見出し画像

「僕たちはどう学ぶか」(10月31日) 開催に寄せて

近代の学校制度が、初期の縫製工場とほぼ同じ時期に発明されたことを思い出してほしい。学校も工場も、一つの屋根のもとに人員を集結させた。どちらも管理と評価を容易にするために、時間についての厳しい規律と細分化されたタスクを生み出した。両者はいずれも、信頼できる標準化された生産物を作り出すことを目指していたのだ。
――James Scott "Two Cheers for Anarachism" 

 現代の日本に生まれてくると、人生の少なからぬ時間を「教室」という場所で過ごすことになります。清潔に保たれ、雨や風にさらされることなく、人間だけが集い、決められた時間と順序の通りに物事が進行していく空間。ここでは標準的な「わかりかた」を想定して授業が進められ、「わからない」ことは「わかる」までの一時的な停滞として、できる限り速やかにそこから抜け出すことが要求されます。

 教室という空間には、「世界」に対する、人間の暗黙の願望やイメージが投影されているのではないでしょうか。人間が構築する知的世界を、複雑な環境から切り離し、清潔に、安全に保つことができるということ。正しい順序で一つずつ知を積み重ねていけば、次第に複雑な「問題」を「解決」する技術が身についていくはずだということ。何より、「わかる」ことこそ知であり、「わからない」ことは、「わかる」の欠如でしかないということ……。こうした教室のなかで上演される世界のイメージはしかし、教室の外で進行する現実と激しく乖離しています。

 僕たちが生きる地球生命圏には人間でない様々な生物種がいます。人間の暮らしに鳥や獣やキノコやウイルスが侵入してくることを防ぐことはできません。予告なく熱波や豪雨がやってきて、地震が起こり、草が生え、虫たちが飛び交い、そうした自分でないものたちの賑わいにまみれ、侵され、もつれあい続けるほかに、僕たちが現実のなかで思考する方法などないのではないでしょうか。

 切実な問題の多くはそもそも、明確な解決の方法がありません。だからこそ、曖昧さと不確実さのなか、問題とともに生き、これと付き合い続けることが必要になります(精神科医の帚木蓬生はこうした人間の力を、詩人ジョン・キーツの言葉を借りて「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んでいます)。性急にわかろうとするより、わからなくても感じ続けること。「解決」できる「問題」へと事態を矮小化させないことが、これまでの常識が大きく揺らぐ時代に、ますます重要になってくるはずです。

 『くらしのアナキズム』(ミシマ社)で著者の松村圭一郎がアメリカの人類学者ジェームズ・スコットらの著書を参照しながらくり返し指摘しているように、あらゆる制度は、制度を順守し、ただ服従するものたちによってではなく、むしろそこから逸脱し、ずらし、崩していく人たちの試みによって育まれてきました。学校をはじめとした教育の制度もまた、これを豊かに育てていくためには、既存のルールに執着するだけでなく、惰性に身を委ねるだけでなく、そもそも学校に行くのか行かないのかの選択を含めて、子どもたちがより多様な逸脱と抵抗の方法を選択できるように環境を整えていく必要があります(そもそも、ジェームズ・スコットが冒頭で引用した著書のなかで指摘している通り、出席することが選択でも自律的な行為でもなく強制なのだとしたら、現代の義務教育は制度として「出だしから根本的に間違っている」のかもしれません)。

 学校外での学びの場を作ることに並々ならぬ情熱を傾けてきた瀬戸昌宣さん(現在は福岡県福津市在住)とともに、ミシマ社に主催していただく形で、昨年の春から「学びの未来」というプロジェクトが始動しました。新型コロナウイルス感染症の拡大とともに、全国で一斉休校が広がり、「止められない」「変えられない」と信じられてきた学校システムがにわかに停止してしまったとき、子どもたちの学ぶ権利が奪われ、教育が機能不全に陥っていく現実を目の当たりにしながら、僕は学びを、これまでの習慣や惰性から解き放つチャンスがあるとすれば、いましかないと強く確信しました。やむにやまれぬ思いに突き動かされるように、そこから毎週、何十回にもわたる対話を瀬戸さんや、プロジェクト参加者のみなさんとともに重ねてきました。いま、これまで重ねてきた一年半の対話を、さらに多くのみなさんと分かち合えるように開くべきタイミングが来たと感じています。

 人間を含むすべての生物種と共存しながら、いかにすればこの地球環境を、居住可能な場所として営んでいけるか。これが現在僕たちが直面している最も緊急の課題です。とすれば、子どもたちが、人間しかいない場所で日常の大部分を過ごさざるを得ない状況は、それ自体大きなリスクではないでしょうか。9月に刊行された新刊『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)のなかで、僕は上のような問いかけを読者のみなさんに投げかけました。そして、人間主導の学びから、環境に導かれた学びへの「転回」を遂げていくために、「校庭ジャングル」や「依存関係のマッピング」など、瀬戸さんとの対話のなかから育まれてきたいくつかの具体的なアイディアを提案しました。

画像1

『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』(集英社)

 10月31日のイベント「僕たちはどう学ぶか」ではあらためて、この一年半の対話を踏まえ、これからの時代、僕たちはどう学ぶのか、学びと教育を取りまく既存の制度が壊れていく先に、どのような学びの未来を描くことができるのか、みなさんとともに考えていきたいと思います。

 校庭が、多様な生き物たちで賑わうジャングルでないのはなぜか。校舎が、あらゆる生物種の共存と共生を実現するための、科学と思想の融合する実験場でないのはなぜか。教室が子どもたちとともに未来を育む場所だとするなら、教室こそこの世で最もワクワクする場所であっていいはずです

 比較的安定した地球環境を所与として、そのなかで人間同士が互いに競い合うことができる時代は終わりました。もはや時代と噛み合わなくなってしまった制度は、ずらし、崩し、遊び、逸脱しながら、より寛容で解放的で、しなやかな制度へと、蘇らせていかなければなりません

 トップダウンの大胆な「改革」よりも、すべての人が学びと教育の主体として、それぞれの場所で具体的な抵抗を始めていくのです。ずらし、崩し、ほどき、遊ぶ……。10月31日(日)「僕たちはどう学ぶか」、ともにここから始まる新たな実験に、参加してくださるみなさんとの出会いを心から楽しみにしています。

2021年10月5日 森田真生

ミシマ社主催「僕たちはどう学ぶか 学びと教育のエコロジカルな転回」
参加申し込みはこちらからどうぞ!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?