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神の声に聴く

1984年6月10日ペンテコステ記念礼拝

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかってきた。そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。彼らはいった。『あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。』そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えていった。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。』そこで、かれらは二人をさらにおどしたうえで、釈放した。それは皆の者が、この出来事ゆえに神をあがめていたので、人々の手前、二人を罰するすべがなかったからである。この奇跡で癒された男は、四十歳余りであった。釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。」使徒の働き4章13−23節

祈り
天のお父様、私たちを今日、主の御前に御召集くださいまして、ともにあなたの御名を崇め、あなたを心から賛美し、また、あなたからくるみことばの執り成しと養いをいただくことができますことを深く感謝いたします。どうぞこのしばらくの時間、私どもを世の様々な問題から御解放くださいまして、あなたの御心とみことばに心をとめ、みことばが何をなしたかに心をとめる時とならしめてくだるようにお祈りいたします。
この者は十日間の休息の時を与えられ、多くの兄弟がた姉妹がたの祈りに支えられておりました。今日あなたの不思議の中に、講壇にみことばを携えてくることが許され、ここに立っておりますことを、心から奇跡に存じ、御名を崇めて感謝します。どうぞしもべに上からの力を与えて、あなたのみことばと、この者の上になしてくださった主のみわざをもって、あなたを心からほめたたえる礼拝の時とならしめてくださるようにお祈りをいたします。
また今日も全世界でもたれております礼拝の一つ一つを豊かに祝福してください。どうか、いつも困難な戦いの中にある共産圏諸国とイスラム諸国の教会の信徒の方々と、その隠れた礼拝を格別に祝福してくださることを切にお祈りいたします。今日も、病める方々や悩みにある方々のうちに主がとどいてくださるようお祈りいたします。
ひとときを御手に委ねまして、主イエス・キリストの御名によって感謝してお祈りいたします。アーメン。

先週礼拝を休みましたので、先々週の所に戻っていただくわけでありますが、使徒の働きの3章を通して「美しの門」の傍らにいた足のきかない男の記事を見てまいりました。その男はペテロとヨハネによって「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの御名によりて歩きなさい。」と言われ、このみことばを信じ従って癒されました。この癒しの出来事を通しまして、当時の宗教家たち、祭司とか民の指導者、長老、学者たちと書いてありますが、彼らはペテロたちへの迫害という形で、この生まれたばかりの教会に反応をしたわけでございます。足なえが癒されたのに、ペテロやヨハネたちが、時の宗教家たちに迫害された。これが生まれたばかりの教会の奇跡に対する世からの反応でございました。この迫害の引金になった奇跡とは別に、この迫害というもの、そしてその本質的な理由というものを見てまいります。

当時のユダヤの宗教家たちが中心となって十字架で殺した主イエス・キリストがよみがえった。そればかりか、その復活したイエス・キリストの名によって足の不自由な男の癒しが起こった。このような奇跡に携わったペテロやヨハネたちの働きというものは、彼ら宗教家たちの働きに対しては、大変な霊的チャレンジであった。そればかりか、ペテロとヨハネたちはイエスの復活の証人として、それを宣べ伝え始めた。そしてその教えはエルサレム中に広がっていった。そうなってまいりますとペテロやヨハネたちの教えというものは、既成宗教家たち、現状維持の権威主義者たちに対してその根底に揺さぶりをかけるような状況をもたらしてきた。そういう中でペテロやヨハネたちに迫害が起こったというのが本質でございます。ですから4章の2節を見ますと、「この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて、死者の復活と宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕らえた。その翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。」

ここでベテロとヨハネの逮捕された理由が、死者の復活を宣べ伝えている、イエスの復活を宣べ伝えていることによるということがわかります。今一つは4章の16節と17節で、「彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。』」そして彼らはペテロとヨハネを捕らえた。美しの門の男の癒しと、イエスの復活を宣べ伝えられることが彼らには邪魔だった。それはペテロたちは既成の宗教家たちの教えと全く違った教えを説いていたからであった。そこで彼らはペテロとヨハネを呼んで言いました。18節で「そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって奇跡を起こしてはならない、イエスの復活を語ってはならないと命じた。」のです。宗教的指導者や政治的権力者たちの、このような厳しい態度に対するペテロやヨハネの答えは19節、「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」あなたがたは一切イエスの名によって事をなしたり、語ってはならないと言うけれども、「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」とこう答えたのです。

