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『1917 命をかけた伝令』たった一か所のカットに感じたこと。

「それから1年の時が経った」と書けば、わずか1秒で、1年の時を経ることができる。
その意味で物語は、人類が時間という無常な暴君を切り刻むための、ひとつの手段として開拓されてきた。思えば映画はこれを、“カットを割る”という技法を用いることで達成してきたのではないか。様々な時間軸を、時には並列に、時には点々に演出する。考えるにそれを逆手に取り、原点回帰として時間をあくまでも直列として繋いだらどうなるか、という発想で生まれたのが、たぶんワンシーンワンカットという技法なんだろうと思う。

僕がワンシーンワンカットを最初に知ったのは、ヒッチコックの「ロープ」だった。とある殺人事件を描いた「ロープ」は、物語の時間が、実時間と同期して進行する。つまり、鑑賞者の腕時計が刻む15分と、映画の登場人物が過ごす15分が完全に一致しているということ。これがワンカットの無二の価値でもあり、後に触れるが、これにより発生する制限ももちろんある。調べてみると、「ロープ」にはとはいえ数か所のカットが入っている。それは、当時の映画用のフィルムが10分程度しか尺がなかったがために、登場人物の背中などを大写しにした瞬間にカットを繋ぐ、という技を何か所かで使い、80分のワンカット映画として構成せざるを得なかった、ということだそうだ。

というような時代を経て、現代の、極めて改竄性に優れたデジタルの世界においては、ワンカットであることの事実性に拘泥して注視することにはもはやあまり意味がない。一発撮りの労苦はかつてに比べれば軽減し、テクニカルに“ワンカットにする”ことは、いくらでも可能だからだ。だからこそ、「1917」も、自らを“ワンカット風”と称しているわけだが、しかしこの作品に限らず引きも切らず演出家がワンカットでの演出を希求するからには、大きく達成したい地点があるはずだ。

それは、いうなればたった一つ。“随伴者としての立ち位置”を鑑賞者に与えたい、ということなんじゃないかと思う。

「グッドフェローズ」の、主人公が恋人と浮かれながらレストランの厨房から抜け出すシーン。「有頂天ホテル」の、多種多様な客がホテルの館内を右往左往するシーン。「ザ・プレイヤー」での、登場人物が長回しについて話すシーンを長回しで見せるという、アルトマンらしいケレンに満ちたシーン。そのどれもが、演劇でいう“第四の壁”を通し、鑑賞者を登場人物の一員にする手段として、高揚感や臨場感を与えることに成功してきた。しかしそれは、部分的に。

「1917」は、第一次世界大戦時下において、イギリス軍の兵士が、ある前線からある前線まで、伝令としての任務を苛酷にも遂行しようとする映画である。物語としての内容は、ほぼそれだけと言ってもいい。戦争下という状況なだけに、仲間が死に、敵に攻撃され、無辜の市民と出会うというプロットはある。が、基本的には、主人公がA地点からB地点に移動する映画なのだ。ただ、この映画の凄さは、鑑賞者も同時に、“三人目の伝令”として、A地点からB地点に移動した、と思える高い体験性にある。それは、映画を「観た」という感情以上の、戦場を「視た」「看た」高揚感と置換してもいい。一気通貫された、目撃者としての共犯性。誰もあんな場所に行きたくない。そう思わせられる時点で、主題がそこにあるかはともかく、厭戦映画としてはまずもって成功していると思う。

ワンカットの映画では、観客として、カメラワークの難しさを感じる演出がある。それは例えば、登場人物が見ているモノを観客にも見せるべく表現する場合。主人公が塹壕を抜けて悲惨な戦場を見せるような場面は、カメラを大きく引くことで、戦地の凄惨さや主人公が感じているであろう孤独感を、共時性とともに伝えることができる。

一方で、主人公の見るモノのスケールが小さくなるほど、それをわざとらしくなく観客に伝えるのは難しくなる。「1917」では、前半に戦友が死んでしまうが、死にゆく彼が胸に忍ばせている家族の写真を、主人公が見せるシーンがある。写真には向きの指向性があるため、描写として演者が見ている写真を観客に見せるには、写真を見ている演者の背後にカメラを回すなどし、写真をフレームに捉える必要がある。しかしワンカットでそれをやると、不自然さが出てしまうのが常。これを、「1917」では、主人公の立ち回りと共に非常に上手いカメラワークで演出し切っていた。そしてその上手さはしっかりとラストシーンにも繋がり息づいていて、思わず唸ってしまった。

