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あのとき思い切って日本を飛び出していなかったら。(その3)

どうしてニューヨークへ行こうと思ったのですか?という質問の答えはもう書いてしまった気がするのですが・・

私は決して最初から「日本では居心地が悪い。LGBTQに寛大な自由の国、アメリカへ行こう」と思って海外へ飛び出したわけではありません。

結果としてニューヨークは自分のセクシャルマイノリティが受け入れられる場所であったことは間違いないんだけど、正直ニューヨークへ行こうと思ったのは、勢いと直感だけでした。

もちろん、最終的には直感や勢いだけではなく、実際に行動しないと結果を生み出すことは絶対ないのだけれど・・。

本格的にニューヨークに住む半年前、2011年の冬、私はニューヨークに1ヶ月滞在していました。ブルックリンのパークスロープというとてもお洒落なエリアに(当時は汚くて怖いなと思ったけど、今思うともっと汚くてもっと怖いところはいっぱいある。)カウチサーフィンという、要は人の家のリビングルームを間借りするという手段で滞在していました。

実際ニューヨークの魅力を知るまでに時間はかかりませんでした。
まず、思っているより白人がいない。アジア人を含めた有色人種が多い場所だなというのが第一印象でした。私はすぐに、日本で流行っていた「外国人風」という言葉の中に“人種差別”を見つけました。

私たちが憧れている外国人風のファッションというのは、白人のことなのだ。
もっとはっきりいうと、痩せていて、若い、白人。これが日本で言われている「外国人風」なんだとすぐに気づきました。それと同時に、英語は話せなかったけど肌で感じたニューヨークの「ダイバーシティさ」に私は魅了されていました。

人種だけじゃない。体型や年齢をコンプレックスと思わない人がほとんどで、自分らしくいることを美しいとする美学がここにはあると感じました。

もちろん、私が心から嬉しかったのはニューヨークのセクシャルマイノリティの在り方でした。ニューヨークには日本のように新宿二丁目みたいな場所がないのです。それは、ゲイもレズビアンもストレートの人も、この街では普通に共存しているのだ。特別に扱われることは絶対にない。

この街には「私のゲイの友達がさぁ〜」とか「あ、あのゲイの子かぁ!」という会話が存在しないのです。

それは誰も「私のストレートの友達がさぁ〜」と言わないのと同じように、異性愛者(ストレート)であることが当たり前とされていないからなのです。

この街では、”自分が自分らしくいることが”最も大切とされています。

LGBTQA+のことだけに限らず、例えば流行りのブランドで全身を固めている子よりも、センスのいい音楽を知っている子の方が人気者になれるし、痩せようと必死に食事制限をしている人よりも、大きいお尻がより綺麗に見えるジーンズを選ぶのが上手な子の方が魅力的とされているところなんか、最高にクール。

私はあの一ヶ月間、セントラルパークも行かなかったし、ハーレムでゴスペルを聞いたり、エンパイアエステートビルディングを登ったり、ブルックリンブリッジを渡ることもなかったけれど、ニューヨークの魅力をいたるところで、いたる瞬間、感じることができました。

滞在最終週にとある日系美容室に髪を切りに行って、もしビザが取れれば、そこで働かせてもらえることになりました。

私はニューヨークに戻って来たい。こんな場所は世界のどこにもない。直感だったかもしれないけど、絶対ここで美容師として新しいキャリアを積んでいきたいという決意が生まれました。

いったん日本に帰ってから、その半年後の夏、1年間滞在する予定で再びニューヨークへ飛び立ちました。その時はまだこの先ずっとニューヨークにいるかどうかなんて分からなかったけど、美容師として働き始めることでこの街への愛着がどんどん湧いていったのでした。

私はものすごいスピードで英語を習得しました。1年で400人以上のカットモデルをこなすことで友達もたくさんできて、カットもどんどん上手になって、色んな英語の表現や、ジョークだって言えるようになりました。

今やニューヨークに住んで9年目になるけど、10年以上住んでいても英語が話せない日本人はたくさんいます。私がすごく勉強熱心だったこともあるけど、それよりも私はこのニューヨークという街に心から馴染みたかったのです。

