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古事記の世界<中>

(18)神武東征

神武東征

・兄五瀬命と共に日向の国で国を治めていた神倭伊波礼毘古命(のちの神武天皇)だが、ある日「この土地は端っこの方にあるので、もう少し東の方へ行ったならどうだろうか」と相談していた。
・相談が整って二柱は早速筑紫の国に向かった。その途中の豊国の宇佐で「宇沙都比古(うさつひこ)」「宇沙都比売(うさつひめ)」という土地の兄妹に出会った。兄妹は足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を造営して御子たちにご馳走を振舞った。
・その後筑紫の岡田の宮に1年ほどいた。
・そして安芸の国の多祁里(たけり)の宮に7年、吉備の高島の宮に8年ほどいた。
・それらの途中であるが、速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で、亀の甲に乗って釣りをしながら進んでくる人に会った。名を尋ねると地元の神で名を「宇豆毘古(うづひこ)」という。道を知ってそうなので仕えないかと誘ったところ、「お仕えします」というので、竿を差し出して船に引き入れ、「槁根津日子(さをねつひこ)」という名を与えた。
・そして波速の渡りを過ぎて白肩(大阪府枚方市?)の港に停泊した。しかし、そこでは登美に住む「那賀須泥毘古(ながすねびこ)」、別名「登美毘古(とみびこ)」の軍が一行を待ち受けていた。一行は楯を取り地上に降りて防戦した(なのでこの辺りを楯津又は日下の蓼津という)。しかし、登美毘古の放った矢が五瀬命の手に突き刺さった。その時五瀬命は「日の神の御子の私が敵を太陽の方において戦うのはよくない。今から迂回して太陽を背にして戦うようにしよう」と言って南へ向かった。後の和泉灘である血沼の海(大阪湾のこと)で傷を受けた手を洗った。しかし状態は悪化し、紀国の男之水門(おのみなと)でついに「あんな奴の為に手に傷を負って死ななければならないのか」と雄叫びを残して息絶えた。そして竈山に埋葬された。兄を失った神倭伊波礼毘古命は悲しむ暇もなく南下し続け、熊野にたどり着いた。

竈山神社

・熊野に着いた一行の前にチラッとが姿を見せた。このは霊力を持っていて、その毒気に触れた神倭伊波礼毘古命も彼の軍隊も正気を失って失神した。この危急の時に「高倉下(たかくらじ)」というものが、一振りの剣をもってきた。それを献上すると御子たちは息を吹き返した。そしてその剣を手にしただけで熊野山の荒ぶる神々は切り倒されてしまった。
神倭伊波礼毘古命がその剣の由緒を尋ねると高倉下が言うには、「夢の中に天照大神高木神が現れ武御雷之男神をここに派遣しようとされていたところ、武御雷之男神は『以前に国つ神を平定させた実績のある剣があるので代わりにそれを降ろしましょう』と言って、私(高倉下)が住む倉の棟に穴を空けて落とし入れてきたのです。そして武御雷之男神は私に朝になって目覚めたら天神の御子に献上するよう言いました。」
・この剣は今は石上神宮にあって「佐士布都神(さしふつのかみ)」とも「甕布都神(みかふつのかみ)」とも「布都御魂(ふつのみたま)」ともいう。
・そして次に神倭伊波礼毘古命の夢に高木神が現れ、「この先は荒ぶる神が多いので深入りしないよう。「八咫烏(やたがらす)」を道案内に遣わすので、その後を追って進むように」言った。
・しばらくして吉野川の上流に進むと、何人かの国つ神に出会った。
1)「贄持之子(にえもつのこ)」→吉野川の漁師で、阿陀の鵜養の部の祖先
2)「氷鹿(ひか)」→尻尾がある。吉野の首などの祖先。
3)「石押分之子(いはおしわくのこ)」→尻尾がある。吉野の国巣(くず:原住民)の祖先。
・その後、ようやく宇陀に着いた。道を穿って進んだので、この辺りを宇陀の穿(うがち)という。この宇陀には「兄宇迦斯(えうかし)」「弟宇迦斯(おとうかし)」という兄弟がいた。八咫烏を使いに出して2人が仕えるかどうかを聞かせた。兄は鏑矢を手にし、それを放って八咫烏を追い返してしまった。その鏑矢が落ちた場所を訶夫羅前(かぶらざき)という。兄宇迦斯は迎え撃とうとしたが味方が少ないので急遽お仕えしますと嘘をついて、大きな御殿を建て、そこに罠を仕掛けて神倭伊波礼毘古命を迎えようとした。しかし弟宇迦斯の密告でその企みを知られてしまい、逆に神倭伊波礼毘古命側の「道臣命(みちのおみのみこと)」と「大久米命(おおくめのみこと)」に追い詰められて、自ら罠にかかって死んでしまった。死骸は切り刻まれて辺りは血の海となり、この土地を宇陀の血原と呼ぶ。弟は帰順したが、宇陀の水部(もひとり)の祖先である。

宇陀市付近の事跡

・次に忍坂(おさか)の大室(大和朝倉の南)に到着した。ここには獰猛な土蜘蛛と呼ばれる賊の80人ほどが穴蔵に住んでいて待ち構えていた。そこで一計を案じ、80人にご馳走をすると言い、1人1人に刀を隠し持った膳部の係を設けて、歌の合図で一斉に斬りかかった。そして最後に五瀬命の死の原因となった那賀須泥毘古を打ち果たした。
・その後「兄師木(えしき)」「弟師木(おとしき)」という兄弟を攻めたが、連戦の疲れからか戦況は不利で、神倭伊波礼毘古命は助けを求める歌を詠んだ。その時「邇芸速日命(ひぎはやびのみこと)」が陣中に参上し、自分も天神に末裔であることを示す証拠を献上して神倭伊波礼毘古命に仕えた。この邇芸速日命那賀須泥毘古の妹の「登美夜毘売(とみやびめ)」を妻として生んだ子が「宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)」で、物部連、穂積臣、婇(うねべ)臣の祖先である。
・このように敵対する神々を撃退した神倭伊波礼毘古命は、畝火の橿原に宮殿を作り天下を治めた。(※これ以降、神武天皇(1)と表記します)

神武~綏靖天皇

(19)富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすぎひめのみこと)の話

神武天皇(1)には「阿比良比売(あひらひめ)」という妻がいて、その妻との間に「多芸志美美命(たぎしみみのみこと)」と「岐須美美命(きすみみのみこと)」という2人の御子がいた。この阿比良比売は単に后であって、神武天皇(1)は自分の大后(=皇后)に相応しい美女を探していた。
大久米命によれば、この大和の国には神の御子と称せられる乙女がいるとのこと。その話とは以下の通り。
三島湟咋(みしまのみぞくひ)」娘に「勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)」という美しい乙女がいた。三輪の大物主命が彼女を気に入り、乙女がトイレに入った時を狙って、丹塗矢に変身して、そのトイレの水が流れる溝に流れて、乙女の陰部を突きたてた。驚いた乙女はその矢を抜いて寝床に置くと、たちまち美男子(=大物主神)が現れた。その美男子はその乙女を妻として「富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすぎひめのみこと)」が生まれた。富登(=陰処:ホト)という名前を嫌って、後に「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」と改めたとか。

(20)比売多多良伊須気余理比売を大后にする

神武天皇(1)大久米命と連れて歩いているうちに7人の乙女たちに出会った。その中に比売多多良伊須気余理比売がいた。大久米命を介して歌を交換しあい、比売多多良伊須気余理比売は大后になることを承諾した。そして神武天皇(1)比売多多良伊須気余理比売の狭井河にある実家に通い一夜を共にした。
・こうして2人の間には3柱の御子が生まれた。
1)「日子八井命(ひこやいのみこと)」
2)「神子八井命(かむやいのみこと)」
3)「神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)」→後の綏靖天皇(2)

(21)多芸志美美命による3柱御子暗殺計画と綏靖天皇((2)

神武天皇(1)の崩御後、残された大后を多芸志美美命が妻とした。しかし、それは大后の3柱の御子を暗殺して、自らが皇位を奪おうとする計画の一環だった。それを知った大后は悲しみ、歌を詠んで3柱の御子たちに知らせようとした。

「狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす」
(狭井河あたりからみるみるうちに雲が湧き、畝火山では木の葉が音を立てている。激しい風がまさに吹こうとしている)

「畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉のさやげる」
(畝火山は昼は雲が群がり、夕方には風が吹きそうだ。木の葉が音を立てて揺れている)

3柱の御子はこの歌の含意に気づいて驚いた。そこで神沼河耳命が兄の神八井耳命に言った。「兄上よ、武器を持って多芸志美美命を殺してください。」 兄は武器を持ち入って殺そうとした時、手足が震えて 殺すことができなかった。そこで弟の神沼河耳命が、その兄の持っている武器をもらい受けて多芸志美美命を殺した。その武勇を称えて建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)とも言った。従って神八井耳命は、弟の建沼河耳命に皇位を譲って言った。「私は仇を殺すことができなかったがお前できた。 私は兄といえども君主となるべきではない。従って今後はお前が君主となって天下を治めなさい。私はお前を助けて、神事を司る忌人(いわいびと)となって仕えよう。」こうして神沼河耳命が天下を治めるようになった。

■御子たちの父である神武天皇はその年137歳で崩御。御陵は畝火山の北、白檮(かし)の気に生い茂った山裾のほとりにある。

神武天皇陵

(22)綏靖天皇(2)

