「新しい道徳」 北野 武を読んだよ

北野武の著作は昔読んだ覚えがあるけど、忘れてしまった😅

ほとんどテレビを観ないけど、たまたま北野武が出ている報道系の番組を目にした、

タケシ、面白くない😅

まぁ、報道系だからそれでもいいんだろうけど、何だかやる気がないような、キレがないような感じがした。

中学生のときに漫才ブームで、やすきよが一番だったけど、次はツービートだったなぁ。タケちゃんマンも面白かった🤣

映画は「この男凶暴につき」と「アウトレイジ」くらいしか観ていないけど、暴力的すぎて好みじゃない。だけどこの本でタケシが言及している、

メメント・モリは道徳の土台なのだ

から死の日常性を表現したかったのかなっと、今は思う。

タケシは執筆や映画に専念すればいいのに、なんて思ったりもした。

そう思うのはこの本に共感できたからだ。

初めの方にタケシらしい言葉がでてくる、

結局、いいたいことはひとつなんだから。「道徳がどうのこうのという人間は、信用しちゃいけない」

だからこの本で言われていることも鵜呑みにするなと。それが「道徳」なのだ。

道徳は価値観によって変わるものだから、子供から見ての大人や、他人から押し付けられて、一律に覚えることではない。

今の道徳の教科書には「~すると気持ちがいいから~しなさい」と書かれているらしい。それは情緒的価値観の押しつけで、気持ちいい、悪いは、行為をしてから当人がわかることなのに。

道徳が教科化されている。いつも権力者は自分の都合で道徳を作るから、都合が変われば道徳もころころ変わるということを大人たちも肝に銘じておかなくてはと思う。親である自分もたまに他人の道徳で子供を戒める事があるから。良くも悪くも大人が本気で言ったことが、その子の道徳になってしまう。

 今でもコロナで「新しい生活様式」なんていうのが出てきている。これも新しい道徳の一つだろう。世界が変われば道徳も変わるのだ。だけどタケシが言うように、鵜呑みにすることなく、自分で考え、自分で道徳を作ることが大切だろう。

この本の特徴は、北野武が時にネット社会の弊害や資本主義への嫌気を表出しながらも、タケシらしい例えを使い、人類の誕生までさかのぼったり、歴史の雑学を織り交ぜながら―――いわば頑固親父のタケシに説教されている感じになるところだ。それが不思議とほっこりする読後感を与えてくれる。それは北野武が本気で言っているからだろう。

以下に共感した箇所を引用しておきます。

 道徳と良心を混同してはいけない。道徳と良心は、別のものだ。芥川龍之介がいったように「良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造ったことはない」のだ。
道徳を身につけるのは、人生を生きやすくするためなのだ。
整理整頓が得意な子どももいるだろう。だけど、そういうことがまったく性に合わない子どももいる。捕まえてきたトンボだのコオロギの死骸をロッカーに突っ込んでおく子どもを、道徳の教科書に照らし合わせて叱ってはいけないと俺は思うのだ。それは子どもの好奇心の芽を摘み取るのと一緒だ。
フ ァ ー ブ ル は こ う い っ た 。 「 自 由 は 秩 序 を 作 り 、 強 制 は 無 秩 序 を 生 む 」 秩 序 は 大 切 な も の か も し れ な い け れ ど 、 そ れ は 強 制 し て 作 り 出 す も の じ ゃ な い 。 掃 除 は 自 分 が や ろ う と 思 っ て や ら な け れ ば 、 た だ の 強 制 労 働 で し か な い 。 今 の 道 徳 教 育 は 、 下 手 を す る と そ の 強 制 労 働 に 近 い こ と を 子 ど も に 強 い て い る ん じ ゃ な い か 。
道徳は将来の理想的な国民を育成するための道具ではないはずだ。一にも二にも、子どもの成長や発達のためのものだろう。今の道徳教育は、子どもはこうあらねばならないという型がまずあって、その型にむりやり子どもを押し込めようとしているみたいだ。それでは順序が逆だ
友 だ ち な ん て 、 無 理 し て 作 ら な く た っ て い い 。 友 だ ち が 一 人 も い な く た っ て 、 幸 せ に 生 き て い る 奴 は い く ら で も い る 。
道徳の教育で教えるべきなのは、むしろ無理して友だちなんて作らなくても、人は十分に幸せに生きていけるということだ。
ほんとうに必要な道徳教育は、子どもたちにできる限りの真実を教えてやることだ。人間の抱えている矛盾や問題をごまかさずに、だ。


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