ペテロたちは人に従うのではなく、神に従って、この当時の宗教的、政治的な指導者たちの前に相対してきちっと言っているわけです。つまり彼らは神の声を聞くことを第一とする者たちでありました。18節から20節の間で私たちはそれを確認することができます。このことは私たちにとって大変重要なことです。ペテロたちによる、この神の声に聞く模範というものは、今日も、人間中心主義、神への背信、神への不信の時代のただ中にあります私共にとりましては、第一とすべき模範であると言うことができると思うのです。私たちの回りには人間の声が多すぎます。いろいろな面で私たちには人間の声が多く響いております。私たちが自ら人間の声をコントロールしようとしないならば、朝から晩まで休む間もなく人間の声が入ってきております。テレビのスイッチを入れますと、そこから人間の声がいくらでも入ってまいります。さまざまな書籍を通しましても、神の声でなくて人間の声がこの目を通して入って来ることに気付かされます。いろいろな会合で、交わりで、意味のない会話の中で、人間の声が多く語りかけておるわけであります。こういう中で私たちは自分たちの生き方、思い、行動というものを考えます時に、人間の声に少しでも耳を貸そうとするならば、神様の御心から遠く離れたところに飛んでいってしまうような危険性をはらんだ時代に生きていると思うのです。現代の飢饉がパンの飢饉ではなく、神のことばを聞くことの飢饉だとアモス書に書いてありますが、神のことばを聞く飢饉の中に置かれていればこそ、私たちは神に聞き従うことを第一とした生き方を押し進めていかなければなりません。

ペテロとヨハネが神に聞き従うことを第一として、この時の宗教家、政治家たちに対決したわけでありますが、このようなことを大胆に述べた彼らは、実は無学な一介のガリラヤ湖畔の漁師でありました。しかし、そのような者が大胆に指導者に向かって、我らは神に聞き従うのだと言い切ったのは驚くべきことであります。13節にそのことが記されてあります。「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかってきた。」当時の宗教家たちや指導者たちを前にして、なぜ彼らがあれだけ大胆な姿勢でこの新しい教えを説き、あのような大きな不思議なわざをなしているのだろうかと驚いた。そして、二人がイエスとともにいたことがわかってきたと書いてあるのです。結局神のことばに聞き従うペテロ・ヨハネたちの生き方を通して、これが貫かれた時に、実はそのペテロとヨハネが何者かでもあるのではなくて、ペテロとヨハネとともにいたイエスが何者かということが人々に知らされてきたのです。ですからペテロは言うのです。20節で「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」主がともにいてくださるから、私は見たこと聞いたことを話さずにはいられません。

神に聞き従うということを第一とした彼らの歩みや奉仕の結果、どういうことが起こったでしょうか。使徒の働きの最後まで見てまいります時にわかります。つまり、神に聞き従うことを第一としたその大胆な信仰の働きの実こそ、初代教会の著しい霊的な覚醒であり、教会の発展であったのです。これらは使徒の働きを通して示されている事実であります。1章から4章で使徒の働きの大きな主人公は聖霊様でございました。そして今日は聖霊様をいただいて働いた人間の側を見たわけです。神様は私たちとともに働いてみわざを進めようとしておってくださる。神様がこのみわざを進展させるために、本当に用いなさろうとして選ばれる魂とは、どういう魂でしょうか。それがペテロとヨハネによって今日示される事実であります。聖霊が同労者としてともに働こうと期待しておられる人物とは誰なのか、それは神に聞き従うことを第一とする者たちでございます。彼らによって、初代教会は大きな著しい発展を遂げたのであります。ローマの植民地であったあのエルサレムの、小さな貧しい民たちによって始まったイエス様の救いの福音が、使徒の働きの最後の部分では大ローマ帝国の首都ローマにまで、パウロによって告げ知らせられている事実を私たちは見るわけでございます。

今日も神様は私たちと一緒になって、新しい神の国の発展のわざを進めようとしていらっしゃる。聖霊は御自分だけで十分働くことはできますけれども、神様は私たちと一緒に働きたいと願っていらっしゃる。そのために神様は神の声に聞き従う者を求めていらっしゃる。今日私たちはペンテコステの記念礼拝を行なっておりますが、生まれたばかりの教会の記事を学びながら、もう皆様方お気付きになっていらっしゃるでしょうけれど、神の声に聞き従うという、このことが実は生まれたばかりの初代教会の特徴でもあったのでございます。そしてこの神の声に聞き従うという態度は、今日の我々にも神様から寄せられている期待だということを知ることができるでしょう。「神の声に聞き従う。」これは主の我等に対する期待であるとともに、すばらしい祝福の実というものも主は我等に約束しておいでになります。