この辺りから一旦やや速足になります。

綏靖天皇(2)は葛城の高岡(御所市)に宮殿を作り天下を治めた。
■この天皇は師木の県主の祖先である「河俣毘売(かはまたびめ)」を妻として生ませた御子は、「師木津日子玉手見命(しきつひこたまでみのみこと)で、これが安寧天皇(3)である。
■この天皇は45歳で崩御。御陵は衝田(つきだ)の岡にある。

綏靖天皇関連

(23)安寧天皇(3)

安寧天皇(3)は片塩の浮穴(大和高田市)に宮殿を作り天下を治めた。
■この天皇は「阿久斗比売(あくとひめ)」を妻として3人の御子を生ませた。
1)「常根津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねのみこと)」
2)「大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと)→後の懿徳天皇(4)」
3)「師木津日子命(しきつひこのみこと)」
師木津日子命には2人の子があった。1人は各稲置(伊賀の須知、那婆理、三野)の祖先で、もう1人は「知知津美命(ちちつみのみこと)」で、淡路の御井に宮殿を作って2人の姫がいた。この2姫は後の孝霊天皇の妻になる。
1)<姉>「蠅伊呂泥(はへいろね)」又は「意富夜麻登久邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)」
2)<妹>「蠅伊呂杼(はへいろど)」

■この天皇は49歳で崩御。御陵は畝火山の陰処に当たる場所にある。

安寧天皇関連

<挿入:古事記 0213 地図 安寧天皇.jpg>


(24)懿徳天皇(4)

懿徳天皇(4)は軽の境岡(橿原市白橿町)に宮殿を作って天下を治めた。
■この天皇は師木の県主の祖先である「賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)」、別名を「飯日比売命(いいびひめのみこと)」を妻として生ませた御子は2柱。
1)「御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)」→後の孝昭天皇(5)
2)「多芸志比古命(たぎしひこのみこと)」→(和泉の古称)血沼の別、多遅麻の竹の別、葦井の稲置の祖先

■この天皇は45歳で崩御。御陵は畝火山の真名子谷の上にある。

懿徳天皇関連

(25)孝昭天皇(5)

孝昭天皇(5)は葛城の掖上(御所市)に宮殿を作って天下を治めた。

■この天皇が「余曾多本毘売命(よそたほんびめのみこと)」を妻として生ませた御子は
1)「天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと)」
2)「大倭帯日子国押人命(おほやまとたらしひこくにおしびとのみこと)」→後の孝安天皇(6)
天押帯日子命は以下の臣の祖先である。
→春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比葦臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪(むさ)臣、都怒山臣、伊勢飯高の君、壱師の君、近淡海(ちかつおうみ)の国造

■この天皇は93歳で崩御。御陵は掖上の博多の山の上。

孝昭天皇関連

(26)孝安天皇(6)

孝安天皇(6)は葛城の室に秋津島の宮(御所市)を作って天下を治めた。
■この天皇は姪にあたる「忍鹿比売命(あしかひめのみこと)」を妻として生ませた御子は、
1)「大吉備諸進命(おおきびもろすすみのみこと)」
2)「大倭根子日子賦斗邇命(おほやまとねこひこふとにのみこと)」→後の孝霊天皇(7)

■この天皇は123歳で崩御。御陵は玉手の岡の上にある。

孝安天皇関連

(27)孝霊天皇(7)

だんだん系図が複雑になってきます。また人なのか神なのかもわからなくなってきますが、日本では人と神は連続的・無媒介的につながっているということなのでしょう。キリスト教では人は神が自分に似せて作ったものなので、人と神の関係はコーヒーカップと製作者(陶工)によく例えられます。
「カップは自分に取手がないと言って陶工に文句は言えないし、陶工はカップが気に入らなければ(カップの意志とは関係なく)投げつけて割ってしまう」
日本の神様はそんなことはしません。だって自分と一体なんだから。

孝霊~孝元天皇と建内宿禰

孝霊天皇(7)に庵戸の宮(奈良県田原本町)を作って天下を治めた。
■この天皇がそれぞれの妻に生ませた御子は以下の通り。
・十市の県主の祖先である大目の娘の「細比売命 (くはしひめのみこと)」に生ませた御子
1)「大倭根子日子国玖琉命(おほやまとねこひこくにくるみのみこと)」→後の孝元天皇

・春日の「千千速真若比売(ちぢはやまわかひめ)」に生ませた御子
2)「千千速比売命 (ちぢはやひめのみこと)」

・意富夜麻登久邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)(=以前出てきた蠅伊呂泥です)に生ませた御子
3)「夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)」
4)「日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)」→高志の利波臣、豊国の国東臣、五百原の君、角鹿の海部の直の祖先
5)「日子伊佐佐勢理毘古命(ひこいささせりびこのみこと)」、別名を「大吉備津日子神(おほきびつひこのかみ)」→吉備国を平定し、吉備の上道(かむつみち)臣の祖先
6)「倭飛羽矢若屋比売(わまととびはやわかやひめ)」

・蠅伊呂杼に生ませた御子は
7)「日子寤間命(ひこさめまのみこと)」→針間(=播磨)の牛鹿臣の祖先
8)「若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)」→吉備の下道(しもつみち)臣、笠臣の祖先

この天皇は106歳で崩御。御陵は片岡の馬坂(奈良県王寺町)の上にある。

孝霊天皇関連

(28)孝元天皇(8)

孝元天皇(8)は軽に堺原の宮(奈良県橿原市)を作って天下を治めた。
■この天皇の御子は以下の通り。
・穂積の臣などの祖先である「内色許男命(うつしこをのみこと)」の妹の「内色許売命(うつしこめのみこと)」に生ませた御子は
1)「大毘古命 (おほびこのみこと)」→後の四道将軍:北陸道
2)「少名日子建猪心命(すくなひこたけゐごころのみこと)」
3)「若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)」→後の開化天皇
 
・内色許男命の娘である「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」に生ませた御子は
4)「比古布都押之信命 (ひこふつおしのまことのみこと)」

・河内の「青玉(あおたま)」の娘である「波邇夜須毘売(はにやすびめ)」に生ませた御子は
5)「建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)」

大毘古命の子はそれぞれ、
6)「建沼河別命(たけぬなかはわけのみこと)」→後の四道将軍:東海道、安倍の臣の祖先
7)「比古伊那許志別命(ひこいなこしわけのみこと)」→→膳(かしわで)の臣の祖先

比古布都押之信命が、
・「意富那毘(おほなび)」の妹である「葛城高千那毘売(かつらぎたかちなびめ)」に生ませた子は、
8)「味師内宿禰 (うましうちのすくね)」

宇豆比古(うづひこ)」の妹である「山下影日売(やましたかげひめ)」に生ませた子は、
9)「建内宿禰(たけのうちのすくね)」

建内宿禰には9人の子がいて、
10)波多八代宿禰(はたのやしろののすくね)
11)許勢小柄宿禰(こせをからのすくね)
12)蘇賀石河宿禰(そがのいしかはのすくね)
13)平群都久宿禰 (へぐりつくのすくね)
14)木角宿禰(きのつぬのすくね)
15)久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
16)怒能伊呂比売(ぬのいろにめ)
17)曾都毘古(そとびこ)
18)若子宿禰 (わかごのすくね)
それぞれの子が誰の祖先かについては系図を参照下さい。(小さいですが)

■この天皇は57歳で崩御。御陵は剣池の中岡(奈良県橿原市)の上にある。

孝元天皇関連

(28)開化天皇(9)

だんだん系図もややこしくなってきました。今回も親子関係の説明が中心ですが、開化天皇というよりは、その御子の日子坐王(ひこいますのみこ)に焦点が当たっています。この日子坐王は事績は少ないですが、子や子孫はいろいろと載って来ます。またこの御子から神功皇后までの系譜も紹介されてます。
そして「御真津比売命(ひこいなこしわけのみこと)」という名前で別人が2人出てきます。1人は開化天皇(9)の娘で崇神天皇(10)の妹。もう1人は開化天皇(9)の姪大毘古命の娘)で、こちらは崇神天皇(10)の后になります。ちょっとややこしいですね。

開化天皇

開化天皇(9)は春日の伊邪河(いざかわ:奈良県奈良市)に宮殿を作ってそこで天下を治めた。
■この天皇の御子は以下の通り。
・旦波(=丹波)の大県主である「由碁理(ゆごり)」の娘である「竹野比売(たかのひめ)」を妻として生ませた子は、
1) 「比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」
この御子には「大筒木垂根王(おほつつきたりねのみこ)」と「讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)」という2人の御子がいて、さらにこの2人には(合わせて)5人の娘があった。

・継母である「伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)」を妻として生ませた子は、
2) 「御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)」→後の崇神天皇(10)
3) 「御真津比売命②(みまつひめのみこと)」

・丸邇臣の祖先である「日子国意祁都命(ひこくにおけつのみこと)」の妹である「意祁都比売命(おけつひめのみこと)」を妻として生ませた子は、
4) 「日子坐王(ひこいますのみこ)」

垂見宿禰の娘である鸇比売(わしひめ)を妻として生ませた子は、
5) 「建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこと)」

