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〈フレーム〉が、〈ストーリー〉を生む~マサムネ内記流映像作品分析術Part1~

そんなタイトルで大丈夫か?
――大丈夫じゃない。プレッシャーだ。

noteを始めて二日目。
あれこれ書いていきたいものですが、ここはエッセイやコラムに向いているプラットフォーム。
なので、ウォーミングアップとしてのちょっとしたエッセイ(随筆、試み)から始めましょう。

今回は「マサムネ内記流の映像作品分析術」について。
(好評ならシリーズ化します。という自分へのプレッシャー)

Twitterでは、たつき監督作品をはじめ、いくつかの映像作品を分析/批評してきました。
改めて「映像作品を分析/批評する上で、僕が何を重視しているか?」を確認する。
という話です。


作品を観ている時に、何を見ているのか?


大前提として、作品の見方は人それぞれです。
「こう見なければいけない」「こうやって理解しなければいけない」
という決まりはない。

作品に対して、どんな感想を持とうが自由です。
しかし十人十色の感想や批評を並べてみると、ある疑問が浮かびます。

「この感想を持った人は、作品の【どこを見て】こう思ったのだろう?」

【どこを見て】!あるいは【どこを見たか】!
これこそが作品を観る時に最も重要だと僕は考えています。
説得力がある批評家ならば、【どこを見たか】を明確に示した上で、作品を解説してくれることでしょう。

では、【どこを見たか】とは具体的にどんな行動を指すのかというと

作品の〈フレーム〉内で得られる視覚情報のうち、どこまでを見たか

です。

〈フレーム〉とは、演技が行われる空間を形作る枠。
これは、現実世界にいる私達が覗いている映像世界との境界線です。
映像作品の視覚空間を形成し、映画世界内にあるモノを見え隠れさせる。

観客は〈フレーム〉の中にあるモノや演技や情景から、意味を形作っている。
逆に言えば、〈フレーム〉の中にあったモノが観客にとって何であるのか分からないモノは、意味を形成しない。
あるいは〈フレーム〉の中で演技されたとしても、観客にとってその演技が分かりづらかったり理解されないものであれば、意味を形成しない。

スクリーンショット (80)

スクリーンショットは、映画『セブン』より。

観客にとって理解される視覚情報の全ては、〈フレーム〉の範囲内にある。
ということは、作品を観る時

〈フレーム〉がずっと目の前に存在し続けていることを忘れないこと

となる。
これが、マサムネ内記流の作品分析術のポイントです。

……その程度?と思われるかもしれませんが。
映像作品に没頭する観客はたちまち〈ストーリー〉に飲み込まれてしまう。

しかし〈ストーリー〉は、かなりあやふやなものです。



観客が見たものは〈ストーリー〉そのものではない


観客である私達は、映像作品を観た後に、誰かに対して〈ストーリー〉を説明しようとします。

しかし、敢えてイジワルな言い方をします。
あなたや私が語る〈ストーリー〉は、作品そのものではない。
あくまでも〈フレーム〉の中で得られた視覚情報や聴覚情報によって得られた内容を、観客自身が再現/編集し語られた上での〈ストーリー〉です。

〈ストーリー〉とは作品そのものではなく、作品の内容が観客によって外在化された結果生じたものだと言い換えられます。

ここで厄介なことに、観客は〈ストーリー〉に飲み込まれやすい現象が起きる。
いつのまにか〈ストーリー〉を念頭に置いて、〈フレーム〉の中を覗こうとする。

〈ストーリー〉があるから〈フレーム〉が使われているのではなく。
〈フレーム〉があるから〈ストーリー〉が生まれる。

映像作品は〈ストーリー〉だけではなく、もっと複雑な要素を絡めて作っています。
ですので、分析や批評を行う場合には、いったん〈ストーリー〉を遠ざけておきます。


〈フレーム〉の存在が〈ストーリー〉を生む


ここで、先ほどの〈フレーム〉の話に戻すと。

〈フレーム〉がずっと目の前に存在し続けていることを忘れないこと

この心がけが、実は〈ストーリー〉をシンプルかつ正確に把握させてくれるのです。

何故ならば。
作品は常に〈フレーム〉によって形作られるので、〈ストーリー〉を〈フレーム〉の中に単純化して現前させることを制作者たちが積極的に行っているからです。

だから観客は、見逃すべきではない大事なモノや演技や情景を〈フレーム〉の中で発見し目に焼き付けなければならない。
それさえしておけば、長い作品であっても、数シーンで〈ストーリー〉を成立させることが出来てしまうのです。


映画『エデンの東』の場合


例えば、名作映画『エデンの東』
ジェームズ・ディーン演じるキャルと、兄のアーロン、兄の婚約相手のアブラ、父親のアダム、母親のケートがメインキャラです。

厳格な父に嫌われているキャルは、父に好かれたい一方で素直に従えない悩みがあった。
父もまたキャルを理解しようと努めるが、自由を求めて家を飛び出した母親同様、キャルの自由を求める心が父を苦しめている。
善人の兄と違う方法で父の愛情を得たかったキャルだが、失敗に終わる。
吹っ切れたキャルは悪性を発揮し、実は生きていた母親と兄を再会させる。
母が堕落していたことを知った兄は自我崩壊し、それを知った父もショックで半身不随になる。
後悔したキャルは、アブラの後押しもあって懺悔し、父もまた許す。

この〈ストーリー〉は、父と子の関係がメインと言えます。
その関係を、映画ではどう表現したか?

