短編小説の集い「倖せな結末」の感想

こんにちは、noteでは初めまして、まささんです。はてなブログでも書いています。そちらと同じように、まさりんと読んでくれてもかまいません。

試験的に、noteで記事をあげてみる。それで、よそ様の小説の感想をあげるというのは失礼なのかもしれないが、その点はご容赦いただきたい。

今回の主催者様の小説が今までと毛色が違うな、と感じたのでその点を書いてみる。主催者様の小説はとある日曜日に湯島に行った帰りに、電車内で読んだ。

主催者様、いやここではI.D.名であるzero moonをつかって、ゼロさんと呼ぼう。結構、「zero moon」というのは好きな名前である。ゼロさんが以前書いていたが、私、まさりんの小説がとゼロさんの小説の違いを、「自分自身が出ているかどうか」だと規定されていた。そうだと思う。

とはいうものの、小説というものの性質上、自分というものがまったく出てこないということはない。必ず、著者のフィルターを通過するのであるから。

しかし、今回の作品はゼロさん自身の考えが色濃く出た作品だと思った。

AIは一部で危険視されている技術である(という都市伝説があるというのが正確か)。人格などをAIが持ち、それが暴走すると、人間が気づいたときには征服されていることになるらしい。

作中のAI「さくら」は小説を書くために開発された。

以前、AIに大喜利をさせるという企画があった。するとAIはものすごい発想をして答えを出した。例えばこうだ。

Q こんな散髪屋は嫌だ。どんな散髪屋。

A 店員がビゲンヘアカラーを勧めてくる。

散髪前にシートではなく、鎖帷子をつけてくる。

店員が全員半笑い。

といった具合だ。

作品内容に戻ると、そんな感じで、様々な作品をディープラーニングして、「さくら」は小説をつくりつづける。その「さくら」に対して、世間は絶賛する。本を出版すると瞬く間に売れた。その一方で、否定的な意見も出ていた。

ある若手の開発者は「さくら」にその否定的な意見を学習させてみた。すると・・・・・・。

AIなんてことになると、みな色々なことを考える。

作品を作り出すことはできても、作家性を持たせることは不可能だろう。

私も常々そう考えていた。

結構な有名作家でも、結局は同じことを、手を替え品を替え言っているだけであったりする。その「同じこと」が、その作家の作家性なのである。

それを持たせるにはどうしたらよいか。面白いアプローチである。

と同時に、新しい技術に対してどう関わって行くかという部分で、ゼロさんのお考えがよく出ているように思うのである。

一言で言えば、「それはやりよう」なのである。

ゼロさんは境界領域に登場人物がいる物語が出たときに非常に面白くなる。そう思ってきた。そこから発展して、とうとう書き手自身が境界にいて物語を書いた。今回の作品の面白さはそんなところにある。私はそう思う。

ちなみにこの作品における境界とは、「新しい技術」と「小説という古い世界」の二つの領域の境界である。

客観的な視点というのを「短編小説の集い」では推奨してきた。だからか、さすがゼロさんは書き手自身というのを極力消した、観察者の視点でものが語られてきた。私はそう思っていた。書き手がばんばん顔を出す私のような書き手とは対称的でとても面白かった。

ネットというのは匿名の世界だ。逆に著者というフィルターを投下しなければならない、小説というのは「作品自体が人格」という世界だ。そういう作業を延々に行う。ゼロさん自身の存在は、「ネットという匿名」と「人格をもった作品」という、二つの領域に存在する境界域の存在なのかもしれない。そんなことを考えた。つまり、はてなブックマークも含めたゼロさんのネット上の活動自体が一つの表現なのだろう、と。

はてなブックマークには、お知り合いのコメントは別個表示される。それを読んでいるとまさにゼロさんはそこのところを意識してコメントしている気がする。

今後、別に意識する必要はない。目の前の小説が面白くなるように工夫すればいい。だが、それによってたまに顔を出す、書き手自身というものも、興味深い。

一応、ハッシュタグを付ける試験も兼ねているので、あしからず。

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