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ネット礼拝と「リアリティ」についての備忘録

教会に集まっての礼拝や諸集会をとりやめて、ネット配信や家庭での礼拝に切り替えて4回の日曜日が過ぎました。

僕たちの教会は、日曜日は朝6時半の早朝礼拝から始まって、9時からの教会学校と同時刻に行われる第一朝拝、10時半からの第二朝拝、聖歌隊の練習、昼食、午後からは月一ので役員会やCS教師会、各会や教会セミナー、伝道委員会に求道者へのお手紙発送、そして17時からの夕拝という盛りだくさんの一日。
週日は毎週水曜10時半からの朝の祈祷会、14時半から18時までの「キッズスペースまるっこ」、19時半からの夕の祈祷会。二カ所でそれぞれ月一回の家庭集会、月一回の木曜の子育ての会、そのほか、牧師とマンツーマンで学ぶ求道者との「聖書の会」が毎週数名と。
土曜日には会堂のお掃除や日曜の昼食準備や生け花に看板書き、週報印刷と配布のために朝から夕方まで教会の皆さんが入れ替わり立ち替わりとというのがいつもの一週間。

それが3月最終主日からは朝10時半の朝拝と17時からの夕拝のみとなり、平日もほとんど人の出入りがなくなってもうすぐ一ヶ月。毎日出かけていくたびに、教会堂も心なしか寂しげな佇まい。「教会は建物ではありません」というけれど、会堂もまた寂しいんだろうなと思ったり。

そもそも教会の営みというのは、礼拝を中心にして教会学校や様々な交わりの機会、会議や打ち合わせ、祈祷会や地域に仕えるための集まりをはじめ、食事をしたりお掃除をしたり、印刷したり楽器を鳴らしたり、相談に乗ったり訪問したりと、とにかくいろいろあるもので、礼拝さえどうにかなればよいというものでもなく、やっぱりこうときに教会のひとりひとりがどうしているかが気になるもの。電話をしたり、メールを書いたり、時に様子をうかがってみたりと、群れの全体に心を配る働きに細心の注意を払う日々が続いています。

ネットを用いた礼拝が始まって、確かにそのメリットも大きく、このような逆境を宣教の機会に大いに用いようというのも、初代教会の宣教の心意気に通じるもののように思う一方で、従来の教会のあり方がどんどんネット時代の礼拝へと転換させられていくことには、まだまだよくよく考えてみるテーマがたくさんありそうな気がします。

そこで思うのは、やはり教会にとって大事なのは「リアリティ」なのではないかということ。それはキリストのリアリティであり、神の国のリアリティであり、キリストのからだのリアリティであり、神のことばのリアリティであり、一人一人の存在のリアリティでもあり、それらのリアルなことが教会を生かす大事ないのちであることを確認し続けることもまた大事なことだろうなと。

特によく考えたいのが教会のリアリティということ。時と場を定めて召集され、共に集まり、そこから派遣されていくという「具体性」、顔を見て、声を聞いて、一緒に祈り、歌い、語り、聴き、食し、労し、交わるという「身体性」、洗礼において浴び(あるいは浸かる)水、主の晩餐において食し飲むパンとブドウ酒(あるいはブドウジュース)といった「事物性」が大切で、このリアリティーはなかなか他では置き換えられないもの。

その上で、ネットでできることとできないこと、リモートでできることとできないことをよく分別し、何がアディアフォラかを見極め、常時と非常時の異同を考え、変え続けていくこととやがて戻していくこととをわきまえて、あまり尻込みせず、かといって先走りし過ぎず、視野を広くとって、熱い心と醒めた頭で、洞察と判断力を祈り求めながら、独りよがりにならず、知恵を出し合い、互いに耳を傾け合い、信仰の良心をよく働かせ、なんといってもよく祈って決めていけたらいいなと思う次第。

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