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ネット礼拝と説教についての備忘録

こういうある種の非日常が続くと、ついつい視野が狭まり前のめりになりやすいので、頭を冷やす意味でも自分自身をなるべく客観的に観察してみることが大事だなと。
そんなわけで今回は、ネット配信による礼拝に切り替えたことで説教者である自分自身にどんな変化が起こっているかを振り返ってみます。

まず前提として、いつもの説教は、基本的にオーソドックスな連続講解説教で、朝拝が約40分、夕拝は20分ほど。朝は約6,400字、夕は約3,200字のほぼ完全原稿であまりそこから離れないようにしているが、時々脱線というか跳躍というかスイッチが入って自由に語りまくり、それが魅力と言われることもあり。ちなみに2004年5月に教会ホームページが開設されてからは、語り終わった説教原稿はそのまま教会ホームページに掲載されて毎週日曜の夜に更新されるという段取りではや16年。それなりに充実のライブラリになってます。

さて、3月末からネット礼拝に切り替えて以来、なるべくいつもと変わらない礼拝を続けることを心がけているものの、やはり礼拝堂の席に愛する一人一人がいるのといないのとでは当たり前のことながら違いは大きく、それが説教にも少なからぬ影響を与えていると実感することしきり。その上で、いつも以上に意識させられていることを思いつくままに。

まず週日の準備から。
今までは週の後半に向かって本格化していた準備を前倒しして、週の前半に集中して備えるようになったものの、基本的にいつもの説教準備に沿って、釈義、黙想、原稿書きという順番を守ることを心がけています。その上で、いつも以上に意識するのは「聴衆の黙想」。直接顔を見て語りかけることができないだけに、より具体的に一人一人の顔を思い浮かべ、今の状況を思い巡らすように。
さらに説教の時間をコンパクトにするために字数を従来の6400字から4800字を上限にするようにし、それだけ内容を簡潔に、しかも語るべきメッセージを明確にすることを意識するようになっています。これは実に良いことで、今まで以上に「今日語ることは何か」、「今日語らねばならぬことは何か」、「今日でなければ語ることのできないことは何か」を徹底して集中して考えることに。。
また以前は土曜の深夜に原稿を書き上げることも多かったのが、木曜には原稿が仕上がることで、むしろ余裕をもって礼拝に臨めるようになったのはありがたいこと。これはできれば今後も続けたいけど、どうなることか。

次に主の日の実際から。
とにかく意識するのは「時間厳守」。以前は結構話が延びて45分ぐらい語ることもあったけれど、今はとにかく集中して、原稿から離れず、しかしカメラの向こうの会衆を見つめて、自然な目線と自然な語り口を意識しつつ、発声は大きく、発音ははっきりと、なるべく滑舌よく話すように心がけています。
またカメラの向こうの一人一人を意識することで、説教準備の時の聴衆の黙想がどれほど深められていたかがもろに問われることに。それが不十分だとつい視線が泳いで落ち着かなくなる。黙想が深められ、行き届いていれば、カメラの向こうにいるあの人この人の顔が自ずと浮かんできて、一人に向かって語っているぐらいの思いになることも。これもまた今後も続けたい貴重な経験となっています。

まだ数週のことでも、こうした実践で気づかされることもいくつか。
こうした説教をしばらく続けてみて感じることは「ことばが届いているか」という手応えが掴みづらいこと。カルヴァン曰く「神のことばが語られ、聴かれるところに教会がある」と信じてこれまでやってきたけれど、実際に「聴かれる」ということがいかに大切かが身に染みます。
次に説教は語り手と聴き手の対話だということの再確認。もちろんカメラの向こうで皆は聴いているのだけれど、実際に目の前にいる聴衆の顔、表情、呼吸、仕草などから応答を読み取ること、いつものあの席に座るAさん、こちらの席に座るBさん、後ろにほうにいるCさんなどなど、会衆席の中にいる幾人かのレスポンスで説教の伝わり具合を見ていたことを思うと、説教が対話であることの意味を深く考えさせられます。
また礼拝における身体の大切さを再認識させられること。「あなたがたの身体をささげよ」(ローマ12:1)と言われるごとく、極めて身体性を帯びたもので、立ったり座ったり、声を出したり黙したり、祈ったり歌ったり、語ったり聴いたりという身体の所作はもちろんのこと、とにかくそこに具体、個別の一人一人の身体があるということが決定的に重要だと再認識することしきり。
こういう特殊なかたちになるからこそ、説教者にとって大事なことがより鮮明になるようにも思えます。例えばキチンと手抜きをせずに説教準備をすること、黙想を大切にし、とりわけ聴衆の黙想を深めること、聴き手の存在の決定的な重要性を捉えること、そうしたことの一つ一つの意味を再確認させられるのは、説教者の自己吟味・自己点検にとって実に有益だなと。
そして僕にとって大きいのは、獄中書簡や黙示録など、牢獄や流刑地といった特殊な環境や制約のもとで礼拝し、牧会し、預言したパウロやヨハネについての黙想が深められていること。一緒に集まれない中で、それでも主にある交わりの中にあることを覚えた信仰者たちを思い巡らすことで、病床で礼拝を続けている信徒、自宅で療養を続けている信徒、異国の難民キャンプでネット配信の礼拝で支えられている信徒たちのことをより深く黙想するようになっています。
さらにまた説教準備において、ルターの言う「祈り、黙想、試練」の問題、とりわけ「試練」(tentatio)の問題を深く考えさせられています。

他にももっと考えるべきこと、論じるべきこと、大袈裟に言えば非常時における礼拝とは何か、説教とはいかにあるべきかといった礼拝学、説教学、牧会学など実践神学の課題がいろいろあるはずですが、こういうことは追々みんなで論じていけるようになるとよいのではないかと思ったり。そのためにも、今起こっていること、経験していること、悩んでいること、考えていること、試行錯誤していることのログを取っておくのは意味あることだと思います。そしてこういうときだからこそ、今までの考えや経験を敢えて相対化して、今までよりもちょっと勇気をもってチャレンジしてみることもありかなと。

#教会に生きる喜び

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