私は今日、皆様の前でしばらくぶりで自分の救いのあかしをさせていただきたいと思います。なぜこの朝岡という人間が、クリスチャンとして神様の前に二十数年間の信仰生活を歩んできたのか、またなぜこの所で今日説教しているのか。そのことを手短かに申し上げたいと準備してきております。

私は1945年つまり昭和20年の終戦を外地で迎えました。現在の北朝鮮の首都平壌から少し離れたところに鎮南浦という町があり、そこから更に支線に乗って行きますと広梁湾という塩田の町がございます。そこで終戦体験をいたしました。約二年間の抑留生活を経まして、1947年の1月に、私たちは愛する祖国日本の長崎に上陸いたしました。その時のことを忘れることはできません。長崎県の本当に美しい港、佐世保に入港いたしました。その湾の周辺の緑の木々に心を奪われました。韓国の風景と違って非常に穏やかで、緑の濃い祖国日本の姿に、深い印象と感動を与えられました。また自分の両親の祖国に帰って来たんだなあというその感動に、本当に心が燃えたのを忘れることはできません。

それから紆余曲折がございました。実は私の父と母の間には以前から不和がございましたが、終戦を迎え、それが昂じまして、引き上げとともに離別をすることになりました。私自身も母の側に付いて、父のもとを出ようと母に言ったこともあり、それは母だけの問題ではなくて、私自身もその責任の一端を担っておるわけであります。母は若いときに植村正久の流れを汲みます日本キリスト教会で信仰を持っておった者でありますが、未信者の父と結婚をいたしまして、それが祝福を失うことになったと思います。結婚生活は決して祝福あるものでなかったようであります。私も暖かな家庭というものの味わいをほとんど知りませんでした。父は世間的には人々から尊敬され、高い地位についておりました。町の警察署長や国民学校の校長がいつも家に来て、頭を下げて父の前に坐り酒を飲んでいる姿を私は知っておりました。経済的には何の不自由もないような生活を植民地で送っておりましたが、愛のない家庭の中で育ったことも事実でございました。終戦後の二年間、大変な生活の中で、離別することすらできないような状況の中にあった両親は、日本の地に落ち着きますとともに離別をいたしました。

昭和23年に、母親のすぐ下の弟を頼って京都で一年間生活をいたしましたが、本当に大変な時代でございました。自分たちの生活も大変なのに、二人の居候を抱えた叔父夫婦も本当に大変だったと思います。変な話ですが、私は毎朝叔母が水団を盛る手つきを見ておりました。自分の子供たちにはたくさん入れて、居候の私には水団の数が少ないのではないだろうか、あるいは小さいのしか入れないのではないだろうか、いやしい話です。母はそういう私の姿を見て、これではいけない、こういう生き方をしておったんでは息子の性格は荒れてしまう、貧しくてもいいから二人で暮そうと、母のふるさと茨城県の水海道市にやって来たのであります。

母の苦労の中で、やっと何とか二人の生活が成り立つようになってまいりました。その時、私は終戦で学校生活が二年遅れまして、まだ中学一年でありましたが、その冬、突然高熱を出しました。検査の結果、肺結核でした。昭和25年のことであります。私は15歳のこの時から結核という大病に陥りまして、この近くの阿見町にあります東京医科大学の病院に入院いたしまして、療養生活を約二年間送りました。その二年間の療養生活を通して、多くの方が周りで死んでいきました。しかし不思議なことに神様は、この者を生かしてくださいました。

私は二年後に東京医科大学病院を退院いたしまして、もう一回学業にもどりました。実は私は中学1年の二学期でやめてしまっていたんですが、校長は「君はもうすでに引揚者として二年間遅れているから、これ以上遅らせてはかわいそうです。まず高等学校の入学試験に当たってみなさい。合格したら1年の三学期と2年の全部と3年の一・二学期は免除して卒業証書をあげよう。」ということで、私は3年生の12月に学校にもどりまして、それから2月まで三ヶ月間高校入試のために一生懸命勉強をいたしました。一生懸命勉強したことがたたり、肺炎を起こしまして、試験の前日高熱を発して受験することができませんでした。今でも、そのくやしさは忘れることができません。その後、私は土浦第一高等学校の通信教育を受けまして、二年間、高等学校の一年課程を勉強いたしました。そして三年目に健康を回復いたしまして、水海道第一高等学校に入学することができました。もうすでに18才になっておりました。18才の男が15才の一年生といっしょに勉強を始めたわけであります。

