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南京大虐殺のウソ

※本投稿は現在も更新中です。

南京大虐殺とも語られた事件は、多くの方々の地道な努力によって200%ウソと証明されています。相変わらずケチをつける人がまだいるようですが、「証言」という言葉によるもの以外に「あった」という証拠も見つからない上に、その証言たるやほぼ伝聞。状況証拠としては「ウソ」と思わざるを得ないのが正直なところでしょう。特に写真類は全て捏造と証明されているはずです。また、新たに火葬関連の証拠が出てきたり、そもそも当時の南京市の人口は20万人程度であるし、20万人を殺戮するなどどうやってやるのかと思います。どこまでもケチをつける人はいます。

この期に及んで「南京大虐殺はあった!」と本当に信じて喧伝している人がいるとすると、いろいろな反論書に目を通し上で、自身で再確認して戴いた方が良いと思います。さもないと恥をかきます。私の周囲にもいるのですが、感情的になじるだけでした(^^;)

既に多くの先人の研究や著作物がありますので、本投稿では例によって、南京大虐殺と呼ばれたものの概要、あったする主張の問題点など先人の業績をご紹介を中心にします。

(1)南京大虐殺と呼ばれた出来事とされるものの概要:

もともとデタラメなのでいろいろな話がありますので、ここでは代表的な風説を記します。

1)概要

・日中戦争初期の1937年に首都南京を占領した日本軍による、中国軍捕虜や一般市民に対する大規模な略奪・暴行・虐殺・強姦があったとされる事件。
・被害としては様々な風説があるが、東京裁判判決文での南京事件の被害は、殺人:20万人以上、強姦:2万件となっている。死亡者が43万人だったりすることもあり、さすが白髪三千丈の世界。
・期間としては、南京占領後の6週間と言われているが、10週間とかとも。

2)タイムフレーム

1937年07月07日:盧溝橋事件事件
1937年07月29日:通州事件(中国の中の同盟軍が裏切り、日本人住民等を大虐殺)
1937年08月09日:大山事件(非武装地帯からの中国軍の攻撃)
1937年08月15日:日中双方から戦争を宣言
1937年11月16日:首都移転を決定。すでに南京からは住民が避難(数千人/日)
1937年11月25日:上海派遣軍、南京への進撃を開始。
⇒中国軍の焦土作戦を恐れて南京住民避難が加速。
1937年11月28日:「南京にはまだ20万人が住んでいる」(王固磐警察長官)
⇒残っているのは動けない者や極貧者がほとんど。
1937年12月01日:日本、大本営が南京攻略を命令。市長が南京を放棄
1937年12月04日:中支那方面軍、南京戦区に突入
1937年12月08日:城門封鎖が行われる。
1937年12月09日:降伏勧告文を飛行機から投下。(回答期限は12月10日)
1937年12月10日:中支那方面軍、南京総攻撃開始。
1937年12月12日:唐生智司令官が逃亡。中国兵が軍服を捨て安全区に侵入。
1937年12月13日:南京占領、「安全区に潜んだ残敵掃討」開始。
⇒中国軍は降伏・武装解除の意志を示さなかった。
1937年12月17日:中支那方面軍、南京で入城式を実施。
1937年12月23日:南京で自治委員会設立(治安が回復)

3)中支那方面軍の構成

中支那方面軍:
  司令官:松井石根大将
  参謀長:塚田攻少将
  参謀副長:武藤章大佐
  ⇒上海派遣軍(中支那方面軍傘下)
     司令官:朝香宮鳩彦王
     参謀長:飯沼守少将、
     参謀副長:上村利道大佐

(2)数々の問題点

多くの書籍がデタラメを証明しているので、私がここでイチイチ反論する必要もありませんので、あらすじをご紹介させて戴きます。

■証拠とされる写真等の鑑定
1)南京事件「証拠写真」を検証する(東中野修道他:2005/1/31)

・「大虐殺の証拠写真」として世に出た写真を東中野修道教授と南京事件研究会の写真分科会が143枚をとりあげ、3年がかりでその信頼性を調べた検証報告。
・これらの写真の半数近くが、南京戦の翌年に中国国民党中央宣伝部が戦争プロパガンダ用に作った2冊の宣伝本に掲載されたものだった。
・しかもそのうちの数枚は『支邦事変画報』など、当時日本の写真雑誌に載った従軍カメラマン撮影の写真をそのまま使い、略奪や無差別爆撃、強制労働の写真であるかのようなキャプションに偽造されたいた。
・結論として著者たちは、「証拠として通用する写真は1枚もなかった」と喝破した。

2)完結「南京事件」(水間正憲:ビジネス社)