日子坐王が、
・「荏名都比売(えなつひめ)」別名「苅幡戸弁(かりばたとべ)」を妻として生ませた子は、
1)「大俣王(おほまたのみこ)」
この御子には「曙立王(あけたつのみこ)」「菟上王(うなかみのみこ)」の2人の御子がいる。
2)「小俣王(をまたのみこ)」
3)「志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ)」

・春日の建国勝戸売の娘の「沙本之大闇見戸売(さほのおほくらみとめ)」を妻として生ませた子は、
4)「沙本毘古王(さほびこのみこ)」
5)「袁邪本王(をざほのみこ)」
6)「沙本毘売命(さほひめのみこと)」別名「佐波遅比売(さはぢひめ)」→後に垂仁天皇(11)の后
7)「室毘古王(むろびこのみこ)」

天之御影神の娘である「息長水依比売(おきながみずよりひめ)」を妻として生ませた子は、
8)「比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)」
9)「水穂之真若王(みずほのまわかのみこ)」
10)「神大根王(かむおほねのみこ)」別名「八瓜入日子王(やつりいりひこのみこ)」
11)「水穂五百依比売(みずほのいほよりひめ)」
12)「御井津比売(みいつひめ)」

・母君の妹にあたる「袁祁都比売命(をけつひめのみこと)(※)」を妻として生ませた子は、
13)「大筒木真若王(おほつつきまわかのみこと)」
14)「比古意須王(ひこおすのみこと)」
15)「伊理泥王(いりねのみこと)」

※この姉妹は名前がよく似ているので要注意。姉は『意』祁都比売命(おけつひめのみこと)で、妹は『袁』祁都比売命(をけつひめのみこと)。

比古多多須美知能宇斯王が「摩須郎女(ますのいらつめ)」を妻として生ませた子は、
1)「比婆須比売命(ひばすひめのみこと)」→後に垂仁天皇(11)の后
2)「真砥野比売命(まとのひめのみこと)」
3)「弟比売命(おとひめのみこと)」→後に垂仁天皇(11)の后
4)「朝廷別王(みかどわけのみこ)」

日子坐王から神功皇后への系図(これについては系図を参照ください)

■この天皇は63歳で崩御。御陵は伊邪河の坂の上にある。

開化天皇陵

(29)崇神天皇(10)

崇神天皇

崇神天皇(10)は師木に水垣宮(奈良県桜井市)を作って天下を治めた。
■この天皇の御子は以下の通り。
・「荒河刀弁(あらかはとべ)」の娘である「遠津年魚目目微比売(とほつのあゆめめくはしひめ)」を妻として、
1)「豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)」→上毛野(かみつけの)の君、下毛野(しもつけの)の君などの祖先。
2)「豊鉏入日売命(とよきいりひめのみこと)」→伊勢大神宮に仕えた

・尾張の連の祖先である「意富阿麻比売(おほあまひめ)」を妻として
3)「大入杵命 (おほいりきのみこと)」→能登臣の祖先
4)「八坂之入日子命(やさかのいりひこのみこと)」
5)「沼名木之入日売命(ぬなきのいりひめのみこと)」
6)「十市之入日売命 (とをちのいりひめのみこと)」

・大毘古命の娘である「御真津比売命(みまつひめのみこと)」を妻として、
7)「伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりひこいさちのみこと)」→後の垂仁天皇
8)「伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)」
9)「国方比売命(くにかたひめのみこと)」
10)「千千都久和比売命(ちぢつくやまとひめのみこと)」
11)「伊賀比売命(いがひめのみこと)」
12)「倭日子命(やまとひこのみこと)」→初めて墳に人を埋めて人垣を作った

■疫病の流行と意富多多泥古(おほたたねこ)

・この天皇の時代に人民が死に絶えてしまうほどの疫病が流行った。嘆き悲しむ天皇の夢の中に大物主神が現れ「この悪い病気を流行らせたのは私だ。「意富多多泥古(おほたたねこ)」に命じて自分を祀らせれば国は元に戻る」という。
・夢から覚めると、天皇はさっそく意富多多泥古を探させた。和泉の国の茅努(ちの)である美努(みの)村(大阪府八尾市)で発見され、天皇の下に連れてきた。崇神天皇は「お前は誰の子かと問うと、大物主神の子孫だと答える。崇神天皇は喜び、さっそく意富多多泥古を神主として御諸山(=三輪山)に意富美和之大神を祀った。そして、「伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)」祭祀用の器を80個作らせ、宇陀の「墨坂神(すみさかのかみ)」に赤色の楯矛を供えて、「大坂神(おほさかのかみ)」に黒色の楯矛を供えて、坂の上や河の瀬にいる神々にまで一柱も漏れなく幣帛を供えて祀ったおかげで国中は穏やかになった。

意富多多泥古の系図

■四道将軍
・まだ朝廷の威風の及ばない地があり、そこに将軍を派遣することが行われた。
1)大毘古命→北陸道の高志道に
2)建沼河別命→東海道
3)日子坐王→丹波国で玖賀耳之御笠(くがみにのみかさ)を殺した
4)大吉備津日子神(この将軍だけは、以前の孝霊天皇の時代)→吉備国を平定した。

崇神天皇(10)暗殺計画と樟葉他の地名の由来
大毘古命は道中で裳を付けた少女と出会う。少女は気になる歌を歌っていた。それは崇神天皇(10)が狙われていることを暗示しているかのようだった。大毘古命がどんな意味なのかと尋ねると少女は「私はただ歌っているだけです」と言って姿を消してしまった。
・都へ戻って崇神天皇(10)に報告すると、天皇は「それはきっと建波邇夜須毘古が叛逆を考えているということだろう」と言った。そこで大毘古命は「日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)」を副将として派遣した。
・後の木津川である和訶羅(わから)河で対決した。日子国夫玖命が放った矢は見事に建波邇夜須毘古に命中し、建波邇夜須毘古は死んだ。そうなれば敵軍は総崩れになり、後の葛葉である久須婆まで敵を追い詰めた。
・敵は苦しさのあまり屎(くそ)を垂れ、その屎が褌(はかま)にかかったため、この地を屎褌(くそばかま)と言った。今は久須婆と言っている。
・敗走する敵を遮って切り倒したところ、まるで鵜のように川に浮かんだのでこの河を鵜河(木津川と淀川の交点付近)と呼ぶ。
・また敵兵を斬り屠ったので、その辺りを派布理曾能(祝園@京都府精華町)と呼ぶ。

■所知初国之御真木天皇(はつくにしらししまきのすめらみこと)
・その後大毘古命は予定通り高志国へ出発した。その途中で東から来た建沼河別命と往き会ったところを相津(=会津)と呼ぶ。
・そして国中に平和が戻り、男には狩猟の獲物を納めさせる弓端之調(ゆはずのみつぎ)を、女には手で作った織物を納めさせる手末之調(たなすえのみつぎ)を始めた。
・この天皇の御世を称えて「所知初国之御真木天皇(はつくにしらししまきのすめらみこと)」と呼ぶ。
・また崇神天皇(10)は農業用の池として依網の池を作り、軽の酒折の池(奈良県橿原市)を作った。

■崇神天皇(10)は168歳で崩御。御陵は山辺道の勾(まがり)の丘の上にある。

崇神天皇関連

(30)垂仁天皇(11)

天皇にまつわるエピソードが増えてきて、またペースダウンしています。垂仁天皇(11)の后として「迦具屋比売命(かぐやひめのみこと)」が登場します。もちろん月に帰ったりはしないようですが。

■垂仁天皇(11)は師木に玉垣の宮(奈良県桜井市穴師)を作って天下を治めた。
■この天皇も御子が多いので、系図を参照下さい。

垂仁天皇系図

・「沙本毘古王(さはぢひめのみこと)」の妹である「佐波遅比売命(さはぢひめのみこと)」、別名「沙本比売(さほびめ)」を妻として
1)「品牟都和気命(ほむつわけのみこと)」、別名「本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)

・「比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこと)の娘である「氷羽州比売命(ひばすひめのみこと)」を妻として、
2)「印色之入日子命(いにしきのいりひこのみこと)」→池(血沼、狭山、高津)を作り、石上神宮に剣を納めた。
3)「大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと)」→後の景行天皇
4)「大中津日子命(おほなかつひこのみこと)」→山辺別、三枝別、稲木別、阿太別、三野別、石无(いわなし)別、許呂母(ころも)別、高巣鹿別、飛鳥の君、牟礼別の祖先
5)「倭比売命(やまとひめのみこと)」→伊勢大神宮に仕えた。
6)「若木入日子命(わかきいりひこのみこと)」

・氷羽州比売命の妹である「沼羽田之入毘売命(ぬばたのいりびめのみこと)」を妻として、
7)「沼帯別命(ぬたらしわけのみこと)」
8)「伊賀帯日子命(いがたらしひこのみこと)」

沼羽田之入毘売命の妹である「阿邪美能伊理毘売命(あざみにいりびめのみこと)」を妻として、
9)「伊許婆夜和気命(いこばやわけのみこと)」→佐保の穴太部(あなほべ)別の祖先
10)「阿邪美都比売命(あざみつひめのみこと)」→稲瀬毘古王の妻となる

・大筒木垂根王(おほつつきたりねのみこ)の娘である「迦具屋比売命(かぐやひめのみこと)」を妻として、
11)袁邪弁王(をざべのみこ)

