#D2021 Dialogue Vol.6 'クソどうでもいい仕事は誰のため'を視聴して

また齋藤幸平氏つながりで、彼自身もゲストとして登場する番組を観た。

ソースは人類学者であるデイヴィッド・グレーバーの著作である「ブルシットジョブ」から展開された。

まず、グレーバーの著作の翻訳を手掛けている社会学者の酒井隆史氏から、グレーバーと著作の概略が説明された。

酒井氏は話しながら考える方なのか、冗長でまとまりがなく聞きずらかった(笑)

氏いわくブルシットジョブ(以下BSJ)が日本において関心を持たれ共感され共鳴していることに驚きを覚えているとのこと。

BSJは個人の主観での自己認識率が高いらしい。そしてBSJを認識している人間の労働条件は高待遇で良好。高報酬と高い地位の人間が多い。そこに罪悪感を感じる者もいるという。

罪悪感を感じているがどうかは知らないが、分かりやすい例として、ちょうど今朝の新聞に載っていた「天下り」は昔からあるBSJではないか。公益法人などの重要性のない仕事に補助金を分配し、OBの給与を負担していた。

近似的にシットジョブがあるが、こちらは得てして労働内容は実質的だが低待遇である。

BSJの業務内容としては、単純作業の複雑化による非効率。

ではなぜBSJが生まれてしまうのかと言うと、皮肉なことに「効率化」からだという。

ここから話はネオリベ(新自由主義)と資本主義への話へと移っていく。

ネオリベは資本主義へと扇動する政治思想であり、分業化に代表される資本主義の効率化は、数量化を評価基準としている。

あらゆる業務が数量化されることにより、本来は数量化できないものも数量化する作業が生まれてくる。これが管理部門のBSJとなる。

もうひとつの資本主義の特性として、希少性を作り出し、需要を喚起する面がある。楽観的に見れば、そのシステムがAI等で自動化が進み、人間は労働からの解放が出来るかもしれない。

が、しかし、これは日本人の国民性もあるかもしれないが、労働からの解放に罪悪感を感じ、資本主義とネオリベによる強迫観念のような従属性により、可能性を封じ込まれ、囲われてしまうのではないか。その悪循環が仕事を際限なく作り出し、さらにBSJを生み出していくのではないか。

ここに齋藤幸平氏が提唱する、「脱成長」の難しさがあるのではないか。

BSJと対置してエッセンシャルワークがある。必要不可欠で社会のインフラ的な職種である。そんな普遍的なのに低賃金という現状がある。

政治学者である岡野八代氏がフェミニズムの観点から考察した。

まだ父権的な社会において、男が稼いでいるから、男は自立し、主権的であるように思えるが、その自立を支えているのは、無償で働きまた、出産という労働者の再生産を担う女の存在があってこそなのだ。

そんな女性的存在とエッセンシャルワーカーは類似しているのではないか。

それらの存在はどちらも親近的な故に閉鎖的なので、DVなどの暴力もおきてしまう。

では、そのような低賃金であり、無償である立場の人達には何が必要か。ここで齋藤幸平氏からは富の再分配と公的や、地域の支援が提唱された。

今回のテーマであったブルシットジョブは端緒であって、根本的な問題はやはり資本主義という構造であった。

資本主義について語ることはタブーとなっていたところがあるが、こうやって対話できるようになったのは、語ることの始まりだと、出演者は共感していた。焦らずこのような行動を続ける事が大切だ。

しかし、気候変動は待ってはくれない。


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