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創造の神の摂理の御業

天地万物をお造りになられた創造主なる神は、この造られた世界をよしとし、喜びの場所となさいました。そして、そこに存在するすべてのものに、意味と目的を与えてくださいました。神はこの世界を創造なさった後、この世界を自然の法則に丸投げにし、放置するようなことはなさいませんでした。むしろ、この造られた世界に対して今もいつくしみとあわれみを施し、深い愛にもとづくさまざまな配慮を与え続けていてくださいます。この神のあわれみ深い配慮によって私たちは今日も生かされているのです。このように、神が創造された世界に今もその御手をもって治め、守り、支え、養い、導いていてくださる働きを指して、「神の摂理」と呼びます。

「神の摂理」と聞くと、ある人は神が私たちの事情とはおかまいなしに、すべての事をあらかじめ決まってしまっていると感じます。私たちが何をどう願おうとも、神の決めたことには抗いようがなく、ただ神が敷いたレールの上を進んでいくほかないと思ってしまいます。神を私の人生を好き勝手に操る暴君のように思ったり、あるいは機会的な運命論、宿命論のように考えてしまったりするのです。

しかし、神の摂理とは決してそのようなものではありません。この点を、宗教改革の教会が大切にしてきた信仰のことばで確かめておきたいと思います。一六世紀のドイツ、プファルツで作られたハイデルベルク信仰問答の第二七問を読みます。

問 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。
答 全能かつ現実の神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ち、支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富みも貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって私たちにもたらされるのです。
(吉田隆訳、新教出版社)

神の摂理とは「全能かつ現実の、神の力」、すなわち生けるまことの神が、いまこの時に、全能の力をもって働いていてくださるということ、そして、父親らしい御手によって私たちを慈しみ、私たちにすべてを良きものをお与えくださること、それが神の摂理なのです。

私はこれまで何度も繰り返しハイデルベルク信仰問答を読んできました。教会の夕拝で説教もし、祈祷会で解説もし、それらをまとめて本として出版もしました。こうして全一二九問を繰り返し読み続けて来て、もっとも深く心に響くのがこの二七問と続く二八問です。

しかしながら、神の今日も働かれる父親らしい御手の働きとしての摂理いうことを繰り返し学んでいても、ときにさまざまな思いが心の中にわきあがってきます。神は創造と摂理の神だと教理的に正しく知っていたとしても、現実に私たちが信仰をもって歩む中では、「それでは神はどうしてこんなことをなさるのか、どうしてこんなことを許されるのか」と問わざるを得ないような出来事も起こってくるわけです。それらをなんとか神の摂理という教えの中に位置づけようとするのだけれども、どうしても位置づけきれない、収まりきらない、私たちの中に納得のいかない思い、さまざまな問いが残ることがあるのです。社会に起こる出来事も、自分の人生に起こる個人的な出来事も、いずれにしても「摂理」というだけでは消化しきれないような経験があります。神は父親らしい御手によって私たちを慈しんでくださるということを信じていればなおさら、「どうして」と問わざるを得ないような経験をさせられるのです。

二〇一四年九月、広島市で起こった豪雨による大規模土砂災害の現地を訪ね歩きました。山が崩れ、大量の土砂が山の上から押し寄せて、泥とがれきによって押し潰された家や車、何ともいえない汚泥の臭い、二〇一一年の東日本大震災の時の経験が思い出されて仕方がありませんでした。津波によって押し流され、押し潰されたあの光景と同じような町の姿を目の当たりにし、どうしてこのようなことがまた起こるのか、どうして再びこんな悲惨なことになってしまったのか。そのようなことを問う気持ちが沸々とわきあがってきました。

広島から帰って数日後、今度は福島県に行く機会がありました。福島第一原発の北に位置する南相馬市から中通りの郡山市を目指して車で走りながら、途中で飯舘村を通過しました。飯舘村といえば、震災の後に高い放射線量が計測された「ホットスポット」として知られた地域です。震災前は、美しい緑に囲まれた自然豊かな場所で、原発の交付金によらずに「飯舘牛」というブランド牛を育て、それによって町興しをしたという、ひとつのモデルになるような村と言われていました。その飯舘村の綺麗な山道を車で走ると、一番に目に飛び込んできたのは、あちらこちらに立てられた「除染作業中」というのぼりでした。作業員の人々が山肌をショベルカーで崩し、「フレコンパック」と呼ばれる黒い袋にその表土を入れ、「○マイクロシーベルト」と記し、その袋があちらこちらのフェンスで覆われた区画に山のように積み上げられている光景を目の当たりにし、そんな除染作業が続く現場のすぐ近くの小学校の校庭では、無邪気に走り回る子どもたちの姿を見て、「これはたいへんなことだな」と思わずひとり言をつぶやいていました。

あの広島の土砂災害の光景、あの飯館村の除染作業中の光景を前にして、「神の創造と摂理を信じる」と単純に言えない自分と向き合わせられます。「神の父親らしい御手」を信じ切ることのできない自分がいることに気づかされます。あらためて「神の創造と摂理を信じる」とはどういうことなのか、そのような問いがわき上がってくるのです。