青春を取り戻したように、私は一生懸命勉強いたしました。中学を一年しかやらなかったので、苦労はいたしまし
たけれども、間もなく皆さんと同じような学業も身についてまいりました。しかしそういう中で半年も過ぎた頃、また体の具合が悪くなりました。病院と家と学校と、やがてそのうちそれに飲み屋も加わりまして、その四か所を歩き回るような生活が始まりました。虚しくてたまらない生活が始まりました。また病気になってしまった。勉強もしたい。当時は結核は完全に治る病気ではありませんでした。できる限り勉強もしたいということでやっておりましたが、虚しさの中で本当に一時荒れた生活をいたしておりました。荒れた生活をすればするほど、体が弱くなるのがわかりながら、なお荒れた生活を続けておりました。

しかし、三学期の授業を終えましたある日、静かに物を考えておりました時に、このままでは自分は駄目になってしまうばかりか、母もだめにしてしまうだろう。ひとつ真面目に生き方を考えてみよう、もう馬鹿な生活をやめて少し体をいたわりながら生きてみようと考えました。その年は大変雪の深い、今年のような年でありました。私は竹藪の中へ空気銃を持って入ってまいりました。今晩は母親が帰ってくる前に雀の十羽も落として、雀のダシでおいしいうどんを作って待っていようと思ったのです。私は雪の深い竹藪に入って雀を撃ちました。本当に雪の深い春だったので、たくさん雪が積もっておりました。竹藪の中でまたたく間に、じっとしている雀を十数羽撃ち落として、その雀を携えて帰ってこようとした途端、胸の中に溢れるような熱いものがこみ上げてまいりました。真っ白な雪の中に、忘れることができませんけれども、真っ赤な血が溢れ出ておりました。喀血をしたのでした。やっと、これから真面目に生きようとした途端に喀血ですから、本当に参ってしまいました。

その喀血から続いて約一ヶ月間、本当に毎日毎日よくも血が出るなと思うほど、毎日毎日喀血いたしました。またたく間に体は衰弱して、それこそもう寝たままの状態、布団の上で坐ることもできない上を向いたきり、そういう状況の中に陥ってしまいました。私は毎日その中で天井の節穴を数えながら、一体どうしたらいいかと考えました。自分は一体何を信頼して、今頑張ったらいいんだろうかと思いました。母が朝早く勤めに行きますと、あとは一人きりです。お昼にわたしの叔母がオシッコを捨てに来てくれるんですね。何本かの瓶がいっぱいになるお昼に捨てに来る。その時叔母と会うのが、一日一回の人間との出会い、あとは夕方、母が帰ってくるまで誰もいない中で一人寝ておるわけであります。時には、叔母がちょっと遅れますともう、瓶が二本ともいっぱいになってですね、中には昔よく飲んだビールみたいなものがいっぱい入っているわけですね。(笑)。早く叔母が来ないかなと前を押え押え苦しい思いをいたしました。

そういう中で私は考えたんです。もともと信仰なんて信じない、信じられない人間。物事は合理的にしかみられない人間。理詰めで得た答しか信じない人間。しかも傲慢な人間。ですから当然のこと、もう科学しか信じない。今、自分との関わりで信じられるのは医学です。お医者さんです。しかも遠縁の医者でした。よくやってくれました。私はその医者に信頼して生きていこうと思いました。その医者が自分の仕事を終えて夜中の11時、12時に私の所へ、遠くから自転車に乗ってやって来て、カルシウムの注射しかない頃ですから、カルシウムの注射を打ってくれるんです。それから止血剤を打ってくれるんですが、それでもちっとも血が止まらない。そういう中で、医学の限界を、残念ながら悟らざるを得なかった。人間が一番信頼できると思っている科学にも限界がある、つまり人間には限界があるんだと思いました。

