見出し画像

息子の「大人化」を防ぐために

最近、幼馴染の奥さんが妊娠した。
おめでたいニュースに何度目かの乾杯をしながら、妊娠中や産後の女性に対してどんな心がけをすればいいかなどを話した。

彼はふと「君は妊娠中、本当に一言も弱音を吐かなかったよな」と言った。
そこで、我ながら衝撃を受けた。十月十日あったはずなのに当時の記憶がものすごく曖昧なのだ。

たぶん、苦しさやつらさを心の奥の一番深いところにしまって、毎日を生きていたからだと思う。

妊娠して、彼とうまくいかなくなって。結婚して幸せな家庭を築くのを本当に楽しみにしていたのに、存在そのものを拒否された。
寂しさと、悲しみと、憎しみと、愛と、諦めと執着が頭の中でぐちゃぐちゃになって、暗黙の期待が変な方向にものごとを進めた。

それを人は「未熟さ」と呼ぶのかもしれない。
でも、私はどこかでこの「未熟さ」のもつ可能性に光を見ていたように思う。実際に、妊娠・出産・育児という予測ができない状態、大げさにいえばカオスに陥ったことで、私はそれまでの常識や思い込みを改めて見直すことになった。

多くのセオリーが示しているように、混乱から逃れようとするほどに現実は思い通りに進まなくなった。
現実を見ないようにしようとしても目の前には我が子がいて、いつも大きな瞳でこちらを見ていた。

息子と向き合うために、私はまず自分を立て直す……いや、育て直す必要があった。平たく言えば、アダルトチルドレンと向き合うという話だ。私は幸せな幼少期を過ごしてきたという自覚があるけれど、それでもいろんなものを抱えながら生きていて、自分について考えることは楽ではない道のりだった。
気が遠くなるほどの眠れない夜を経て、今ここに立っている。息子が生まれて4年半が経ったけど、自分を育て直せたかどうかは、わからない。なんとなく、やっとスタートラインに立てたような、それくらいの感覚だ。

・ ・ ・

さて、今の私の一番の関心ごとは、「いかに息子を『息子』たらしめるか」である。
全てのシングル家庭がそうであるとは言わないが、機能不全家庭を始めとして、支えを必要とする親のこどもは無意識のうちに「大人化」する。
大人になるのではない。大人に化けるのだ。

私自身がそうだった。自分の人生だけでなく、親の人生にまで責任を背負おうとしていたし、そうできると信じていた。

そういう子は優しい。親が欲しい言葉をピンポイントで与えようとする。まるで無邪気になぞなぞに答えるみたいに。
時には「子供らしさ」さえも、親を癒すための道具として使うようになる。親の笑顔が「正解!」の代わりになり、そのためには何をしてもいいとすら思う。自分や周囲に嘘をつくことさえ厭わなくなる。

私は決して、息子にそんな役回りを担わせたくない。でも、そうした片鱗はすでにいろんなところから見て取れて、たまに胸が苦しくなる。

息子の大きな瞳は生まれたばかりの頃よりももっと優しげになり、長くて柔らかなまつげをみていると「これ以上に美しいものは世界を探してもないだろう」と本気で思う。

息子は私が泣き虫だと知っている。絵本を読んでは泣き、ピクサーの映画を見ても泣く。となりのトトロに至ってはオープニングを見ただけで、メイや五月の置かれた環境を想像して泣く。そういうときいつも、「泣いていいんだよ」と言ってくれて、それがまた泣ける。

息子は私が不完全だと知っている。息子の些細ないたずらやグズグズに、どうしても自分を律することができずに強い口調で非難してしまう時、しばらくすると私に抱きついてくる。「やさしい声で言えばよかった。こわかったよね。ごめんね」というと「やさしいママも、そうじゃないママも大好き」と言ってくれて、私は号泣する。


これから先、彼はいろんなことで傷つくだろう。
「誰にでも優しくするなんて馬鹿げてる」と思う日が来るかもしれない。
私にも、言いたいことが色々と出て来るだろう。
でもそれでもなお、私に対してはきっと優しい子でい続けてくれるような気がする。

・ ・ ・

正直、心の奥にある寂しさはまだ消えない。

でもそれを、息子で癒そうとしてはいけない。

もう気づいている。この寂しさは自分で満たすしかないということを。家族や親しい知人でさえ、あるいはパートナーでさえも満たすことはできない。

もう少しだけこの寂しさに浸ったら、日常に戻ろう。筋トレして、温めたお味噌汁を飲んで、少しだけパワーを充電したら息子を起こしにいこう。


今日もたくさん話を聞いて、歌をいっぱい歌おう。面倒だけど、かいじゅうごっこにも付き合おう。

息子は、まだ、大人になるには早すぎる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?