エリア・カザン監督は、〈フレーム〉の傾けによって見事に表現しました。

エデンの東1

エデンの東2

エデンの東3

この3枚のスクリーンショットで、父アダムと次男キャルの関係が変化したことが分かります。

1枚目は、父がキャルに対して聖書を読ませ、教え諭す時。
2枚目は、キャルが兄を崩壊させた後、父に勝ち誇って報告する時。
3枚目は、ラストシーンで父子が和解し、寄り添う時。

注目すべきは、以下の4点。

・キャルと父の位置が〈フレーム〉内で決められていること
・1枚目はキャルが父よりも下位、2枚目はキャルが父よりも上位、3枚目はキャルが父に従う(寄り添う)。
という、状況に合わせて変化した関係が〈フレーム〉の中にある。
〈フレーム〉そのものが傾いている時は、父子関係が不安定であり、強制された関係でもあること。
〈フレーム〉の傾きが直った時に安定を取り戻し、父子関係は自然なものとして観客にも受け入れられるラストになったこと。

〈フレーム〉の中に単純化され、現前された〈ストーリー〉がある場合は、たいてい〈劇的なカット〉で表現されています。

作品の質を問う場合には「〈劇的なカット〉が存在しているかどうか?」が重要になるのです。


TVアニメ『ケムリクサ』の場合


映画だけではなく、TVアニメ作品でも〈フレーム〉を意識した見方は可能。
(映画の見方が映像作品全体に及ぼした影響については、いずれ書きます)

たつき監督作品のTVアニメ『ケムリクサ』では、わかばというキャラクターの位置取りが〈フレーム〉内で変化していきます。
登場人物同士の関係が変わり、〈ストーリー〉が変化していくのです。

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3枚のスクリーンショットは、3話→7話→10話の順です。

わかばが姉妹達に教えられる立場
     ↓
わかばが率先して道を開く立場
     ↓
わかばがりんを支えていく立場

という関係の変化が、〈フレーム〉内でのわかばの立ち位置で明示されている。

「たつき監督が、たまたまわかばをここに配置したのだ」
「ここにわかばがいると何となく良い具合になっているのを見て、意味を無理やり作り出しているだけだ」
という見方では、分析/批評には至らない。

観客が見るべきモノは、〈フレーム〉の中にある。
優れた制作者であれば、〈フレーム〉の中に過不足なく配置し、意味を形成させる。
二流の制作者であれば、〈フレーム〉の中にあるモノに不純物が混ざり、意味形成に齟齬や矛盾を発生させてしまう。


たつき監督は優れた制作者に属するので(それも優秀な!)、彼の生み出した〈ストーリー〉が大勢の人々に届けられている。

それは〈フレーム〉内にあるモノをコントロールする能力に長けているからだと、僕は思っています。


分析/批評の方法は一つだけではない


繰り返しになりますが、

〈フレーム〉がずっと目の前に存在し続けていることを忘れないこと

これは僕が最も重視していることではありますが、絶対の真理ではありません。

映像作品を観る時に重視すべき要素は、感想と同様、十人十色です。

そして、作品の分析/批評を行う方法は一つではない。

とはいえ僕の場合は、こだわりを持って〈フレーム〉を重視する方法を取っています。
〈ストーリー〉を念頭に置くのではなく〈フレーム〉で作品を分析/批評しているのも、僕自身が他人に流されない見方を心がけたいからです。

マサムネ内記が〈フレーム〉の中から見出したモノ。
そこから僕が見出した〈ストーリー〉が現前する。
それらを言語化した時から、作品の分析/批評に至る。

こういう流れでずっとやって来ているのです。

映像作品の分析/批評はストイックなことです。
しかしやってみると大変奥深く、尽きない面白さがあります。

これを読んだあなた。
どうか映像作品の分析/批評にチャレンジしてみてください。
それだけが私の望みです。


まとめ

・映像作品の感想や分析は人それぞれだが、作品の〈フレーム〉内で得られる視覚情報のうち【どこを見たか】が語られることが重要
・作品を観ている間は〈フレーム〉がずっと目の前に存在し続けていることを忘れないこと
・〈ストーリー〉があるから〈フレーム〉が使われているのではなく、〈フレーム〉があるから〈ストーリー〉が生まれる
・〈フレーム〉の中に単純化され、現前された〈ストーリー〉がある場合は、たいてい〈劇的なカット〉で表現されている。
優れた制作者であれば〈劇的なカット〉を印象づけることが出来る。
作品の分析/批評の方法は一つではないからこそ、チャレンジしてほしい。

ちなみに最初に考えた記事タイトルは
「映像作品を観る時に僕が視ているモノが僕に何を思わせるがゆえに僕は何を見たと言えるのか?」
でした。
おまえは何を言っているんだ。

以上!終わり!
さばんなちほー私有化完了!
みんみ解散!

じゃあ俺、かばんちゃんとサーバルちゃんが使ったマグカップ(未洗い)を回収して、サザビーズのオークションに掛けてくるから……

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