戦艦大和と爺さんの話。
引用:Wikipedia (パブリックドメイン)
自分の母方の爺さん(萩藩ルーツ)は、開戦前・戦時中、
IHI(石川島播磨重工)の技師で呉の呉海軍工廠にいた。
ある日、極秘マークがついて、厳しい箝口令のもと、
「想像もつかない巨大なクレーンの設計図」を渡されて疑問に思っていたら、
それは大和型戦艦(*1)の船体に主砲を取り付けるためのものだったとのこと。
本物の大和と武蔵は、横須賀か浦賀沖で連合艦隊の主力艦船が並べられた時に(*2)、
もっとも陸上から遠いところにいたそうだが、
そのあまりのデカさにビビったと言っていた。
(*1)爺さんは、「大和」と言っていた。同系の「武蔵」に関わりがあるかどうかは不明
(*2)昭和天皇行幸で、連合艦隊を見るための儀式だったらしいが、わざわざ巨大な船体を
呉や長崎から回航し極秘情報を人目に晒すような事があったのだろうか?
その後は、「人間が直接体当りするような船(=爺さんの言葉ママ)」の設計をしていたとのこと。
自分が子供の頃、涙を流して泣くと「男の子が泣くんじゃない!」と激怒し、
戦略的で俯瞰能力が求められるスポーツであるサッカーが好きな割には、明治頭の頑迷な思想を持っていたのだが、
「人間が直接体当りするような船」の末路についてしゃべりながら泣いていて、
そういう戦い方はそれほど(=爺さんを泣かせるほど)酷かったんだろうと、思った。
最終的に、大和自体もそういう運命をたどるのだが、
それについて何か言うことはなかった。
戦後、萩藩・毛利家が品川駅前の一等地に大邸宅を建て、その中に住んでいた。
そして石播の磯子工場で働くことになり横浜に引っ越した。
爺さんがいつごろ石播を退職してその後、どうやって食い扶持を得ていたかはよく分からない。
だが、還暦か何かの祝い金で、サッカー鑑賞のために開始されたばかりのNHK衛星用のアンテナを買い求め、
「いいか、サッカーというのはボールが映っている画面の外で駆け引きが起こっているんだからな」と
言っていた。
頭のいい爺さんだったのだなと思う。
それで、その頃から、自費出版の本を書き始めて出版したんだけど、
全然売れなくて、在庫の山が爺さんの棺桶の前に積み上がっていて、
お葬式にきてくれた人に渡していた。
死因は肺がんだった。
「18歳の時に母親が亡くなって、寂しさから吸い出した。お前はやめとけ」と言われた。
もっといろんな事を聞いておけばよかったと後悔している。
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