それでは次に私は何を信頼したらいいんだろうか。私にはもう母しかおりません。母は私のために青春を台無しにし、また私のために生きてきた女であります。私を愛しました。私のために生きてくれました。私がもう一回立ち上がることを願って今も頑張っている母、この母を信頼してひとつ生きてみよう。母はこの者を何ものにも増して愛してくれている。そして人間の愛の中で最も崇高だと思われているのは母の愛である。その愛に期待をして生きていこう。しかし、残念ながらその人間の中で最も崇高な愛である母の愛ですら、やはり限りがあるのです。母の愛でも喀血を止めることはできない。限界がある。

ではお前はどうか、自分自身はどうか。お前はこれまで神様や仏様なんか信じない、自分だけ信じて生きていけると思っておったんではないか。それでは一回、自分を信じてみろ。自分に言いきかせて自分を信じようといたしました。でも、自分の胸の中に巣食っております顕微鏡下の世界の小さな結核菌にしてやられながら、何にもそれに対処することができない。健康の時には体重も70キロを越えておりました。これだけの背丈で70数キロですから、相当自信もあった体ですけれども、その体も痩せてしまって、自分で自分に対してどうすることもできない。自分にも限界があるのです。

ある方たちは、自分を信じていけばやっていけるとおっしゃいます。あるところまでそうかも知れません。本当には、私たちは自分を信じて生きていくことはできない。私たちには限界がある。科学の限界がある。母親の愛情というすばらしい崇高な愛にも、その愛だけではどうにもできないところがある。そして、そればかりか、自分自身にも限界がある。人間というものは限界がある存在である。それがわかった時には、私はもう絶望の底の底に叩き落とされた感じがいたしました。もう信頼するものがなくなってしまった。相当鼻っぱしらの強い男でした。けれども、その時ばかりは、もう絶望でした。それでも手さぐりのようにして、何かないだろうかと思った。そこで頭に浮かんできたのは、一冊の聖書でありました。

数年前、第一回目に入院いたしました時に、一人のクリスチャンの方が、私の生きざまを見ておりましてかわいそうに思って、聖書を持って来たんです。その当時の結核療養所というものは、もう生きて帰れる望みはほとんどない者の療養所ですから、生活が荒れておりました。療養所の中では博奕が年中やられていました。夜9時になると酒飲みに行きました。私も15、16でしたけれど体が大きかったので、大人と一緒になって博奕をし、母が苦労して持って来てくれた卵を一夜で負けて取られてしまう、そういう生活をしておりました。それを見ておった一人のクリスチャンがかわいそうに思ったのでしょう、一冊の聖書をくれたんです。しかし私はその聖書をほとんど読みませんでした。新約聖書ですから、マタイ伝から読み始めた時に、全くこんな愚かな本は読めたもんではないと思いました。もしこういうところに出てくるイエス様というお方が本当にいるなら、なんで私みたいな不幸な人間が存在するのかと神に言いました。神が愛ならばなぜ終戦経験をし、裸一貫で帰ってきて、その両親が離別し、そしてやっと何とか生活できるようになったこの男が結核になったのか。もし神があるならばなぜこんな矛盾があるのか。私は神なんかあるものかと思いました。

最初の聖書はほとんど読みませんでした。そればかりか、その聖書を私は煙草の巻紙にして吸いました。アメリカで印刷されましたインディア・ペーパーの紙、その当時は煙草は刻みで配給されまして、巻いて吸ったんですね。インディア・ペーパーが一番良かった。その頃はみんなコンサイスの辞典で煙草を巻いてすっちゃったんです。辞典はどこにもなくなった。そこに与えられたのはアメリカのインディア・ペーパー、いい紙ですから巻いて吸ったわけですね。聖書は小さいから便所の落し紙にはならないんです。そんなふらちな男だったんです。

しかしこのクリスチャンは、私の退院まぎわに、もう一冊聖書をくれたんです。私はその聖書を、本箱代わりにしていたリンゴ箱の中へほうり込んでおきました。それを私は絶望の床の中で思いだしました。憐れみだったと思います。母に出してもらった聖書、それにはもうカビが生えておりました。それを拭いて私は後ろかたら読み始めました。なぜならば聖書が重かったからです。私の場合、左側に病巣がありましたので、右手で聖書の厚い部分をもちたいのです。左の方に力がないもんですから。その聖書にはうしろに詩篇がついておった。ですから私は詩篇から読み始めたんです。ずっと聖書を読み続けておりまして、ある朝のこと、私は詩篇46篇を開きました。そのみことばが私の心にすうっと入ってきたんです。こう書いてありました。

