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かもしかと呼ばれた弟子

使徒の働き9:36-41

母の召天の知らせを静岡県掛川から病院に向かう車の中で聞きました。その時、とっさに心に浮かんだ御言葉が二つありました。一つはヨブ記1章21節の「主は与え、主は取られる」でした。続く「主の御名はほむべきかな」は、その時は受けとめることができませんでした。むしろその時に強く心にあったのは「主は取られる」でした。「ああ、本当に主は取られる、本当に取り上げるのだな」と思いました。そしてもう一つ心に浮かんだ御言葉が、今日開かれている使徒の働き9章36節に出て来る「タビタ」という女性の姿でした。

今日は母のたっての願いで家族だけのお別れの時となりましたので、あまり形式的にならず、母の生涯を思い巡らし、思い出を分かち合い、慰め合う時として過ごしていますが、その中で自分は何を語ろうかと思いました。思い出を語るにはまだ心の整理が着かず、とはいえ語り出せば恐らく皆で夜通し語り明かしたいぐらいの思い出がある。そんな中で今日は御言葉の説き明かしに集中しようと思いました。母はこの教会で20年、私の説教を聴き続けてくれました。文字通り一番の聴き手でいてくれていましたし、説教を聴くことを喜びとしてくれていました。なのでこの葬式においても御言葉の説教に集中したいと思います。

今日の箇所には初代教会において人々の間で物語られたひとりの人の死の姿が描き出されています。36節から39節。「またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死んだ。人々は遺体を洗って、屋上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、ペテロがそこにいると聞いた弟子たちは、人を二人、彼のところに遣わして、『私たちのところまで、すぐ来てください』と頼んだ。そこで、ペテロは立って二人と一緒に出かけた。ペテロが到着すると、彼らはペテロを屋上の部屋に案内した。やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」。

ここに登場する一人の女性。その名は「タビタ」、むしろ後の時代には教会で多くの人々から「ドルカス」という呼び名で覚えられた女性の弟子です。「ドルカス」、「かもしか」という意味だと言われます。しなやかに、軽やかに主に仕え、教会に仕え、兄弟姉妹への愛を表した人だったのでしょう。

私が母の訃報を聞いてとっさにこの箇所を思い浮かべたのは、母の信仰の姿がこのドルカスと重なって見えたからです。いつも背筋をピンと伸ばし、シャッシャと早足で歩き、礼拝で顔が見えない方がいれば月曜日には週報をもって訪ねていき、高齢の教会員たちの安否を問い、遠くにいるかつての教え子たちに手紙を書き、本を送り、様々な集まりにも積極的に出かけていき、その驚くような身軽さで愛を示してくれていました。そんな母とドルカスの姿が重なり合う中で特に私の心に響くのが39節でした。やもめたちがペテロのもとに来て「泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった」というのです。

ドルカスの愛を語り伝えたのは、教会の中で養われていたやもめたちでした。恐らく自分自身も決して豊かではなかったであろうドルカスが、そして恐らく独身であったかもしくは夫に先立たれたやもめであったかもしれないドルカスが、その生涯を主に捧げ尽くし、貧しいやもめたちのために、苦しむ人々のために多くのよいわざと施しを通して献身的に奉仕した。彼女の亡骸の周りで涙を流す人々の姿が、彼女の献身の生涯がどれほど人々の心に深く語りかけるものであったかを表しています。

こういうやもめたちの涙の中に浮かび上がってくるドルカスの姿もまた、私たちに母の姿を思い起こさせるのではないでしょうか。教会の交わりの中での人々への愛はもちろんのこと、引退した牧師夫妻のもとに足繁く通い、少年院で出会った少年たちに愛を示し続け、キングスガーデンの入居者方に親しく声をかけ、かつてのTCUの学生たち、先生たち、職員の方々のためにいつも祈り、人を大事にする姿勢を全うしました。もちろん家族のひとりひとり、そして孫のみんなを一人一人本当に愛し、受け入れ、励ましてくれていたことをみんな知っています。

そんな母の姿と重なるようなタビタ、ドルカス。その彼女が病気で亡くなってしまった。人々はただただ悲しみの中に立ち尽くすほかない。そんな光景が広がっています。ところがそこに死の現実を超えるいのちの現実がもたらされるのです。40節、41節。「ペテロは皆を外に出し、ひざまずいて祈った。そして、遺体の方を向いて、『タビタ、起きなさい』と言った。すると彼女は目を開け、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちを呼んで、生きている彼女を見せた」。大変不思議な光景です。そしてそればかりでなく、今この場でもこれと同じことが起こったら良いのに、と思う光景です。じっさい母の顔を見ると、今にも起き上がりそうに思えてなりません。もう一度、言葉を交わしたかった。それが心残りです。

しかしここで聖書はタビタが「起き上がった」と記す。この「起きる」というのは寝ていた人が目覚めて起き上がることを指す言葉ですが、聖書の中ではもう一つとても大事な意味が込められている。それは主イエスの復活の出来事です。聖書は主イエスの復活を「起き上がる」と表現し、そればかりでなく、主イエスにあって死んだ者もやがて「起き上がる」というのです。それはイエス・キリストが人を死からいのちへと取り戻し、起き上がらせ、生かしてくださるお方であることの確かなしるしです。

この主イエス・キリストにあるいのちはただタビタだけのものではない。彼女を立ち上がらせ、起き上がらせてくださった主イエス・キリストは、母をもやがて再び起き上がらせ、また私たちをも起き上がらせてくださるいのちの主なのです。だから私たちはこの葬式をただ母が、ばあばが逝ってしまったと悲しみの中で過ごす訳にはいきません。むしろ母がその生涯をかけて信じ、生き、伝えたイエス・キリストへの信仰を私たちも受け継ぎ、このいのちの望みに生かしていただきたいと思うのです。天国で会える、これは大きな希望です。

おとといの夕方、東京に急ぐ車の中で、母の人工呼吸器を止めるとの知らせを姉から受け、僕が着くまで待てないとお医者さんが言っていると聞いて、僕を待たなくていいよ、と言いました。何としても辿り着くまで待っていて、と言おうかと一瞬思いましたが、それはいいのだと呑み込みました。姉が「いまお母さんの耳元でみんなで話しかけているよ」と言ったので、「『勝です。間に合わなくてごめん。天国で会いましょう』と伝えて。」と頼みました。「天国で会おう」と言えるというのは、本当にありがたいことだと思いました。そういう信仰を与えられていることを感謝します。

天国で会えるから。そこに希望があるから。それを信じているから。これが母がみんなに残してくれた一番の遺産です。この信仰をみんな受け継いで、やがて御国で再会した時に、伝えられなかった思いを伝え、交わしたかった言葉を交わしたいと思います。その日を目指して、神さまの前に恥じない生き方をお互いに全うしていきましょう。

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