・「大国之淵(オホクニノフチ)の娘である「苅羽田刀弁(かりばたとべ)」を妻として、
12)「落別王(おちわけのみこ)」→小月の山の君、三川の衣の君の祖先
13)「五十日帯日子王(いかたらしひこのみこ)」→春日の山の君、高志の池の君、春日部の君の祖先
14)「伊登志別王(いとしわけのみこ)」→子がなかったので伊登志別を制定した

・同じく大国之淵の娘である「弟苅羽田刀弁(おとかりばたとべ)」を妻として、
15)石衝別王(いはつくわけのみこ)→羽咋の君、三尾の君の祖先
16)石衝毘売命(いはつくびめのみこ)、又は「布多遅能伊理毘売命(ふたぢいりびめのみこと)」→後に倭建命の妻となる

■佐保姫の死

垂仁天皇(11)が深く愛していた沙本比売だが、ある日、兄である沙本毘古王から「夫と兄はどちらが大事か」と聞かれ「兄です」と言ってしまった。ならばと兄は妹に垂仁天皇暗殺計画を打ち明け協力させようとした。垂仁天皇(11)沙本比売の膝枕で寝所でうたた寝をしている最中に短剣で刺し殺そうと構えたが、どうしてもすることができず、その時に流した涙で天皇を起こしてしまった。
・天皇は錦色した小さな蛇が首に不思議な夢をみたものだと語ったが、もはや隠し通すことが出来ないと観念した沙本比売はすべてを打ち明けた。垂仁天皇(11)は驚いて、早速兄の沙本毘古王を滅ぼすべく攻めていった。兄の苦戦を見ながら、心苦しくなった沙本比売は兄のこもる稲城へ自ら身を投げた。
沙本比売が身重であったこともあり、垂仁天皇(11)は攻撃を手控えさせた。やがて御子が生まれると沙本比売は天皇に向かって「この御子をご自身の御子と思って戴けるなら、この御子を引き取ってお育て下さい。」天皇は兄は憎いが妹の后を不憫に思い、御子を受け取る時に母の后の髪か腕でも掴んで連れてくるように命じた。
・一方、沙本比売はそうなることを承知していて、鬘をかぶったり手に玉の緒を3重に巻いたりして準備していた。それを知らない兵たちは御子を受け取ったと同時に髪や腕を引っ張ったがするりと抜けてしまい、后を連れ帰ることに失敗した。顛末を聞いた垂仁天皇(11)は残念に思い、后の為に玉を作った連中の土地をすべて没収した。そこで諺で「地(ところ)得ぬ玉作り」(褒美の代わりに罰が当たった)と言うのである。
・天皇は后に「子供の名前は母親が付けるものだが何とする」と尋ねると「炎の中で生まれたのですから『本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)』がよろしいでしょう。」次に天皇は「どのように育てればいいだろうか」と問うと、后は「乳母を付けましょう。また御子に湯浴みをさせるための湯坐の女に正副を定めてそれぞれに「大湯坐(おおゆえ)」「若湯坐(わかゆえ)」と名付けて養育されればいいでしょう」と答えた。そして最後に「下紐をお互いに自分では解かないことをお前と約束したが、今後は誰に下紐を解いてもらえればいいのか」と尋ねると、后は「比古多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)の娘たちはいずれも心が清らかなので、その者たちを召し抱えてください。」
・話のネタも尽きてしまい、天皇の軍隊は沙本毘古王に攻撃をかけて沙本毘古王を殺した。妹の后も、兄に従って炎に身を投じて自害した。

■物言わぬ御子(品牟都和気命)

垂仁天皇(11)沙本比売の忘れ形見をかわいがっていた。しかしこの御子は成人になっても一言も言葉を発することが出来なかった。その為天皇はずいぶん心配していた。
・ある日、大空を鶴が鳴き渡っていくのを見て、御子は初めて言葉らしいものをつぶやいた。垂仁天皇は「山辺の大鶴(おほたか)」に、その鶴を捕まえに行かせた。やっとのことで捕まえて御子に見せてみたが、期待に反して、御子がモノを言うことはなかった。
・また別の日、天皇の夢の中で一柱の神が現れ「私の神殿を立派にすれば御子は口をきくようになる」と告げた。そしてどの神の言葉かを探るため、太占の占いを行ったところ、出雲の大神の御心から出ていることが分かった。御子に出雲を拝ませる為に誰に同行させるのが良いかを占ったところ曙立王と出た。そして曙立王に誓約を立てさせた。そして「出雲の神を拝むことで験があるなら、目の前の鷺よ地に落ちよ」というと鷺が地に落ちて死んだ。更に「今度は我が誓に従って生き返れ」というと生き返った。また誓約に従って白檮の木を枯らしたり活かしたりさせた。そこでこの曙立王に「倭者師木登美豊朝倉曙立王(やまとはしきとみとゆあさくらあけたつのみこ)」との名を与えた。
曙立王とその弟の菟上王がお附きとなって出雲に向かった。途中、泊まるごとに御子の名代として品遅部(ほむじべ)の部の民を定めた。出雲に到着した一行は出雲の神を拝み都へ戻ろうとしていた時、その途中の肥河(=斐伊川)の流れの上に仮宮殿を建てて御子をお泊めした。その時「岐比佐都美(きひさつみ)」が御食を差し上げたところ御子が初めて口を開いた。お附の者たちは驚き、そこに長穂宮を建て、御子をそこに据えて、早馬の使いを都に送った。
・この間御子は「肥長比売(ひながひめ)」と寝た。しかしその正体は大蛇だったので、恐ろしくなって逃げてしまった。
・一行はようやく旅を終えて天皇に報告した。堪能はたいそう喜び、もう一度菟上王を出雲に派遣して、神宮を建造させ、御子の為にいくつかの部の民を定めた。
  -鳥取部(鳥を捕まえる)
  -鳥甘部(鳥を飼う)
  -品遅部(御子の名にちなむ)
  -大湯坐と若湯坐(御子の養育にあたる)など

物言わぬ御子

■丹波(たにわ)の姉妹

沙本比売の言葉に従って、比古多多須美智能宇斯王の4人の姫を召しだした。それぞれ、比婆須比売命弟比売命、「歌凝比売命(うたこりひめのみこと)」「円野比売命(まとのひめのみこと)」である。しかし下の2人は醜いという理由で帰されてしまう。それを恥じて円野比売命は自殺を図ろうとした。なので、その土地を懸木(さがりき)と言い、今は相楽と呼んでいる。ついに山城の弟国に着いたときに深い淵に落ちて死んでしまった。それゆえここを堕国(おちくに)と言い、今は弟国(=乙訓)と呼ぶ。(※この辺り、前に出てくる各妻と御子の説明と少し食い違うように思える)

丹波の姉妹

■時じくの木の実(=橘)

垂仁天皇(11)は「多遅麻毛理(たじまもり)」という者を遣わして時じくのかくの木の実を求めに行かせた。多遅麻毛理は苦しい旅を続けてようやく目的地に到着した。そこで葉の茂っている枝を8本、実の付いている枝を8本入手して都に持ち帰ったが、既に天皇は御隠れになっていた。半分を大后の氷羽州比売命に献上し、残りを天皇の御陵の前に置いて泣き叫びながら息絶えてしまった。この実は今に言う橘である。

■この天皇は153歳で崩御。御陵は菅原の御立野(奈良市尼ヶ辻)の中にある。

垂仁天皇関連

■大后の氷羽州比売命が亡くなった際には職業として石棺を作る石棺作、埴輪や土器を作る土師部などの部の民を定めた。大后の御陵は狭木(佐紀)の寺間の陵(奈良市山陵町)に葬った。

氷羽州比売命御陵

(31)景行天皇(12)

ここでは中巻のヒーローの1人である倭建命(やまとたけるのみこと)が登場します。

景行天皇(12)は纏向(奈良県桜井市)に日代の宮を作り天下を治めた。
■この天皇の御子は以下の通り。(こちらも妻たくさん子だくさんです)

景行天皇系図

・吉備の臣などの祖先である「若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の娘である「伊那毘能大郎女(いなびのおほついらつめ)を妻として生ませた御子
1)「櫛角別王(くしつぬわけのみこ)」→茨田の下の連などの祖先
2)「大碓命(おほうすのみこと)」→守の君、大田の君、島田の君の祖先
3)「小碓命(をうすのみこと)」、別名は「倭男具那命(やまとをぐなのみこと)」あるいは「倭建命(やまとたけるのみこと)」→東国・西国を平定
4)「倭根子命(やまとねこのみこと)」
5)「神櫛王(かむくしのみこ)」→木の国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖先。

・「八尺入日子命(やさかのいりひこのみこと)の娘である「八坂之入日売命(やさかのいりひめのみこと)」を妻として生ませた御子
6)「若帯日子命(わかたらしひこのみこと)」→後の成務天皇⑬
7)「五百木之入日子命(いおきのいりひこのみこと)」
8)「押別命(おしわけのみこと)」
9)「五百木之入日売命(いほきのいりひめのみこと)」

・とある后の子
10)「豊戸別命(とよとわけのみこと)」
11)「沼代郎女(ぬましろのいらつめ)」

・別のとある后の子
12)「沼名木郎女(ぬなきのいらつめ)」
13)「香余理比売命(かごよりひめのみこと)」
14)「若木之入日子王(わかぎのいりひこのきみ)」
15)「吉備之兄日子王(きびのえひこのきみ)」
16)「高木比売命(たかきひめのみこと)」
17)「弟比売命(おとひめのみこと)」