「神は我らの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ我らは恐れない。たとい、地は変わり、山々が海のま中に移ろうとも。たといその水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して、山々が揺れ動いても。」
特に1節のことばでした。当時は文語訳の聖書です。「神は我らの避け所また力。悩める時のいと近き助けなり。」結核の再発、喀血の中で、もう絶望的な状況、科学の限界がわかり、母親の愛情の限界を知り、自分の限界を悟り、人間の限界を悟った中のその絶望の縁に立っているこの者、真っ暗な状況の中にあるこの者の前に、神様は詩篇を通して「あきらめるな。あきらめるな。私がいる。私はおまえの避け所、また力ですよ。悩める時のいと近き助けですよ。」そのように、このみことばを通して神様は語りかけてくださいました。私はこのことばに信頼しようと思いました。神が私の避け所また力、苦しむ時のそこにある助け、であるならば、絶望の淵からもう一回顔を上げて、この神様に、このことばによって、このことばに出てくる神様を信頼してみようと思いました。

それから聖書を読み始めたんです。聖書は本当にすばらしいものだということがわかってまいりました。詩篇を何度も何度も読みました。そのうちに私はラジオに福音放送があるのを知り、それを聞くようになり、又それを通して聖書通信講座を学ぶようになりました。私は自分の罪深さ、傲慢さ、足りなさがわかってまいりました。今まで自分中心の生き方、母親を愛すると言いながら、母親に感謝をすると言いながら、ちっともそうじゃないこの親不幸者。それにも増して、神様に対してなんと傲慢な者であったか。人の目の前にはごまかしても、何と罪と汚れで満ちている者であったろうか。私は聖書を鏡のように読むうちに、自分自身の実態、自分の罪を本当にわかってまいりました。そして、主イエス・キリストがこのわたしの罪のために十字架にかかって死んでくださったということを、その聖書通信講座を通して明確に知ることができました。その聖書の通信講座の文章を通して、私は主イエスを私の罪のために死んでくださった救い主として信じますと、署名して送りました。「あなたは救われました。あなたは神様から永遠の命を与えられました。」という返事をいただき、私は本当にその時から、もう自分のからだの病気は問題ではなくて、聖書を読むこと、その聖書に出てくる神様との交わりを楽しみにする療養生活が始まりました。

約一年、やっと体が動くようになりまして、再び東京医大の病院に、喀血一年後に再入院することができたのであります。幸いなことにその東京医科大学の病院には、この教会の最初の宣教師、ジェラルド・ウィンタース先生が病院伝道をしていてくださいまして、神谷さんやら斉藤さんが一緒においでくださって集会を開いていてくださいました。私は早速その集会に参加し、そして2月の14日に現在の牧師館のお風呂場で洗礼を受けたわけでございます。木のお風呂の中に宣教師の手で上からおさえられるわけですけれど、いくら私が痩せておりましても、身長がありますから大変なんだすね。上から大きな手でウィンスタース先生が全部水につけるように押すんですが、それで鼻と耳からびゅうっと水が入りました。私が洗礼を授ける時はそんなことしませんから安心していただきたいんですけれど、風呂から出て最初にやったことは、ピョンピョンとやって耳の中から水を出したことでした。しかし、心の中は喜びで満ち溢れておりました。

洗礼式が終りまして宣教師が出してくださるお茶を飲みながら宣教師に言いました。「先生、私がもし体が癒されて、この病院を出ることができたとしたら、私の命はもう自分のためには使うことはできません。これからは神様のために使っていただきたい。もし病気が治ってこの病院を出たらどうぞこの者が神様のために仕えるように神様に祈ってください。」そうしたら宣教師は「これは献身ということです。神様が許してくださったら、将来、牧師か伝道者になるように私は祈ります。」とおっしゃってくださいました。

その年の5月から私は結核の手術を受けました。左上葉切除、左には二つの肺胞がありますが、その上葉を取りまして、さらにカリエスもありました。そして、その病巣は左のほとんどの部分に広がっておりましたものですから取りきれなくて。叔父が手術現場に立ち会ってくれたんです。その頃はそういうことができたんですねえ。身内の者が手術現場に入れたんです。「お前の肺を開いた時にね、プンといやな臭いがしたよ。そしてその肺の中に医者はピンセットを入れて、お前の肺胞をピンセットで木の葉のように捨てたんだ。ひどかったねえ。」と言いました。カリエスですから肋骨もある部分はグシャグシャになっていた。そのカリエスや肺がひどかったので、結局手術を前後四回、背中は33センチの傷を三回、前にも20センチの傷がありますが、四回手術を受けました。結果的に申し上げますと、私はその後、約二年間の療養生活をしなければならなくなりました。手術が長びいたために卒業は1年延びまして、3年間、私は東京医科大学病院に二度目の入院生活を送りました。都合5年間病院生活を送りました。

