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「聞き手を発見する」ということ

学校が始まらずにそれぞれ自宅にいる次男と甥っ子を誘って、3月末から始まったzoom読書会。週に二度、今この時に読んでおこうということで渡辺信夫先生の『教会論入門』を読んでいます。一回で1章を取り上げ、1頁ずつ輪読し、ところどころで質疑、コメント、感想を言い合うという感じで1時間。全12章なので6週間で読み終える見通し。

そこで昨日読んだのが第9章、「つとめはことなれども、主は同じ」といういわゆる信徒論の箇所でした。
60年近く前に書かれた書物でありながら今の教会にも続く課題を鋭く衝く預言者的な書物でありつつ、しかし当時からすると恐らく一番状況が変わった(本質はともかく)とも言える箇所がこの第9章ではないかと。ヘンドリック・クレーマーの『信徒の神学』が大いに読まれ、第二バチカン公会議によるカトリック教会の大変革を間近に見ていた1960年代の雰囲気を、1968年生まれの僕も想像するところです。

さて、昨日読んだ箇所で心に残ったのが次のくだり。

世には働きたくても働くことのできない人がいます。肉体の病や、社会の矛盾のために・・・。
信徒とはこの世で働く人であるかのように言って来ましたが、それでは働けない人はどうなのでしょう。わたしたちは、この人たちを無視する信徒論に走らないように注意したいと思います。そのためには、信徒論の基礎を「信徒の働き」に求めないようにしなければなりません。働きはなくても、すでに一人前の信徒なのです。いや、人一倍信徒であるとさえいえます。御言葉を「聞く」ことにおいて。
説教について論じた箇所において、わたしたちは御言葉を「聞く」ことがいかに積極的な参与であるかを見ました。このことをもう一度繰り返して強調しなければなりません。礼拝のおける聴聞者の位置は、説教者のそれと比べて決して軽くはないのです。聴聞者が説教者以上によく御言葉を聞く場合もあるのです。人には知られないかもしれません。だが、すべてをさばく主は知りたまいます。
渡辺信夫『教会論入門』(新教出版社、1963年)113頁。

1960年代前半と2020年代とでは確かに日本の社会環境や構造は大きく変化しているものの、高度経済成長期を過ごし、オイルショック期を過ごし、バブル期を過ごし、その崩壊後を過ごし、失われた20年を過ごし、グローバリズムと新自由主義時代、ナショナリズムと格差の時代を過ごし、それによって様々な淘汰が起こっている今。時代がぐるりと巡って、今の時代状況と重なるものを感じます。

そんな中で起こった今回の新型コロナウイルス災禍。毎週の礼拝を特殊な状況下でささげ続けながら、さまざまに考え、悩み、思い巡らす日々を過ごす中で、昨日の読書から与えられた気づきがありました。

3月終わりから共に集まる礼拝から各家庭でのネット配信その他の媒体を用いた礼拝に切り替えて以来、朝の礼拝に集まるのは基本、牧師夫婦と当番役員の三人なのですが、4月二週目から「先生、礼拝堂で一緒に礼拝してもいいですか?」と壮年のKさんが加わっておられます。
Kさんは私たちの教会の初期からのメンバーで、いつも忠実誠実に主を愛し、役員としてもずいぶん長く教会を支えて来られた方。数年前に仕事中に倒れ、以来半身麻痺になって、仕事も辞め、教会の働きからも退き、しばらくはずいぶん落ち込んだ日々を過ごして来られました。
病気をきっかけに教会の数軒隣り、徒歩1,2分のところに移られて、この数年で少しずつ元気になり、今では毎週の礼拝や水曜の祈祷会に欠かさず集うようになっておられますが、それでも時々「こんな身体になってしまって・・・」、「まだ夢を見ているみたい」と言い、思うように話せない、祈れないと、もどかしさを口にすることも。

Kさんからの申し出に、家も一番近くで、ネットで礼拝するのもままならないことだから、それではどうぞお出でくださいとお返事し、それからこの数回の日曜日、礼拝堂の片隅に座って一緒に礼拝するようになりました。

当初の私の感覚は、Kさんを牧会的な配慮のもとに受け入れているというものでした。しかし先の文章を読んで、そのような感覚の誤りと傲慢さに思い至りました。そして気づかされたのは、むしろ今のこのような状況下で、Kさんは教会の皆さんを代表してここにいるのだということでした。

思いがけない病を得て人生が一変したKさん。教会に一番近いところに住むようになったKさん。かつてのように働くことはないKさん。そんなKさんが日曜日の朝になるとゆっくりゆっくり歩いて教会に来て、礼拝堂の椅子に座り、賛美を歌い、祈りをささげ、悔い改めと赦しの宣言をともにし、十戒を唱え、説教を聴き、信仰を告白し、とりなしの祈りに心を合わせ、献金し、派遣と祝福を受け、そして遣わされて行く。その姿をあらためて見つめる時に、主が今この時、私たちの教会に、Kさんを礼拝者の代表として立て、御言葉の聴き手の代表として与えてくださっているという恵みの事実に気づかされるのです。

多くの聞き手たちが目の前にいない礼拝において、一人の聞き手を通して「聞き手が恵みの賜物であることを発見すること」(R.ボーレン)を経験させられる。一人の個別な存在を通して、一つの礼拝共同体の存在を再発見する。まだまだ見えていないもの、気づいていないものがたくさんあるなと。

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