志村けんさん
志村けんさんが亡くなって1年が経ちました。
そして、この1年で世の中はガラリと変わりました。
こんなことは綴るまでもなく皆が共有していることであり、だからこそ、今日は朝からあらゆる番組で志村さんの追悼的なことが行われ、この1年での変化みたいな特集も多々組まれています。
1年前、志村さんが亡くなった時には、僕も、Yahoo!、AERA.dotなど、あらゆる媒体で原稿を書きました。
デイリースポーツの新人記者時代、先輩から教わったのは「誰かが亡くなった時には、1行でも多く原稿を書くことが記者としての弔いになる」ということでした。
そこから20年ほど時間が流れましたが、その本質は今でも変わらないと思います。
そして、そこそこキャリアを重ねてきた記者として、そこにもうひと味加えるならば「1行でも多く。そして、その人の魅力が1人でも多くに伝わる話を書く」ということも必要だと思っています。
以下は、1年前のAERA.dotの原稿から一部抜粋したものです。
笑いの求道者としても敬意を持たれてきたが、もう一つ、志村さんが愛された大きな理由が人間性だ。
1979年頃からTBS「8時だョ!全員集合」で大人気になった志村さんと加藤茶のヒゲダンス。これはガダルカナル・タカから直接聞いた話だが、タカとつまみ枝豆のコンビ「カージナルス」が当時の所属事務所から言われるがままにヒゲダンスを完全コピーし、台湾各地をまわって“偽ドリフ”として公演を打っていくという、リアル闇営業というか、荒唐無稽な裏営業的なものがあった。
もちろん志村さんサイドには許可を取らず、二人の事務所が勝手にやっていたことだったのだが、結果、そのまま事務所は潰れ、ギャラも未払い。何もかもゴタゴタになっていく中、二人はビートたけしに拾われる形で「たけし軍団」に入る。
軍団加入後、多くの番組で仕事をするようになる中、偽ドリフから10年近く経って、志村さんと初めて会うことになった。
自分の意志ではないとはいえ、タカとしては偽物をやってしまっていた過去があったので、そのことを話さないといけないと思っていた。しかし、初対面ではその事実を告白できず、会って二回目の時に「実は…」と意を決して伝えた。
そこで、志村さんがどう出るのか。全く分からない中での告白だったが、すぐさま志村さんは「えぇ、そうだったの!面白いなぁ!」と大爆笑。今日まで繋がる縁が生まれた。
また、そこから志村さんとたけしとの縁も繋がっていく。志村さんとたけしと言えば、長らくTBSの「全員集合」、フジテレビの「オレたちひょうきん族」と、両局の威信をかけた視聴率戦争の看板同士でもあったので、なかなか接点が生まれることはなかった。
しかし、時が経ち、テレビ朝日「神出鬼没!タケシムケン」(1999年から2000年)などで共演の機会も生まれ、その流れで、志村さんとたけしが飲みに行くこともあったという。そこでは「けんちゃん」「たけしさん」と呼び合い、店の会計は志村さんより3歳上のたけしがしていた。
そんな中、タカがとりわけ印象的だと振り返るのが、共演番組の収録後。
たけしがテレビ局から車で出て行く時、スタッフや軍団が一列になってたけしの車に頭を下げて見送るのだが、ふと横を見ると、その列に志村さんも加わって同じように深々と頭を下げていたという。
無論、その時点で既に志村さんも大御所。それでも偉ぶることなく、計算でもなく、シンプルに先輩に敬意を払う。その素直さと柔軟性に心が揺さぶられたとタカは話す。
僕はタカさんに個人的に非常にお世話になっており、とてもマネはできないが、生き方のお手本にしようと努めてはいます。
そのタカさんが心震えたという志村さんの生き様。
一片で酒が一升飲めるへしこのように、どこまでも濃厚で味わい深い。
一方、志村さんが作った笑いは、和食の“出汁”のようなもの。
表には出なくとも、あらゆる料理にあらゆる形で使われ土台となる。そして、その味は当たり前のように日本人の“舌”になじんでいる。
どの角度から見ても、ただただ大きな存在です。
その分だけ、喪失感も大きい。
コロナ禍とは。
人生とは。
使命とは。
いろいろ考えます。
生たまごと赤まむしをかけたスイカを早食いして精をつけ、明日も生きる所存の46歳。
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