〈あの日〉以後を生きて

明日で東日本大震災から10年。〈あの日〉以後を生きて、牧師として、説教者としての、自らのあり方を問われ続けて来たように思います。


あの日


震災から三年後の2014年3月11日に『〈あの日〉以後を生きる』という小さな本を出しました。その「まえがき」に次のように記しました。

「あの震災からまもなく三年になろうとしている。三年という時間の持つ重みを考える。新約聖書マルコ福音書5章に、会堂管理者ヤイロの娘の癒やしの出来事が記されている。主イエスがひとりの少女を癒やすというこの出来事の間に挟まれるようにして、『十二年の間長血をわずらっている女』の癒やしの出来事が記される。彼女が病に苦しみ続けた十二年という年月を想像するのはそう簡単なことではない。しかし福音書は続くヤイロの娘の癒やしの後半の記事で『少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである』(42節)と記す。ここで僕たちは十二年という年月の重みに思い至る。一人の子どもが生まれて十二歳になる、それほどの年月を彼女は苦しみ続けたのだと。このような『時間』の重みへの想像力を持つようにと、聖書は僕たちに促しを与えているのではないだろうか。
 『震災から三年』。それは言葉にすればほんの一言で済まされてしまうものだ。ある人にとっては『もう三年か』というように、あっという間のことかもしれない。ある人にとっては『まだ三年か』というように、時が止まったままのようになっているかもしれない。では僕にとってこの三年はどういう時間であったのか。『時間』(クロノス)は中立的なものだが、しかし『時』(カイロス)は人によってさまざまな伸縮や軽重の差を持つ。同じ時間を生きながら、しかしその受け取り方は様々なのだ。」

この問いを担い続けることと、説教者として御言葉を語り続けることは、僕の中では切り離すことができません。この現実を前にして自分は何を語ることができるのか、何を語るべきでないのか、そして何を語らなければならないのか。そんな問いをかつて一度集中的に考えてみたのが、2016年12月に東京基督教大学大学院のセミナーで話したこの講演。その後のこともいつかまとめなければと思いつつ、暫定的な報告という意味で載せておきます。


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