することです。仕事風に言えば「定量的要素に基づいた判断」。

このゲームは、同じ種類のカードは全部で8枚しかありません。これがミソです。

このゲームにおいては、進行状況によって、種類ごとに「そのカードが渡される確率」が変わってきます。

認識できる状態(場に出ているカード+自分の手札)で6枚存在するごきぶりカードと、3枚しか存在しない蜘蛛カードでは、相手が出してくる確率が違ってくるのです。

当たり前ですが、相手の手札の中に含まれている確率は、残り2枚しかないごきぶりよりも、あと5枚ある蜘蛛の方が高い。

だから、その状況で相手が「これはごきぶりです」と言ってきたら、疑ってかかってみる。これだけで大分嘘を見抜く確率が上がります。相手の考えを読む、よりも数字の方が確度が高いからね。

本当はそれだけでいいはず。

ただ、それだけではやはり勝てなかったりします。なぜか。
それは相手が人間だからです。非合理を本質とする人間同士の勝負だからこそ、イレギュラーが生まれる。結果として、カードと関係ない挙動に着目して失敗したり、確率的に考えればありえないカードが渡されたりします。

それこそが単純さを見失う最大の要素、心理的要素です。さっきと比較して言えば「定性的」になるのかな。

本当は「そのカードがどのカードか」を考えればいいだけなのに、人間同士の勝負だから、「相手の人間が嘘をつきそうか」というあまりにも不安定な要素も考えてしまうわけです。結果として判断が毎回異なる。安定性が欠ける。判断軸を失い、焦り、より嘘を見抜けずになり、ドンドン敗北に近づいていく。

これは自分が嘘を吐く時もそう。自分の嘘が見抜かれた時に敗北が確定する、というターンにおいて、それでもリスクテイクして勝負を賭けるか、みたいなものは正直性格でしかありません。リスクを取らない方が明らかに合理的だったとしても、人はなんだか冒険したくなるものです。

この揺らぎは特に気の知れた人とやると出るような気がします。今日は仲のいい人とやったので、「果たしてこの人はここまで考えているか?」とか「頭では分かってるけど、追い込まれて冷静さを欠いているので逆張りしてくるだろう」とか余計な勘ぐりをすることができて、非常に楽しかったです。知らない人だったら、そもそもそんな疑えない気がする。申し訳なくて。

人間は「社会的生物」だから。

もう一つ、このゲームを複雑に見せかけてしまう要素が発生してきます。

「結託」です。

このゲームの目的は勝つことではありません。「負けないこと」です。

このゲームに協力という概念はありません。でも、上記の目的のもとでは、段々「一番不利な状況にいる人に攻勢を賭けよう」みたいな空気になってきたりもするのです。人間って最高ですね。最悪で最高。

明らかに有利な状況にいる人にわざわざ勝負をしかける、みたいな不合理なことをすると、「お、今こいつはわざわざ意味のないことをしてきた。ということは自分を経由して不利な人に攻撃しようとしているな?つまり、自分が第一攻撃対象じゃないので、今出されているカードは自分にとってそこまでリスクの高いカードじゃないな」みたいな考えも巡ってくるわけです。

そして、それが転じて、「一番不利な人に攻撃をすると見せかけて、やっぱり実は一番有利な人を引き摺り下ろすために攻撃をしかけている」みたいな裏切りもできるわけです。

社会って感じですよね。どうしようもなく人間が出て、面白い。

本当は何事もシンプルかもしれない。

どうでしょう。ここまで聞いて、難しく感じてきませんか?
あらゆる要素が複雑に絡み合って、どんどんこんがらがっていく。

でも思い出してください。このゲームは「渡されたカードがどのカードか考える」というそれだけのゲームです。たったそれだけ。本当は、とても単純。出されるカードの確率だけを考えて、「はい」「いいえ」のどちらかを答えるだけです。

でも、人間同士だから生まれる非合理が自分を勝ちに導いたり、人間同士が結託して小社会を形成したりそれを裏切ったりしてドラマが生まれる。

それってなんだかいいですよね。最効率・最短ルートの人生を歩まなくてもいい、と言ってくれている気がします。

人生の「正しい選択」を否定してくれるゲームな気がして、嫌な虫たちとして描かれているごきぶりたちが、なんだか愛しくなりました。深く考えすぎですね。きっとゲーム製作者はそんなこと考えていない。

でもま、解釈するのは自由だからね。それでこそ「人間」。

またやりたいな。自分で買おうかな。

ちなみに、このゲームをやっているおじさんたちのマジで面白い動画があるので絶対に見てください。俺の好きなオモコロチャンネルです。


いつもの散歩日記です。

今日は飲み会から帰ってきてから散歩しました。
特段変化はありませんでしたが、ふとお寺さんに置いてあるベンチに目が入りました。

ベンチに書いてある「お互いさま!!」という文字を見て、なんでそんなイヤなこと言うの?と思った。

それは自分が「お互い様」という言葉を、棘のある免罪符的な言葉として捉えているからだと気づいた。
「他人にイヤなことしたとして自分もされている時もあるし、お互い様だよね、だからイヤなことしてもいいじゃん。」みたいな。

でもベンチにお互い様と書いてある意図は「大変なことがあっても、お互いさまだから助け合っていこう」というポジティブな感じですよねきっと。

自分の強すぎる歪みに気付いたことと、「!!」の語気の強さになんだか面白くなって、ひとりで笑ってしまった。

めっちゃ早く寝ようと思ってたのにもう1時。寝よう。

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