しかし、そのような中で神様は、この者に会ってくださった。左の肺と7本の肋骨を失いましたけれども神様はそれに代えてすばらしい永遠の命を与えてくださいました。自らの限界を悟り、神様を仰ぎ、イエス様を信じた信仰だけで、この者の人生を変えてくださった。もしあのベッドの上で、「お前が今までやってきたことを償うために毎朝早く起きて聖書を何頁か読み、あるいはその隣近所の家の周りの掃除をして償いをしなければならない。」と神様がおしゃったら、私はあの時救われなかった。何もできなかったからです。寝たまま、上を向いたままの状態で、坐って聖書を読むこともできなかった。もし、そういうことを神様から期待されたら私は救われなかった。でも神様はそういうことをおっしゃいませんでした。「その寝たままの姿でいいから心の中で私を信じなさい。そして口を通してイエス様を信じたと言いなさい。そうしたらあなたは救われます。」私はその通りにして救われました。

退院いたしまして、文書伝道にしばらく当たった後に、東京基督教短期大学の前身の日本クリスチャンカレッジという神学校に入りまして四年間の学びを終えて、卒業後土浦めぐみ教会 の牧師に就任、実は神学校三年生の時からこのめぐみ教会の牧師として東京から帰ってきておりましたので、今年で、丁度22年になります。 同盟教団の牧師として満20年、結婚して満20年、そして学生牧師を入れて22年、この教会で奉仕をさせていただきました。本当に22年間、考えますともう恵みで一杯だったと思います。昨日も家内が昼間、私のベットのそばで神の恵みを覚えなさい、と申しまして、ともにあの詩篇の百三篇を読みながら考えたら、本当に恵みが一杯でありました。家族も神様が祝してくださいました。あれだけのレントゲン照射を受けて、子供なんかできないと言われたこの者に、神様は四人の子供を与えてくれました。いや結婚はできないと思ったこの者に、神はふさわしい助け手を与えてくれました。母の信仰を回復してくれました。家族そろって神様を礼拝できるようにしてくださいました。また、大勢の信仰の仲間たちを備えてくれました。本当に22年間、満足だという言葉が言えるような、恵まれた22年間でした。

その22年間を与えられるために私のなしたことはなんでしょうか。ただひとつでした。神の声に聴いたということです。「神は我らの避け所また力。悩める時のいと近き助けなり。お前はこれを信じるか。」私は信じました。「信仰がなくては神に喜ばれることはありません。」とみことばにございますけれども、私が神様にできたことは信じるということだけでした。しかし、「信じる」ということに対して神様はなんと豊かな祝福を、与えてくださったのでしょうか。

私はあるとき母と話したことがあるんですね。「あの喀血の絶望の淵で私は何度自殺をしようとしたかわからない。しかし、その自殺をくい止めたのは母さんあんただ。母さんが生きていたから死ねなかった。」母も言いました。「私もそうだ。私も何度死のうと思ったかわからない。しかしお前を残して死ねなかったし、お前を殺しても死ねなかった。」二人とも同じことを考えていたんだなあと、そこで笑い話をしたのでありますが、そういう状況の中にありましたこの者たちでありますが、神のことばに聞き従う、神の声に聴くということだけで、私共の家庭を祝し、今日に至らしてくださったわけであります。

私たちには限界があります。限りがあるんです。しかし神には限りはございません。このお方を信頼して生きるということは、これは私たちの幸せでなくて何でしょうか。私は喀血が続いている頃考えました。あの藁布団の中で寝ている時ですけれども「自分にとって今幸せって何だろう。」と考えたんですね。あのころマットレスなどない頃ですから、親戚の者が藁を切って叩いたものを布団にしてくれた、その上に布団を敷いて寝ておってたんですが、この上に座って、自分の左手で茶碗を持って、右手でお箸を持って、ご飯が食べられたら何と幸せだろうと思った。今思えばたわいのないそんなことしか、私はこの時、幸せとして考えられなかった。その時から考えたら今はなんと幸せだろうかと思います。