・日向の「美波迦斯毘売(みはかしびめ)」を妻として生ませた御子
18)豊国別王(とよくにわけのみこ)→日向の国造の祖先。

・「伊那毘能若郎女(いなびのわかいらつめ)」を妻として生ませた御子
19)真若王(まわかのみこ)
20)日子人大兄王(ひこひとのおほえのみこ)

・「倭建命(やまとたけるのみこと)の孫(※)である「須売伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこのみこ)の娘である「訶具漏比売(かぐろうひめ)」を妻として生ませた御子
21)「大枝王(おほえのみこ)」

倭建命景行天皇(12)の御子であり、その景行天皇(12)の妃が倭建命の曾孫であるという記述は明らかにおかしいので間違い又は同名異人ではないかと思われる。またもう1人別の訶具漏比売が後に応神天皇(15)の妃として登場する。

この天皇の御子は記録に残る範囲では21柱。これ以外に残らない者が59柱で合計80柱。
この中で、若帯日子命倭建命五百木之入日子命の3柱を日嗣の御子(天皇の後継者)と呼び、残り77柱はすべて各地の地方官(国造、和気、稲置、県主など)となった。

■大碓命が兄比売と弟比売を奪う
景行天皇(12)は三野の国造の祖先である「神大根王(かむおほねのみこ)」の娘である「兄比売(えひめ)」と「弟比売(おとひめ)」が美しいと聞き、御子の大碓命を使いに出してこの2人を召そうとした。ところが使いの大碓命は天皇の命令を伝えることもなく、自分と誼(よしみ)を通じさせてしまい、代わりの乙女を兄比売弟比売だと偽って差し出した。しかし天皇はその2人が違う乙女だと気付き手を付けることはなかった。
・この時、大碓命兄比売に生ませた御子は「押黒之兄日子王(おしくろのえひこのみこのみこ)」で三野の宇泥須の和気の祖先。弟比売に生ませた御子は「押黒之弟日子王(おしくろのおとひこのみこのみこ)」で牟宜都の君等の祖先。

■景行天皇の御世
景行天皇の御世では、朝廷の田を耕す田部や淡(後の安房)の水門を定め、食事の奉仕する膳(かしわで)の大伴部を定め、上納穀物を収める大和の屯倉を定めた。また、坂手の池を作り、決壊を防ぐため、その周りに竹を植えさせた。

■倭建命が熊曾を伐つ
景行天皇(12)は最近姿を見かけない大碓命を心配して、弟の小碓命に「せめた食事は一緒に取るよう」に伝えさせようとした。その後5日間何の音沙汰もないので、小碓命に兄はどうして姿を見せないのか、ちゃんと伝えたのかと尋ねた。倭建命が言うには「教えてやりましたよ。兄が厠に入ったところを待ち受けて、手足をつぶしてバラバラにして、ムシロに包んで投げ捨てておきました」と。景行天皇(12)は見かけの優しい少年がそれほどの荒々しい心を持っていることに恐れをなして、西の熊曾の地へ行って朝廷に言うことを聞かない熊曾兄弟を討ち取って来るように命じた。(※このエピソードがあるので、あまり好きにはなれないが)
・この時若干15~6歳であったが、叔母である倭比売命から衣装や短剣をもらい西国へ赴いた。熊曾の地に着くと、頃を見計らって少女の姿に化け、給仕の女たちに混じって宴の席に入った。熊曾兄弟は間にその少女を侍らせた。そして宴が酣(たけなわ)になった時、左手で熊曾兄の襟首を掴みその胸に短剣を突き刺した。熊曾弟は驚いて逃げたがすぐに捕まえて尻から短剣を刺した。この時熊曾弟は「息のある間にお伝えしたいことがあります。貴方はどなたですか?」と問うた。小碓命は「この大八島の国を治めている景行天皇(12)の御子で名は倭男具那命だ。天皇の命でいうことを聞かないお前たちを成敗しにやってきたのだ」と答えた。熊曾弟は「そうでございましょう。これより西には我々より強いものはいません。大和の国には我々よりずっと強い方がいらしたようです。なので、私からぜひ倭建御子(大和には並ぶものがいない武勇の人の意味)という名前を献じさせてください。」と言い、その後討ち取られた。
熊曾兄弟を討ち取った帰り道でも吉備の国の海峡に巣くっていた「穴戸神(あなどのかみ)」を平定した。

■倭建命が出雲を伐つ
・都へ戻る途中、倭建命は出雲の国を通る時、その地で武勇を誇る「出雲建(いづもたける)」を成敗しようと謀を考えた。出雲建と親友の誓いを立てて、密かにイチイの木で偽の剣を作っておいて、一緒に肥河で水浴びをした。先に水から上がった倭建命は「お互いの剣を交換しようじゃないか」と言って出雲建の剣を取り、出雲建倭建命の偽の剣を取った。そして倭建命が「太刀合わせをしよう」と言って、出雲建を斬り殺した。
(※だまし討ちが多い)
・そして都へ戻り、景行天皇に命令を果たしたことを報告した。

■倭建命が東国を伐つ
倭建命が戻ってまだ傷の癒えないうちに、景行天皇(12)は「今度は東国を平定して来い」と次の命令を下した。そして、「御鉏友耳建日子(みすきみみたけひこ)」を伴わせ、ヒイラギで作った比比羅木之八尋矛(ひいらぎのはひろほこ)を携行した。
倭建命はまず伊勢に仕えている叔母の倭比売命を訪ね「父君は西国が終わったと思ったらすぐに東国を平定しろと。父は私が死んでもいいと思ってるのでしょうか」と泣きながら愚痴をこぼした。(※こんなに弱気を見せるタマとは思えないが)倭比売命はかける言葉が見つからなかったが、倭建命にはなむけとして草那芸剣と1つの嚢を渡し、「何か急に危ないことが生じたら、この嚢を開けなさい」と言った。
・東国へ向かう途中、尾張の地で尾張の国造の祖先である「美夜受比売(みやずひめ)」の家に泊まった。そこでこの姫を妻に迎えたいと思ったが、これから幾多の苦難が待ち構えている身なので、任を果たした帰り道に妻に迎える約束だけを行った。
・東へ向かう途中では朝廷に服しない連中をことごとく平定していった。
倭建命が相武(神奈川県)に着いた時、そこの国造が倭建命を欺いて「その野原にある大きな沼に荒ぶる神がいます」と倭建命を野原に誘いこみ火を放った。倭建命は騙されたと気づいたが、その時叔母の言葉を思い出して、嚢を開けてみると火打石が入っていた。そして、短剣で辺の草を刈り敵の火が近づかないようにし、火打石を使って刈った草に火をつけて敵の火に向かう向火をして火勢を弱めた。そして無事にそこを抜け出すと国造一族を滅ぼした。この土地を焼遣(やきづ)という。

・更に東国へ向い東の淡の水門(=浦賀海峡)へ行く。そこの走水の海を船で渡る時に、この海峡に住む神が荒波を起こし渡ることができなくなった。そこで妃の「弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)」が私が海に入り神を鎮めましょう」と菅の畳、皮の畳、絹の畳をそれぞれ8枚づつ敷いて、その上に身を投げた。結果、海は静まり渡ることができるようになった。その7日後、弟橘比売命の櫛が海岸に流れ着いた。倭建命はその地に弟橘比売命の御陵を作った。(比定地は多くある模様)

走水

倭建命は更に転戦して、蝦夷など各地の神々を平定して帰路についた。途中の足柄の険しい坂の麓で乾飯を食べていると、この土地に住む神が白い鹿の姿で現れた。倭建命は食べ残した山蒜の端っこを投げつけたところ、目にあたって鹿は死んでしまった。その後険しい坂を登った時(足柄峠)、海に沈んだ弟橘比売命を思い出し嘆息し「あずまはや(=我が妻は)」と嘆いた。それ故にこの地を阿豆麻(=東)と呼ぶ。
・その後甲斐国、科野国、美濃国伊那を通り神々を平定し、木曽川を伝って尾張の国へと戻り、約束を交わした美夜受比売の家に泊まった。そして草那芸剣を美夜受比売に預けて今度は伊服岐(いぶき)山に住む神を討つために出かけた。

■倭建命の死
・山の麓で大きな白い猪に出会った。少し油断した倭建命は「どうせ神の使いだろう。帰り道でやっつけてやろう」と言った。そして頂上に向うと、ものすごい量の雹が降ってきて倭建命は正気を保てないほどになった。やっとのことで山を下り玉倉部の清水の湧くところまで来てやっと落ち着いた。なのでこの地を居醒の清水という。
・その後美濃の当芸野(たぎの:岐阜県養老郡)の辺りまで来て嘆息しつつ「足が進まない。まるで引きずっているようでたぎたぎしい」と漏らした。なので、この地を当芸(たぎ)という。
・そして疲れは更にひどくなり、杖をついてのろのろ歩いていたので、この辺りを杖衝坂(三重県四日市市内部付近)と呼ぶ。更に三重の村(三重県四日市市内部付近)に着いた時「私の足はこんなに腫れてしまい、三重にくびれた餅のようだ」と嘆いたので、この辺りを三重という。またさらに歩いて能煩野(のぼの:三重県亀山市)で詠んだ歌が、