ハイデルベルク信仰問答の続く第二八問にはこうあります。

問 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。
答 わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです。

先の第二七問に「木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富みも貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって私たちにもたらされる」とあったように、一六世紀ヨーロッパにおいては自然との共存は避けられない現実であり、そこでどう自然と調和しながら生きていくかに、人間たちはさまざまな知恵を傾けていました。それでも天候次第で豊作の年もあれば、不作の年もある。冷害や長雨、害虫の影響で作物の収穫は大きく左右される。疫病が流行れば家畜のいのちはもちろん、人間のいのちも奪われていきます。そのような自然の圧倒的な力の前にして、人々は自分たちの無力さを思い知りながら生きてきました。

しかし、いつの間にか私たちは自然に対抗する世界観を持つようになり、自然の力すら人間の手でコントロールできるかのような錯覚に陥り、おごり高ぶりの中を生きるようになってしまいました。

神の摂理を信じるとは、すべては神の御手の中にあり、その神のもとで与えられる順境では感謝し、逆境においては忍耐強く生きる。神がすべてを治めておられるという現実を前にして、私たちはそれを享受する存在であるという基本的なわきまえ、謙虚さを繰り返し教えられていく営みでもあるのでしょう。

そして、将来については「真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできない」と確信する。「神さま、どうしてですか」と問わざるを得ないような過酷な現実のただ中に身を置きながら、それでも神は私たちを、あらゆるものが引き離すことができないほどの愛の中で守り、治め、保ってくださるお方と信じ、この神の愛の御手にどこまでもしがみついていく。このような神との交わり以外に私たちの生きる道はないと決断することでもあるのです。

神を父なるお方として信じ、この父の御手の中に私たちは握られており、その御手からはだれも私たちを引き離すことができないと信じる信仰。この父なる神と私たちとを、仲保者イエス・キリストが結び合わせていてくださると信じる信仰。この信仰に立つ以外に、私たちはこの地上に起こる苦しみを受け取る手段はどこにもないのだと思います。

それでもなお「主よ、どうして」という問いは残ります。けれどもその問いもまた、私たちを愛してやまない父なる神だからこそ、真正面から問いかけることを許してくださる問いなのではないでしょうか。

私たちがすべての出来事の意味を、つまびらかに知ることはできません。私たちになおも隠されていることはあるでしょう。しかし、それをもってしても、私たちを父なる神の愛から引き離すことはできないのです。それほどの愛の中に私たちが握りしめられている。そこで私たちは「創造と摂理」の神ということを信じ受け取ることができるのです。

ハイデルベルク信仰問答とほぼ同時代に作られた「ベルギー信仰告白」(一五六一年)の第一三条には、こう記されています。

「この慈愛に富んでおられる神は、すべてのものを創造された後、被造物を決して偶然や運命に委ねられず、御自身の聖なる意思に従って支配しまた導かれる、とわれわれは信じる。・・・しかし、神がそのようにして行われることは、人の思いを超えており、そのことについてわれわれの理解の及ぶところを超えて、好奇心を抱いてさらに尋ねようとは思わない。・・・神が御自身の言葉によって教えておられることを学ぶだけで十分であって、その限界を超えていこうとは思わない。・・・この教えは言い表し難い慰めをわれわれに与える。神はまことに父らしい配慮をもってわれわれのために目を覚ましておられ、すべての被造物を従えておられる。その結果、神はすべてを数えておられるから、われわれの頭の髪の毛一本も、また一羽の雀も、御父の御心でなければ、地に落ちることはできない。そのことで、確かにわれわれは完全な安らぎをえる。すなわち、神が悪魔とすべての敵を制御しておられるので、神の許しと御心なしにわれわれを害することはできないことを確信している。」(『改革教会信仰告白集』大崎節郎訳、教文館)

すべてのことの意味を知ることのできない私たち。しかし、私たちが知っていることがある。それは、神はわれらの父なるお方であり、私たちを慈しみ愛そうとしておられるお方であるという事実です。その神の御手の中に私たちは握られているのであり、その確かさを私たちは疑うことができません。

私たちの人生に起こるすべてを、ただちに感謝して受け取ることはできないかもしれません。しかし、すべては神の御手の中にあり、その外にあるものは一つもないことを信じて、私たちは創造と摂理の神に信頼していく。この確かさを今一度受け取っていきたいと思うのです。

創造の神は、確かな生ける御手、力強く慈愛に満ちた御手をもって今日も私たちを支え、守り、生かし続けていてくださる愛と恵みに満ちたお方です。だからこそ私たちは、「逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来については私たちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはできないと確信できるようになる」のです。

天地万物を造られた神は、それを今も保ちたもう神であり、私たちに最善のものを備え、最後まで責任を負ってくださる父なる神です。この父なる神が私たちに賜った御子イエス・キリストを信じて、父なる神に立ち返り、このお方とともに生きること、生き続けること。これが神が私たちにくださる喜びの知らせです。

朝岡勝『喜びの知らせ 説教による教理入門』(いのちのことば社、2020年)124〜133頁。

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