僕には、「1917」には、通常のワンカットを用いた映画とは一線を画していると思えるポイントがある。それは、物語構成上たった一回だけ入る、“カット”の効能だ。

物語は、大きく分けて三つの時間帯に分かれる。
1:冒頭から指令を受けて移動する日中のシーン。
2:廃墟を舞台とした夜のシーン。
3:夜が明けてから川を流されラストへと繋がるシーン。
の三つ。

1のシーンで、指令を受けた主人公は、塹壕を抜けたあと、不意の敵により戦友が死に、一人になる。友軍に出会いトラックに乗せてもらうもまた一人になり、落ちた橋を渡ろうとした瞬間、廃墟から敵の銃撃を受ける。この銃撃戦の果てに主人公は、廃墟の階段を転がり落ち気を失うことになるのだが、その後画面が暗転し、物語構成上のカットが入る。テクニカルには、きっともっとカットは入っているのだと思うが、物語構成上、ここにだけ明快なカットが入っているのだ。そして、気を失っている主人公の顔からまたワンカットは再開され、主人公が廃墟の窓から外を見ると、広がっているのは漆黒の闇と銃弾の光が交錯する夜の世界となっているのである。

「ロープ」がそうであったように、映画内の時間が実時間にならざるを得ないことによって、ワンシーンワンカットの映画は、時間の改竄可能性の幅は必然的に低い。例えば、主人公が何かを10分待つ、というような状況を描く場合、基本的には10分間カメラを回し続けるしかなく、では時計を映し時間の針を小道具的に10分カチカチと早送りさせることで時間経過を演出したとしても、それはもはやコメディの世界に近くなる。

実は「1917」を観る前は、“全編ワンカット”だと思っていた。つまりは、2時間まるっと伝令に随行する映画なのだと思っていたのだ。そして、そうすることもできたはずだし、そうしたほうがいいという意見も制作中にはあったのではないかと推察する。しかし、完成した映画は、日中から夜に至る一か所にだけ、カットが入っていた。

このカットによる効能は計り知れないと思う。まずは、時間が日中から一気に夜になっていることによる絵替わり。カメラマンのロジャー・ディーキンスは、「007 スカイフォール」でも「ブレードランナー 2049」でも、それはそれは美しい映像美を醸していたが、「1917」の夜の廃墟でのシーンは、それまでが荒涼とした戦場だっただけに、暗さの美しさの際立ち方が半端ではなかった。一瞬、月面かと思うほどの、夜の黒。

という点を除いてこのカットの最も大きな効能は、過ぎ去った時間に何があったのかを想像させる、その“余地”にある。任務随行者である観客は、昼から夜になったことで、その間どれだけの時間をロスしたのか、その間敵はどのような布陣を敷いたのか、その間戦友の兄の部隊を窮地に追い込む罠はどうなっているのか、任務は間に合うのか、というような不安を、主人公と共に抱えることになる。つまり、描かれなかったこの空白の時間までもが、体験として鑑賞者に重く圧し掛かってくるのだ。ワンカットを声高に謳う映画において、敢えて入れているカットに大きな効能を求めた作品は、これまでなかったのではないか。

夜の廃墟で無辜の民と出会い、敵からの銃撃を駆け抜け、主人公は激流へと落下する。ここにもカットは入っているが、それを言うのは野暮。

激流から抜けた川べりには軍人の水死体が多数浮かんでいて、その軍服は明らかに敵であるドイツ兵のもの。悲惨な絵面ではあるが、それはすなわち味方が近いということでもある。そうして求めていた部隊と出会い、そこから一気にラストまで主人公はひた走る。隠れることで延命し、2kmの隘路をそれでも進んできた主人公は、最後、意を決し、砲弾飛び交う戦場と立ち向かう。覚悟を決める。そして、300メートルの死地を突っ走るのだ。これまで抑圧下にしかなかった主人公の行動が、死を覚悟することにより解放されるあのシーン。その抑圧からの解放は、指令を遂行するという軍人というエレメントから、仲間を助けたいという個人への昇華を表現しているようにも思え、映画史に残る名シーンだと思った。

コリン・ファースからの指令が、若手のジョージ・マッケイの辛苦を通し、カンバーバッチに届けられるという、イギリス人俳優の人的歴史と重ねるように、映画は、主人公が木の根元で寝るシーンから始まり、主人公が木の根元に辿り着くシーンで終わる。

まさに全編がワンカット風にループする美しさを感じると同時に、カンバーバッチ扮するマッケンジー大佐の、「また明日には新しい指令が届く」というセリフに、戦争の不条理さと、エンタテインメントの残酷さを受け取るのだった。

#1917
#1917命をかけた伝令

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