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「世界の終わり」のあと

(以下は1月7日中日新聞朝刊、1月12日東京新聞朝刊に掲載された原稿の再録です。)

 先日、庭の椿の最初の花が咲いて、真っ先にこれに気づいた長男(三歳)が「ねぇ、見て!咲いたよ!」と、窓の外を指差しながら、目を丸くして叫んだ。

 花の姿に心躍らせ、温かな日差しにホッとし、雨音の静かさに耳を澄まし、石を握りしめながら物思いに耽る。人が生きるという営みは、いつも人間でないものたちに深く支えられているのだ。


 自分でないものたちと分かちがたく混じり合っているからこそ、人は自分であり続けることができる。この一見すると矛盾した事実を、科学はますます精緻に描き出せるようになってきている。
 人間の腸管には100兆個を超える微生物たちがいる。それがまるでサンゴ礁のように生態系を形成している。これらをすべて失ってしまえば、人は食べ物をまともに消化することすらできないのである。
 人体の約三十七兆個の細胞にはそれぞれ何百ものミトコンドリアがいて、遠い過去に私たちの細胞の祖先と共生を始めた彼らが、いまもせっせと細胞にエネルギーを供給している。
 太陽から降り注ぐニュートリノは毎秒約百兆個のペースで人間の全身を通過していく。今朝食べた野菜たちの栄養は、土中の豊かな菌根菌のネットワークの活発な働きの賜物である。


 人は、いつも人でないものたちと、分かちがたく交雑している。だから、自分だけの中に「純粋」に、「清潔」に、閉じこもることなどできないのである。
 自分と自分以外を画然と分かつのではなく、自分と自分でないものたちとの交わりをゆるす。それは、知的好奇心を満たし、生きる喜びを深める行いであるとともに、現代においては極めて実践的で、倫理的なふるまいですらある。


 私たちはいま、未曾有の環境変動を経験している。「自然」や「環境」は、これまでも人類にとって不確実で予測不可能性に満ちた場であったが、人間活動がもたらす地球温暖化の帰結としての大規模な気候変動は、人間と自然、主体と環境などと、物事を内と外、図と地に切り分ける考え方そのものの機能不全を私たちに突きつけている。
 首筋に焼き付ける夏の暑さは、人間自身の活動の帰結である。強大化する台風も、森林の消滅や大量の生物種の絶滅もそうだ。私たちは、私たち自身の活動の結果、日々静かに日常性が不気味に変容していくのを目の当たりにしている。


 人間が「こちら」にいて、自然が「あちら」にあるとか、私が活動する「背景」として環境があるのだとか、そういう「図」と「地」の区別を前提としたものの見方は、気候変動の渦中においては特に現実味に欠ける。人間と自然は相互に侵し合い、自己と環境は互いに浸透し合う。そのことを私たちは、加速度的に温暖化していく惑星の上で身を以て学習している。
 純粋で清潔で首尾一貫した自分だけの「世界」に閉じこもることは不可能なのである。これをアメリカで独自の環境哲学を展開するライス大学のティモシー・モートン(Timothy Morton)は「世界の終わり」と呼ぶ。それは、終末論的で破局的な、地球そのものの終わりではなく、内と外、図と地を切り分け、自分だけ安全に引きこもれるような場としての「世界」があるという発想自体の有効性の終わりだ。


 人はみな、自分でないものたちと混じり合い、響き合う生命の網の一部である。そこにはすべてを無傷なまま見晴せるような、清潔な安全圏はどこを探してもない。
 だからこそ、不都合な他者を「正しく」制御し、自分だけ清潔であろうとするより、純粋で清潔な「世界」という妄想を手放し、不可解な他者と共存していくための知恵をこそ、模索していく必要がある。


  「世界の終わりのあと」を生きる私たちの人生は、人間でないものたちとの共存の道へと、もっと大胆に開かれてよい。


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