「大和は 国の真秀(まほろば) 畳なづく 青垣 山籠れる 大和しうるはし」などである。

そして倭建命はそこで息絶えてしまった。

・大和でその訃報を聞いた后や御子たちはこの地へ下り御陵を作り悲しんだ。この時倭建命は大きな白鳥となって海辺に向かって飛んで行った。后や御子たちは泣く泣くその白鳥を追いかけていった。

倭建命の旅にはいつも料理人として「七拳脛(ななつかはぎ)」が同行していた。

■倭建命の妻子
15~16歳から休む間もなく各地を転戦し、最後には息絶えたという割には多くの妻子がいるのはやや不思議な感じがしますが(^^;)、御子が1名ずつと言うのは分かる気がします。港々に妻がいる感じかもしれません。御子は以下の通りです。

倭建命系図

・垂仁天皇⑪の娘である「布多遅能伊理毘売命(ふたぢいりびめのみこと)」に生ませたのは
1)「帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)」→後の仲哀天皇(14)

・弟橘比売命に生ませた御子は
2)「若建王(わかたけのみこ)」

・近淡海の安の国の国造の祖先である「意富多牟和気(おほたむわけ)」の娘である「布多遅比売(ふたぢひめ)」を妻として生ませた御子は
3)「稲依別王(いなよりわけのみこ)」→犬上の君、建部の君等の祖先

・吉備の臣である「建日子(たけひこ)の妹である大吉備建比売(おほきびたけひめ)を妻として生ませた御子は
4)「建貝児王(たけかひこのみこ)」→伊予の別、登袁(とお)の別、麻佐の首、宮道(みやじ)の別等の祖先

・山城の「玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)」を妻として生ませた御子は
5)足鏡別王(あしかがみわけのみこ)→鎌倉の別、小津の君、石代(いわしろ)の別、漁田(ふきた)の別等の祖先

・またある妻に生ませた御子は
6)息長田別王(おきながたわけのみこ)

■その他の系図
若建王が「飯野真黒比売命(いひののまぐろひめのみこと)」を妻として生ませた御子は「須売伊呂大中日子王(すめいろおほなかつひこのみこのみこ)」で、この御子が「柴野入杵(しばのいりき)の娘である「柴野比売(しばのひめ)」を妻として生ませた御子は「迦具漏比売命(かぐろひめのみこと)」

景行天皇(12)がこの迦具漏比売命(※)を妻として生ませた御子は「大江王(おほえのみこ)」で、更にこの御子が異母妹(※)の銀王(しろかねのみこ)を妻として生ませた御子は「大名方王(おほながたのみこ)」と「大中比売命(おほなかひめのみこと)」
・この大中比売命仲哀天皇(14)の后となり、後に「香坂王(かごさかのみこ)」と「忍熊王(おしくまのみこ)」を生む。

※この迦具漏比売命は一方で景行天皇(12)の曾々孫であるとの記述があるのは前述の通り。同名別人の可能性はある。
※この記述では銀王景行天皇(12)の御子ということになるが、その記述はない。記録に残っていない59柱のうちの1柱の可能性はある。

景行天皇(14)は137歳で崩御。御陵は山の辺の道の上にある。

景行天皇関連

(32)成務天皇(13)

この天皇は事績の記述が少なく、系図も景行天皇(12)の系図に含まれているので、ここで記述しておきます。

成務天皇(13)は近淡海(ちかつおうみ=近江)の志賀の高穴穂(大津市穴太)に宮殿を作って天下を治めた。

■この天皇の御子は1柱で、穂積の臣などの祖先である「建忍山垂根(たけおしやまたりね)」の娘である「弟財郎女(おとたからのいらつめ)」に生ませた御子は「和訶奴気王(わけぬけのみこ)」である。

■建内宿禰を大臣に任命。国造、諸国の境界、県主を定めた。

■この天皇は95歳で崩御。御陵は沙紀の多他那美(たたなみ:奈良市山陵町)にある。

成務天皇陵

(33)仲哀天皇(14)

■仲哀天皇(14)は穴門(=長門)の豊浦と、後には筑紫の訶志比(=香椎)に宮殿を作って天下を治めた。

仲哀天皇・神功皇后の系図

■仲哀天皇(14)の御子は以下の通り。・「大江王(おほえのみこと)」の娘の「大中津比売命(おほなかつひめのみこと)」を妻として生ませた御子は、
1)「香坂王(かごさかのみこ)」
2)「忍熊王(おしくまのみこ)」

・また「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后」を大后とし、この大后が生んだ御子は
3)品夜和気命(ほむやわけのみこと)
4)大鞆和気命(おほとものわけのみこと)、別名を「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」→後の応神天皇(15)。この御子が生まれた時に、その腕に鞆(弓を射る時に左腕に巻き付ける革製の弓具)のような形をした筋肉があったので大鞆と名付けられた。

■この天皇の御代に淡路の屯倉(天皇・皇族の領有地)を定めて穀物を上納させた。

仲哀天皇(14)の崩御
・熊曾の国を討とうとしていた仲哀天皇(14)は訶志比の宮で、神を招く琴を鳴らし「建内宿禰(たけしのうちのすくね)」が控えて神勅を伺おうとしていたところ、神功皇后が神懸かりし(=神が乗り移った)「西の国に財宝がたくさんあり、私がその国を従わせてあげよう」と言う。しかし仲哀天皇(14)は「西には国らしきところはない。いい加減なことをいう神だ。」と言って琴を押しやって引こうともしなくなった。そこで神は「お前は私が教えた国どころか、この国を治める資格もない。この世から消え去れ」と激怒。慌てた建内宿禰仲哀天皇(14)に琴を引くように執り成したので、仲哀天皇(14)はイヤイヤ琴を引き始めたが、すぐに琴の音が途絶えたのでどうしたことかと灯を向けると、仲哀天皇(14)は息絶え崩御されていた。
・神の怒りの激しさを恐れて、とりあえず仮に殯宮(あらきのみや)に亡骸を移し、筑紫からありったけの穢れや罪のものを集めて大祓の行事を行った。
・その後、建内宿禰が神にお言葉を訪ねると「大后の腹にいる御子が治めるべき」と言われ、さらに建内宿禰が「それは男の御子ですか」と問うと「男の御子である」と答えられた。
・次に建内宿禰が神の名を問うと、「これは天照大神の御心であって、それを執り行うのは『底筒男(そこつつのを)』『中筒男(なかつつのを)』『上筒男(うはつつのを)』の三柱の神(=墨江の大神)である。今、かの国を治めようと思うなら、天つ神、国つ神、山の神、海の神、河の神に幣帛を奉り、我ら三柱の神の魂を船に祀り、木を焼いた灰を瓢箪に詰め、箸を皿にそれらを捧げもののように海に浮かべて、そして海原を渡り歩けばいい」と告げた。
・そこで神の言われるとおりに執り行うと、海の魚たちが喜んで集まって、船を背負って運んでいった。これが大波を立て、その波は新羅まで進むと、その国の半分ぐらいを浸水させた。これには新羅の国王も恐れをなして「とこしえにお仕えします」と恭順の意を示した。
・そこで新羅を御馬甘(=馬飼)と定め、百済を渡屯倉(=渡海を司る役所)を定めた。また神功皇后はいつも手にしている杖を新羅の国王の宮殿に突き立て、後の世のしるしとした。そして墨江三神の荒御魂をこの国の守護として、海を渡って帰国した。
・実は新羅を討つ前に身籠っていた御子が生まれそうになったことがある。その時神功皇后は新羅を討つまでは出産しないようにと、石を腰に結わえ付けていた。無事に新羅を討った後、筑紫で御子が生まれた。その土地を宇美という。またその時の石は伊斗の村(=糸島市二丈深江)あたりにある。
・また一行が末羅県玉島の里(=佐賀県唐津市浜玉町)に着いて、河のほとりで食事をしている時、ちょうど4月上旬だったので、岩の上で裳の糸を抜いて、飯粒を餌にして魚を捕った。この河を小河と言い、その岩を「勝門比売(かちどひめ)」と呼ぶ。それ以来、この時期に女たちが裳の糸を抜いて飯粒を餌に魚を捕ることが絶えない。

香坂王忍熊王の謀叛
・大和へ帰ろうとしていた神功皇后だが、何か都で怪しい動きを察して、偽の裳の船に偽りの棺を乗せて「御子は亡くなられました」という風聞をまき散らした。都では香坂王忍熊王がこの風聞を聞きつけて、神功皇后一行を討とうとしていた。途中、斗賀野でうけいの誓を立てて狩を試みたところ、狂った猪が現れて香坂王を喰い殺してしまった。にもかかわらず弟の忍熊王は軍隊を集めて神功皇后一行を待ち受けた。忍熊王は裳の船をみて「どうせ空船に違いない」と思って攻めかかったが、中から大量の兵士が出現し戦闘となった。忍熊王側は「伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍に、神功皇后側は「難波根子建振熊命(なにはねこのたけふるくまのみこと)」を将軍に戦った。両軍合い譲らず互角の戦いの中、難波根子建振熊命は一計を案じ「神功皇后は既に亡くなったので、これ以上戦うのは無駄だ。降伏しよう。」と兵士たちの弓の弦を切らせた。これで伊佐比宿禰も武器を仕舞い始めたところ、難波根子建振熊命側は髪に隠していた弦を取り出して、弓に張って再び攻め始めた(騙し打ちやんと思うが、武士の心はまだない)。この髪に隠していた弦を宇佐由豆留(うさゆづる:設弦)という。
・これで劣勢になった忍熊王側は逢坂で立てなおしたものの、滋賀の沙沙那美(ささなみ)まで押しやられ、ほとんどが斬り殺された。忍熊王伊佐比宿禰は船に乗って琵琶湖に浮かび、歌を詠んで、身を投げた。

