ある雨の日の画家のブルース(アンリ・マティス)

 みるみる厚い雲が垂れ込め
 アトリエの天窓から燦燦と射していた日の光が
 一気に傾く

 若きモデルの美しき陰影――
 そのメリハリのあるコントラストがぼやけて薄くなり
 ぽつり、ぽつり……
 天窓に雨が叩きつける

 画家はいったん絵筆を置き
 モデルへ向かって軽く目配せする――
 モデルはうなずく間もなく
 白いローブを羽織り休憩に入る

 来年六十歳になる画家と
 今年三十歳になったばかりのモデル……

 パートナーでもなければ恋人同士でもなく
 歳の離れた夫婦でもない男と女が
 二人きりで向き合うアトリエ――

 もちろん男としてではない
 画家として全裸のモデルと対峙し
 もちろん女としてではない、モデルとして
 息を呑み見つめる画家と対峙している

 雨はますます激しく……
 たがいに言葉を交わすこともない男と女の
 二人きりのアトリエに雨音だけが激しく響く――

 アーモンド型の大きな黒い瞳
 長くカールした睫
 彫り深い眼窩からすうーと通った鼻筋
 長い黒髪をお団子にきゅっとまとめ、往年の
 東欧女子体操選手のような端正で品がある顔立ち

 肢体はといえば――
 成熟が始まったばかりのたわわな乳房と
 ぱんぱんに張った肉付きのいい太腿
 イギリスの田園風景に点在する丘のような流麗で
 高く突き出た尻のループ

 青空に浮かぶ雲たちとあたかも
 不倫の交わりをしているかのような自由奔放
 屈託もなく伸びきった手足
 この惑星の重力にこそひときわ映える
 鋭く切り立った三日月の腱

 パステルカラーのネイルが丁寧に施され
 優しくアルペジオを奏でるその長く細い指先
 脇腹のくびれは
 さながらストラディヴァリウスの切なくも
 狂おしいチェロの音色のよう……

 風が透いて通るようなその肌よ!

 もはや初老といえど欲望を抑え切れず、思わず
 絵筆を置いて頬ずりしたくなるような
 世界で一番肉惑的!――
 均整のとれた背中から滑らかな脇腹に走る、柔らかで
 深い一本の線!

 それら女のすべてが
 カンバスにじんわりと浮かび上がり
 まだ描き出し半ばでそれらの部位と部位は
 カンバスにあるべき位置を占めてはいないが――

 部位と部位はたがいの個性を主張し合いながらも
 あきらかに関係性を構築し、全体として、実在として
 息づき始めている……

 こうして画家は
 名指揮者が交響曲を奏でるかの如く大胆かつ繊細なタッチで
 点と線、線と動き、動きと量、量と光、量と影、部位と部位
 そして……色彩と色彩を響き合わせ、カンバスという
 コンサートホールに交響曲を奏でる!――

 だが、画家自身はクラシックよりジャズを好むんだ……
 そうさ、絵筆一本!
 オイル塗れ、絵具塗れのジャジーでブルージーな人生さ!

 密閉されたコンサートホールに交響曲が響き渡るが如く
 画家はカンバスの内側にいったんモデルを幽閉するが――
 さあ、これからが画家がプロの画家たる真骨頂!
 これからが本当の腕の見せどころだ!

 芸術作品として完成させるということは、つまり――
 カンバスという二次元の空間にあるべき位置を占めさせるため
 絵筆を駆使し、いったん囚われの身としたモデルをふたたび
 女として
 人間として
 画家自らが設えたカンバスという檻の中から解放し――

 画家が死んで、画家が忘れ去られた百年後も
 二百年後、三百年後……いや、千年後も
 フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が如く――
 未来の鑑賞者の前、時空を超えて生き生きと
 女を振り向かせてやることだ!

 雨が上がった
 日の光が天窓から射し込む――
 ああ、そうとも
 ブルースはもう終わりだ……

 目配せもしないのに
 モデルは自らローブを脱ぎ捨て
 惜しげもなく生まれたままの姿をさらしてポーズをとる

 女の肢体を讃える日の光の向こう――
 はるか天上から
 気まぐれでわがままな美の女神が微笑んでいる

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?