豊富な写真資料が定評の著者によるぶった切り書籍です。

この2つだけでも十分強力ですが、以下にそれ以外の情報をご紹介します。

■東京裁判に先行した南京軍事法廷(B・C級裁判)での出来事
・日本軍の暴行を訴える南京市民は皆無だった。
・証拠には当時まだ存在しなかった支那派遣軍や第十三軍が記されていた。
・証拠には新聞・雑誌記事、記者の伝聞情報しかなかった。
・南京事件で起訴・死刑になったのはたった4名しかいない。それ以外でも東京裁判での松井岩根対象のみ。

■東京裁判での証言
1)ウィルソン医師・宣教師(米)@鼓楼病院/南京城内
実際の南京城内唯一の病院の強姦の被害者は1人だけ。それも梅毒第二期になっていた。
2)ベイツ教授(米)@金陵大学
南京城内8~10週間では12,000人の民間人が虐殺、8,000~20,000件の強姦
城外の揚子江で3万人の兵士が射殺。
3)マギー牧師
手当たり次第の強姦・強奪が続いた。
⇒まず、ベイツ教授は中華民国政府顧問だったことが後に判明。
⇒これらのほとんどは伝聞であって、自身で見聞きしたものではなかった。
⇒彼らが見たという中国兵士は軍服を脱いで安全区に潜んだ便衣兵(捕虜にはならず射殺OK)であった可能性が高い。

■その他
・11/28の王固磐警察長官の報告では「南京の人口は20万人」、12/24に日本軍が配布した「安居之証(=住民登録)」は25万枚。それ以降のいくつかの資料では20万人~25万人となっている。⇒減ってないやん。
・南京から撤退した中華民国軍の孫元良中将はその後の回顧録でも南京事件についてはほとんど触れていない。
・東京裁判以外でも、多くの証言は伝聞であって、自身で見たという件数は非常に少ない。
・嚆矢となった「戦争とは?-日本軍暴行録(1938年7月)」の著者ティンパーレー(豪:英マンチェスター・ガーディアン紙特派員:現ガーディアン)は「反日目的ではなく、戦争の事実と悲惨さを伝える目的だ」と訴え、日本人もコロッと騙されたが、実は中国国民党の宣伝部の一員であったことが発覚。しかしこの本は東京裁判で証拠採用され、基本資料と見なされていたが、実は国民党が資金を出したプロパガンダであった。その後の検証で、この本に書かれた数字は誇張されたデタラメに過ぎないことも判明した。
・12/13に南京陥落と同時に日本側従軍記者も南京城内に流れ込んだ。しかし日本側記者には一切の記録がない。敗戦後もほとんど書かれていない。
・後に発見された国民党宣伝部の工作対象に南京大虐殺は含まれていない。
・「GHQ焚書図書開封」(西尾幹二)の第一巻第三章に「征野千里」(谷口勝)が紹介されています。これは谷口上等兵の手記ですが、そこに書かれた南京陥落時の様子は長閑な風景であったと紹介されています。
・1948年を最後に南京事件は新聞から一切の姿を消した。そして、1971年に朝日新聞の本田勝一記者による「中国の旅」で23年ぶりに姿を現した。ちょうどその頃は、かつて中国共産党から記者追放や社長謝罪にまで追い込まれた朝日新聞が「許された」時期に重なるのは偶然なのでしょう(^^;)
これ以降、朝日新聞は日本版人民日報を揶揄されるような記事を連発し、とうとう珊瑚の自作自演を行うまでになった。
・中国の教科書に南京事件が書かれたのは1981年だった。それまでは何故この「美味しい」大事件は書かれなかったのだろうか。

・原爆死亡者は当年だけで21.5万人(広島14万人、長崎7.5万人:それぞれの市のHPより)と見積もられること。また同じくアメリカの戦争犯罪である東京大空襲で11.5万人以上とされ、沖縄の10万人弱を入れると、合計の43万人の無辜の市民を虐殺したという「アメリカの戦争犯罪」を打ち消すための南京事件捏造とも疑える。

■余談:
余談ですが、当時のこの辺りの在外日本人の過酷な運命は下記の事件を調べて戴ければ分かります。私はとても読む気も書く気も起こりませんが、とくに中国人とソ連人の残虐さには言葉もありません。

・尼港事件(1920年)
・南京事件(1927年)←いわゆるでっち上げ大虐殺(1937年)とは別事件です。
・済南事件(1928年)
・通州事件(1937年)
・通化事件(1946年)
これ以外多数あります。

(3)上記以外の参考文献

◇南京「大虐殺」被害証言の検証(川野元雄:展転社)

この書物は「南京への道」(本多勝一)に含まれる29の証言を詳細に分析した結果、「日本軍がやったという裏付けが取れるものはない」ことを詳細に報告したものである。もちろん「証拠はない」という話ですが、一事が万事と思われても仕方がないように思いますね。

◇〈再検証〉南京で本当は何が起こったのか(阿羅 健一:徳間書店)

当時の状況を細かく分かりやすく解説されています。結局「それほど何も起こってなかった」ので「何が起こったのか?」に対しては「特に何も」となりそうです。

これくらいで如何でしょうか。