「脱成長」セルジュ・ラトゥーシュ著を読んで

こちらも「人新世の資本論」の斎藤幸平氏が推薦していた本だ。彼の著作の中でもこの「脱成長」は重要なキーワードとして頻出している。前回読んだナオミ・クラインの「地球が燃えている」などと共通の問題提起と解決へ向けての思索が書かれている。

本紙の特徴は齢八十歳になる著者の思索の歴史からくる、脱成長の先駆的な思想家たちの考察を随所に散りばめ、「脱成長」への思索の深さと歴史的な長さを表出している点であろう。

文体としては平易ではないが、斎藤幸平氏の「人新世~」などを読んでいれば、その思想の類似性から理解出来ると思う。

まず「脱成長」という語は、景気後退やマイナス成長を意図せず、生態系に負荷をかけない範囲での生活の質、空気や水の質など、経済成長のために経済成長が破壊してきた物の質を向上させることであり、斎藤氏の主張する、無限定な拡大を伴う資本主義という構造から脱却し、複合的なオルタナティブ社会を構築する企てを意図している。

それでは前述した拡大の無制限は何かと言うと、著者は三つあると言う。

第一の無制限は、際限のない生産、すなわち再生可能な資源と再生不可能な資源の際限のない搾取である。第二の無制限は、ニーズの際限のない生産┈┈すなわち薄っぺらな生産物の際限のない生産┈┈である。第三の無制限は、ゴミの際限のない生産、すなわち廃棄物と(大気・土壌・水質)汚染の際限のない発生である。

それは資本主義の節度の欠如を表しているという。

そして本書にも斎藤氏の提唱する「コミュニズム」を想起させる文脈がある。哲学者クロード・ルフォールによると、権力は掌握するものではなく、それに対して異議申し立てするものである。との言葉の具現化として、

市民社会の果たすべき役割は、権力を制御し、民衆の要求が満たされるように権力に対して必要な圧力をかけることにある。したがって、政治機構を再考し、社会自身の手によって政治機構を制御することが重要だ。

とは、分かっていても、なかなか行動に移せない人間を見通して、そのような人間たちを、著者はアル・ゴアの「不都合な真実」の「受け身のカエル」を引き合いにだす。徐々に煮立てられ、茹で上がることに気付かないカエルのことだ。まさしく人類は今、茹で上がろうとしている。

著者はジャン・ピエール・デュビュイの言葉を引用する。

「我々が未来、特に破局的な未来に対して十分な現実感を与えるに至らない点にある」。「言い換えると、我々を救済するチャンスを開くのは、我々を脅かすものである」。

私自身も今のように、環境問題に関心を持った端緒は、肌身で感じたことからだ。日本の豊かな四季が、二季なのではと思うほど、極端になっていることと、台風の頻度との巨大化に危機感を覚えたからだ。そのような破局的な危機感が生まれなければ、「脱成長」のような根本的な構造の変化は起きないのかもしれない。という消極的な意識と、裏腹には、そうなれば加速度的に「脱成長」が達成出来るかもしれないと言う希望も湧出してくる。


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