■気比の大神

建内宿禰はいろいろは変事が起こるので、その穢れを浄める為に日嗣の御子(=応神天皇(15))をお連れして禊の行事を行おうと考えた。その場所を求めて、淡海(=近江)から若狭を越えて角鹿(=敦賀)に至り、そこに仮宮殿をつくって、御子をお泊めした。その夜、その土地の神である「伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおほかみのみころ)」が建内宿禰の夢に現れて、自分の名前と御子の名前を交換したいと言う。建内宿禰は承諾すると、神は続けて「明日朝、浜辺に来なさい。お礼に差し上げよう」と言った。
・明朝、浜辺に行ってみると、鼻に傷のある海豚(※いるか)が集まっていた。これを見た御子が、使者を通じて神に「神は私に食料の魚を下さった」とお礼を申し上げた。そこでこの神の名前を称えて「御食津大神(みけつおほかみ)」と言う。また、海豚の鼻の血が腐って臭いがきつかったので、この浦を血浦(=都奴賀)と言う。
※海豚は神から賜った食料なのですね。

■酒楽(さかくら)の歌・御子の帰国を待ち受けていた神功皇后は、帰国した御子に酒を振舞い歌を歌った。(歌は割愛)

■筑紫の国で崩じた仲哀天皇(14)は52歳で、御陵は河内国/恵賀の長江(大阪府藤井寺市)にある。

仲哀天皇陵

(34)応神天皇(15)

エピソードが多く、少々長いです(^^;)

応神天皇(15)は軽島(橿原市大軽町付近)に明(あきら)の宮を作って天下を治めた。
■この天皇の御子は以下の通り。(※こちらも妻たくさん子だくさんな天皇です。)

応神天皇系図

・「品陀真若王(ほむだにまわかのみこ)」の3人の娘を妻とした。品陀真若王五百木之入日子命(景行天皇⑫の御子)が、「建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)」の娘である「志理津紀斗売(しりつきとめ)」を妻として生ませた子である。3人の娘とその御子たちは、

高木之入比売命(たかぎのいりひめのみこと)」を妻として生ませた
1)「額田大中日子命(ぬかたのおほなかつひこのみこと)」
2)「大山守命(おほやまもりのみこと)」→後に謀叛を起こし討たれる
3)「伊奢之真若命(いざのまわかのみこと)」
4)「大原郎女(おおはらのいらつめ)」
5)「高目郎女(こむくいいらつめ)」

中日売命(なかつひめのみこと)」を妻として生ませた
6)「木之荒田郎女(きのあらたのいらつめ)」
7)「大雀命(おほさざきのみこと)」→後の仁徳天皇(16)
8)「根鳥命(ねとりのみこと)」

弟日売命(おとつひめのみこと)」を妻として生ませた
9)「阿倍郎女(あべのいらつめ)」
10)「阿具知能三腹郎女(あはぢのみはらのいらつめ)」
11)「木之菟野郎女(きのうののいらつめ)」
12)「三野郎女(みののいらつめ)」
の12柱。

・「丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)」の2人の娘も妻とした。その娘たちと御子は、

宮主矢河枝比売(みやぬしやがはえひめ)」を妻として生ませた
13)「宇遅能和紀郎子(うぢのわきいらつこ)」→謀叛を起こした大山守命を討つ。
14)「八田若郎女(やたのわきいらつめ)」
15)「女鳥王(めどりのみこ)」⇒天皇のお召しの使者(速総別命)とできてしまい曽爾で討たれた。

袁那弁郎女(をなべのいらつめ)」を妻として生ませた
16)「宇遅之若郎女(うぢわきいらつめ)」

咋俣長日子王(くひまたながひこのみこ)」の娘、「息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)」を妻として生ませた
17)「若沼毛二俣王(わかぬけふたまたのみこ)」

桜井の田部の連の祖先である「島垂根(しまたりね)」の娘「糸井比売(いとヰひめ)」を妻として生ませた
18)「速総別命(はやぶさわけのみこと)」→天皇のお召しの使者だが女鳥王とできてしまい曽爾で討たれた。

泉長比売(いづみのながひめ)」を妻として生ませた
19)「大羽江王(おほはえのみこ)」
20)「小羽江王(をはえのみこ)」
21)「幡日之若郎女(はたびのわきいらつめ)」

・「迦具漏比売(かぐろひめ)」を妻として生ませた
22)「川原田郎女(かはらだのいらつめ)」
23)「玉郎女(たまのいらつめ)」
24)「忍坂大中比売(おさかのおほなかつひめ)」
25)「登富志郎女(とほしのいらつめ)」
26)「迦多遅王(かたぢのみこ)」

・「葛城之野伊呂売(かつらぎののいろめ)」を妻として生ませた
27)「伊奢能麻和迦王(いざのまわかのみこ)」

応神天皇(15)が3人の御子を呼ぶ話
・ある日、応神天皇(15)大山守命(最年長)と大雀命(後の仁徳天皇(16))を呼んで「子供らのうちで年上の子と年下の子のどっちがかわいいだろう?」と尋ねた。実は応神天皇(15)は年少の宇遅能和紀郎子に跡を継がせたいと考えていた。大山守命は「それは年上でしょう」と答えたが、大雀命は天皇の意図を察して「年上はもう成人しているので心配ありません。しかし年下の子はまだ小さい分かわいく見えるのではないでしょうか」と答えた。応神天皇(15)は「大雀命よ、お前の意見は私のと同じだ」と言い、3人の御子を呼んで、3人にそれぞれ命令を与えた。
  大山守命→山や海に関する政治を
  大雀命→天皇の輔佐を
  宇遅能和紀郎子→天津日嗣となって天下を治めよ
大雀命は後になっても天皇の命に背くことはなかった。

■葛野(かずの)の歌、蟹の歌
・ある時、応神天皇(15)は木幡村(宇治市木幡付近)で1人の麗しき乙女に出会った。天皇は「お前は誰の子か」と問うと「私は丸邇之比布礼能意富美の娘で宮主矢河枝比売と申します」と答えた。そして天皇は「明日帰り際にお前の家に寄ることにしよう」と言った。娘は事の次第を父親に伝えると、父親は「それはきっと天皇さまだ。何ということだ、喜んでお仕えしなさい」と言った。
・翌日、応神天皇(15)が訪れた。宮主矢河枝比売は盞(さかずき)をおすすめした。天皇は盞と供された蟹のしおからを見ながら歌を詠んだ。(歌は割愛)こうして生まれたのが宇遅能和紀郎子である。

■髪長姫
応神天皇(15)は日向の国に「髪長姫(かみながひめ)」という麗しき乙女がいることを聞いて、是非召したいと思い都へ呼んだ。乙女が難波津で船を泊めているところを、たまたま大雀命が見かけて、すっかり恋に落ちてしまった。そこで大雀命は大臣の建内宿禰に「あの乙女を私に下さるよう天皇に頼んでくれないか」と頼んだ。建内宿禰はこのことを応神天皇(15)に伝えると、天皇も快諾された。応神天皇(15)が新嘗祭の時に髪長姫に酒を受ける柏葉を取らせ、姫を大雀命に賜わり歌を詠んだ(歌は割愛)。

■剣の歌、酒の歌
・吉野の民である国主の人たちは、大雀命の腰に帯びた太刀を見て、剣の歌や酒の歌を歌った(歌は割愛)これらの歌は彼らが土地の産物を献上する際にいつも歌う歌だが、その行事は今も続いている。

■渡来人たち
応神天皇(15)の御世では、海部(あまべ:漁業に従事)、山部と山守部(林業に従事)、伊勢部を定めた。また剣の池(奈良県橿原市石川池)を作った。

石川池

・またこの御世では多くの新羅の人が渡来してきた。建内宿禰は彼らを引き連れて土木工事(堤を築いたり池を掘ったり)を行い、百済の池(奈良県磯城郡田原本町の唐古池)を作った。

唐古池

・また百済の照古王(せうこわう)が牡馬・牝馬一頭ずつを「阿知吉師(あちきし)」に託し、また別に太刀と大鏡を献上した。
・そして百済の国に賢人がいたら寄こすように言いつけたことでやってきたのが「和邇吉師(わにきし)」、別名は「王仁(わに)」。この時論語10巻と千字文11巻を献上した。
・鍛冶に巧みな韓鍛(からかぬち)の「卓素(たくそ)」や、機織に巧みな呉服(くれはとり)の「西素(さいそ)」が献上された。
・秦の造の祖先、漢(あや)の直の祖先、そして酒の醸造に巧みな「仁番(にほ)」別名を「須須許理(すすこり)」が渡来してきた。この須須許理が酒を作って応神天皇(15)に献上したことがあるが、その時陽気になった応神天皇(15)は歌を歌った(歌は割愛)。そして応神天皇(15)は歌いながらフラフラ出かけたが、二上山を越える大坂まできた時、道の中にあった大石を杖で打った。するとその石が打たれまいと逃げ回ったことがあった。それ故「堅石も酔人を避くる」と諺で言うのである。