本物のニューヨーカーになりたかったし、それは形だけではなく、その瞬間瞬間に新しく生まれるカルチャーの一部になりたかったし、それを肌で感じたかったのです。

当時は初めてアメリカ人の彼女もできて、初めてのマリファナも経験して(笑)、私は本当に楽しく幸せな毎日を送っていました。

ただ、当時私が働いていたサロン(Sサロンと呼ぶことにする)では、明らかにみんなクィアに対しての偏見があることに気づきました。(クィアとは、LGBTQA+を含むセクシュアルマイノリティの総称)お洒落なアーティストやクィアだったときは裏で「あんなお洒落なのに、もったいないね」と言っていたり、女性のお客さんがトランスジェンダーのパートナーを連れて来た時(そのパートナーは生まれた性別は女性で、でも見た目は結構マッチョな男性らしい格好をしていた)「え、男?女?ありえないんだけど」という発言をしていて、私はもうビックリしてしまいました。

その時「あぁ、この人たちには絶対カミングアウトしたくない!」と心に決めたのを覚えています。

しかし、ある時まさかのカミングアウトを強要される事件が起きたのです。

その時付き合っていたガールフレンドと道端でキスしているのを見られ、そのことを責められることに。最終的にはそれに対するミーティングが開かれ、なぜか全員にカミングアウトしなければいけないという事態に。

彼らはこう言いました。「そういうのを黙っておくのよくないと思う。」
私はどうして個人のセクシャリティに対するカミングアウトを、職場で強要されなくてはいけないのだろう?と不思議に思い始めた。

私は私であることは変わらないのに。

そこから偏見と差別が始まり、社員旅行では男性スタッフと同じホテルルームに泊まれと言われたり、スカートを履けとか、メイクをしろとか、女らしくしろと言われるようになりました。

(男性の先輩にブラジャーしろと言われた時は驚きました。まぁ、私は当時からノーブラがお洒落と思っていたので、そんなダサいことできない!と聞きませんでしたが。笑)

そんな偏見と差別が続き、私は仕事に対する情熱が無くなっていってしまいました。

このままこのサロンいいたら、美容が嫌いになってしまう。そこで私は退職を決意するのだけど、ビザの問題もあって新しい就職先が決まるまではなかなか踏み出せませんでした。しかし、一度決めたら絶対に後には戻らないのが私で、決めた次の日に100枚以上の履歴書をニューヨーク中のヘアサロンに送りつけました。

「私はニューヨーク中のお洒落な子達の髪を切っている日本人美容師です。ビザのスポンサーになってください。」とメッセージ添えて。

その時はすでにニューヨークに来て3年、アーティストやミュージシャンやクィアな友達が周りにたくさんいた。私がどこのサロンで働いても、彼らが私に髪を切ってもらいたいに違いないという自信があ理ました。

そのころには流行りや人と同じものを作ることには興味がなく、私らしいスタイルを確立していました。美容師として、私は絶対唯一無二の存在だと信じていたし、私がやることは誰にも真似できないと思っていました。

イーストビレッジにお店を構えていたASSORT NEW YORKの社長、小林Kenから連絡がきて間も無く私は転職先を見つけることとなった。ニューヨークに残れるならどこでもいいと思っていたのに、まさかこの出会いがこの一年後に、VACANCY PROJECTが生まれるきっかけになるとは想像していませんでした。

小林Kenは見た目は日本人だけど、テキサス生まれのアメリカ人で、むしろ白人だらけの間でマイノリティとして育った人でした。そこから日本へ移住して、世界の色んなサロンを展開しているのだら、その時点でマイノリティにはかなり理解があるひとでした。

ちょっと私がアメリカに渡った時のストーリーを思い出したのもあって、お互いにとても親近感が湧き、何より私がクィアなことも含めて、私の作るスタイルをお洒落だと太鼓判を押してくれて、私は新しい就職先を見つけることができました。

まったく円満退社とは言えない形でSサロンを退職し、私はヘアスタイリストして小林Kenの元でデビューしたのです。

つづく。


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