今また大きな病の試みの中にあります。しかし、本当に、それでも今私は椅子に坐ってこうやってメッセージもできております。また以前にもまして今度は、多くの方々の祈りがあります。また、この者にはまちがいのない永遠の命の約束が与えられております。私たちの望みは天の御国です。神の全面支配の中に生きていくことです。その中で私たちはこの地上の困難も矛盾も乗り越えることができます。「神の声に聴く」ということは、私たちの永遠の祝福の大きな鍵であることを、この朝覚えていただきたいと心から願います。「今は恵みのとき、今は救いの日です。」とみことばにありますけれども、本当に私たちに神様が与えてくださるチャンスは、そんなにたびたびあるわけではありません。

私は癌です。癌は宿命的な病気だと人々が言っておりますけれども、私は癌に甘えておりません。人は癌で死ぬか、何で死ぬかにかかわりなく、必ず死ななければならないからです。そして元気な者が長生きをし、弱い者が短い命で終わるということではありません。私たちの命は神の御手にあります。大切なことは神から与えられた命の一日一日をどのように生きていくかです。そして、神様に喜ばれる生き方をしていきとうございます。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と詩篇119篇の71節にございますけれども、小さい苦難かもしれませんけれども、私はこれまでにさまざまな苦難を受けてまいりました。しかし、それは実に、神様にお目にかかる道となり、また神様の祝福を受けることのできるためのものでした。そういう意味で本当に苦難もまた幸いであったと言うことができます。

どうか皆様方もこれからの生涯の中でさまざまな苦難に会うことがあるでしょう。死に直面することもあるでしょう。しかし、そこでくじけずに主を仰いでくださり、主こそまことの神、私たちは限界のある存在、その区別をはっきりと悟りながら、主ご自身を心から仰ぎ望んでいく者でありとうございます。ペテロとヨハネ、彼らは神に聞き従ってまいりました。人に聞き従うよりも神に聞き従うことを第一といたしました。このことが初代教会の特徴であり、祝福となりました。そして、「神の声に聞き従う」ということは、個人個人の生き方においても祝福となるということを、今日私は自らのあかしを通して皆様方に知っていただきたいと思うのです。ペテロが「私たちは自分の見たこと、また聞いたことを話さないわけにはいきません。」と言いました。皆さん方も自らの経験を通して、神様は生きていらっしゃる、というあかしを携えて、「私の見たこと、聞いたこと、経験したことを話さずにはおられません」と、神様を多くの方々におあかししていただきたいと思います。そして人に聞き従うのでなくて、また自分に聞き従うのでなくて「神に聞き従う」「神に聴く」というこの生き方をもって、本当に神様の祝福を受けていただきたいと思います。

祈り
愛する天の父よ。私たちは不真実でありましても、神は常に真実です。ペテロとヨハネは人間に従うよりも神に従うことを第一といたしました。その大胆な行動は、どれだけ初代教会の信徒たちを励ましたことでしょう。また、初代教会のすべての者たちが、これを模範として神に聞き従った時に、初代教会は大きく進展いたしました。ペテロとヨハネは言います。「私の見たこと聞いたことを話さないわけにはいきません。」どうぞ、私たちにも神に聞き従うことを得さしめてください。
この土浦めぐみ教会は神のことばによってたてられた教会ですから、どうぞ神の声に聞き従う教会として、今後ますます祝福してお用いください。この教会につながる一人一人の信徒の方々が、神の声に聴くという姿勢を第一として、そこからくる祝福を受けることができ、また、そこからくる祝福を人々にも宣べ伝えていくことができるようにしてください。
今朝は、この者に個人的になしてくださったことのおあかしを通して、神の声に単純に聞き従うことは、どんなに幸いな祝福を受けることかを申し上げました。ここにいらっしゃるお一人お一人にも神様がそのような経験を与えてくださっていることでございます。どうぞ、更に生き給う神を経験し、その祝福を多くの方々にお伝えすることができるように導いてください。
「神は我らの避け所また力なり」とのことばは、真実のことばでございます。「汝ら静まりて我の神たるを知れ」と更にこの四十六篇は語っておりますが、私たちが、まことの神であるあなたに心を傾け、あなたからの声に、心貧しくして聞き従っていくことができますよう再度お願いし、主イエス・キリストの御名によって感謝してお祈りいたします。アーメン。

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