渡来人たち


大山守命の乱
応神天皇(15)の崩御の後、大雀命は命令通り宇遅能和紀郎子に天下を譲った。しかし、大山守命は何とか天下を得るチャンスを伺っており、こっそり軍隊を集めていた。大雀命大山守命が軍隊を集めていることを聞き及び、それを宇遅能和紀郎子に伝えた。その話に驚いた宇遅能和紀郎子は次のような謀を巡らせた。
・宇治河の河原に天幕を張り、宇遅能和紀郎子の偽者を配し、いかにも本人であるかのように役人たちに額ずかせた。一方、本当の宇遅能和紀郎子は船に滑りやすい仕掛けを付けて、自分は船頭に化けて船に立っていた。そこへ衣の下に鎧を付けた大山守命が現れ、そこにいる船頭が弟だとも知らずに問いかけた。「この山には狂った大猪がいると聞いているが、私がそれを仕留めようと思うがどうか。」船頭は「イヤ無理でしょう」と答えた。大山守命が何故かと問うと、船頭は「皆さんダメでしたから。」
・そして川の中ほどで船を傾けて、大山守命を川の中に落としてしまった。大山守命は浮かび上がったものの流されていき、その時に歌を読んだ(歌は割愛)(※こんな危急の時に歌などよく読めるものだと思うが(^^;))
大山守命は下流の訶和羅(かわら)の崎まで流されてしまい、とうとう水中に沈んでしまった。兵に鉤をもって探させたところ、鎧に引っかかって「かわら」と鳴ったので、この地は訶和羅前(かわらのさき:京都府京田辺市河原里ノ内付近)と言われた。(※この河原里ノ内は宇治川ではなく木津川沿いなのだが)
・大山守命の亡骸は奈良山に葬られた。

大山守命墓

宇遅能和紀郎子の夭折と大雀命の即位
宇遅能和紀郎子大雀命は互いに皇位を譲りあって決まらない状態だった。海人が新鮮な魚介を新しい天皇に献上しようとしても、お互いに譲るばかり。海人は両方の屋敷を行ったり来たりさせられ、献上品は腐ってしまい泣いていた。だから「海人なれや己が物で泣く」(海人というのは、自分の持つ物のために泣かされる)という諺があったりするのだ。
・しかし、宇遅能和紀郎子は不幸にも夭折されてしまったため大雀命(=仁徳天皇(16))が即位することになった。

■天乃日矛(あめのひぼこ)
・この時代より昔、新羅の国に「天乃日矛(あめのひぼこ)」という王子がいた。彼が渡日したのには訳があった。
・昔、「阿具奴摩(あぐぬま)」という賤しい女が昼寝をしていると、日の光がその女の陰処を射した。それを目撃していた賤しい男は「不思議なことがあるものだ」と思い、それからその女の様子を伺い続けていた。それ以来女は身重になり、ついに赤い玉を生んだ。賤しい男はその玉を貰い受けていつも腰にぶら下げて大事にしていた。ある日、この男が田んぼで働く百姓たちのために牛の背に食物を乗せて運んでいると、その途中で天乃日矛に出会った。天乃日矛は、その男が牛を殺して食べようとしているだろうと怪しみ捕えようとした。男は反論するも聞き入れられそうにもないので、赤い玉を渡して許しを請うた。天乃日矛は男を許してやり、その玉を持ち帰って飾っておいた。
・すると、その玉は麗しい乙女の姿になったので、天乃日矛は正妻とした。ところが甲斐甲斐しく働く妻に、いつしか天乃日矛は横柄になり妻を罵った。すると妻は「私はそもそもアンタの妻になるような女ではないのよ。日の光から生まれたので妣(はは)の国に帰ります」と言って逃げて、難波に住みついた。これは難波の比売碁曾社(ひめごそのやしろ)にいる「阿加流比売(あかるひめ)」という神である。

比売碁曾社

・逃げ出した妻を追いかけようと、天乃日矛も難波へ行こうとしたが、難波の海峡の神が邪魔をして通れない。仕方なくそこから戻って、多遅摩(たじま:但馬)の国に船を泊めた。そこにとどまり、多遅摩の俣尾の娘である「前津見(まへつみ)」を妻として生ませた子が「多遅摩母呂須玖(たぢまもろすく)」、更にその子が「多遅摩斐泥(たぢまひね)」、そして次が「多遅摩比那良岐(たぢまひならき)」。その子は三柱いて、「多遅摩毛理(たぢまもり)」「多遅摩比多訶(たぢまひたか)」「清日子(きよひこ)」
・この清日子が「当摩之咩斐(たぎまのめひ)」を妻として生ませた子が「酢鹿之諸男(すがのもろお)」と「菅竃由良度美(すがかまゆらどみ)」。そして多遅摩比多訶が姪の菅竃由良度美を妻として生ませた子は葛城之高額比売命(かつらぎのたかぬかひめのみこと)で、これが神功皇后の母君である。
※この辺りはややこしいので系図を参照ください。

・この天乃日矛が持参したものは、新羅から持参した宝物は、八種玉津宝と言われ、 珠2つ、魔法のひれ4枚、鏡2枚で、
①②珠二貫(たまふたつらね)→珠を二つ繋いだもの
③振波比礼(なみふるひれ)→波を起こす
④切波比礼(なみきるひめ)→波を鎮める
⑤振風比例(かぜふるひれ)→風を起こす
⑥切風比例(かぜきるひれ)→風を静める
⑦奥津鏡→航行の安全を守る
⑧辺津鏡(へつかがみ)→航行の安全を守る
これらは後に伊豆志(=出石)の社(=出石神社)に祀られた八座の大神である。

出石神社

■春の神と秋の神(※これはちょっと危ないというか不思議な物語です。)
伊豆志の大神の娘で「伊豆志袁登売神(いづしをとめのかみ)」という神がいた。誰もがこの神を妻にしたいと思っていたが、誰もそれを果たせなかった。ここに二柱の兄弟神がいた。兄は「秋山之下氷杜夫(あきやまのしたびをとこ)」、弟は「春山之霞杜夫(はるやまのかすみをとこ)」という。兄は「伊豆志袁登売神を何とか妻にしたいと思っているのだがうまくいかない。お前なら出来るか?」と弟に問うと、弟は「簡単ですよ」という。そこで兄は「では、もしお前がうまくやったら、私は全裸になり身の丈を測り、その高さの酒甕に酒を醸し、山海のあらゆる産物をお前に献上しよう。」
・弟は家に帰って母にその話をした。すると母が一夜のうちに、藤の蔓で衣・褌(はかま)・沓下・沓・弓矢を作り、弟にそれを着させて乙女の家に行かせた。乙女の家に着くころには既にすっかり藤の花が咲いていた。弟は(藤の花満開の)弓矢を厠に立て掛けておいたところ、乙女は不思議な花と思って自分の部屋に持ち帰った。弟は乙女の後について部屋に入り込み、一夜を明かした。(※オイオイ、犯罪じゃないのか?)そして乙女は男の子を生んだ。
・弟は兄に「ほら、約束を果たしましたよ」というが、兄の方は癪に障るので約束を果たさなかった。それで弟が母にそれを伝えると、母は「神が治めている御世では、すべて神の習わし通りにしなければならない。約束を守らないなんて、この世の人の悪い習わしを真似ているのか」と言い兄を怨んだ。
・そして伊豆志河の中にある島から一本の竹を取り、それで目の粗い籠を作った。川から石を取り、それに塩をまぶし、竹の葉で包んで呪いの言葉をかけた。
「この竹の葉のように青くしぼめ!」
「この塩の満ち干きのように、満ちよ、干け!」
「この石のように、沈んで病気になれ!」
そう言って、竹籠を竈の煙出しの上に置かせた。その結果、兄は8年間も身体は干からび、青くしなびて、病気になったまま起き上がれなかかった。そしてようやく兄は母に許しを乞うたため、母は呪いを解いた。そして兄は元気な姿を取り戻した。これは「神うれづく」(意味不詳)の言葉の起こりです。(※母は兄より弟を溺愛していたのか?)

春の神と秋の神

■その他の応神天皇(15)の御子たち
若沼毛二俣王が叔母にあたる「百師木伊呂弁(ももしきいろべ)」別女「弟日売真若日売命(おとひめまわかひめのみこと)」を妻として生ませた子は以下の七柱。
1)「大郎子(おほいらつこ)」別名「意富富杼王(おほほどのみこ)」→三国の君、波多の君、息長の君、坂田の酒人の君、山道の君、筑紫の米多の君、布勢の君等の祖先
2)「忍坂之大中津比売命(おさかのおほなかつひめのみこと)
3)「田井之中比売(たヰのなかつひめ)」
4)「田宮之中比売(たみやのなかつひめ)」
5)「藤原之琴節郎女(ふぢはらのことふしのいらつめ)」
6)「取売王(とりめのみこ)」
7)「沙禰王(さねのみこ)」

若沼毛二俣王の系図

・「堅石王(かたしはのみこ)」(迦多遅王(かたぢのみこ)と同一人物か?)の御子は「久奴王(くぬのみこ)」である。

応神天皇(15)は130歳で崩御。御陵は河内国恵賀の裳伏の岡(大阪府羽曳野市誉田付近)にある。

応神天皇陵

中巻はこれで終わります。