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才能の描き方、そのあるべき姿

登場人物の「物凄い才能」について描くコンテンツは、多くの場合、その才能に対してバイアスをかけることでドラマを作る。

翼くんはケガによって、カペタは金欠によって、BECKは妨害によって、その素晴らしい才能を"発揮できない"。そのバイアスにどう打ち勝つのか、は確かに読み手の興味の源泉になるが、その才能の発露をストレートに楽しめないものか…というストレスもまた、同時に溜め込むことになる。

例えばのだめは、千秋が飛行機に乗れないためオーケストラの本場であるヨーロッパに行けない、というバイアスが存在するが、それがあっても国内での才能はきちんと描かれる。のだめ本人も、安定的な才能の発揮を、「右脳で生きるが故の苦悩」というバイアスによって阻害されるが、それでも千秋の導きでパフォーマンスが花開く風景がしっかりと描かれる。なので読んでいてストレスが薄い。

「ザ ・ファブル」の主人公、佐藤明(仮名)は、超絶怒涛の殺し屋だが、その能力を封印したまま大阪で普通の日常を送ることを指示される。暴力によりなんぴとをも制圧する力を持ちながら、街のチンピラにやられる彼を読み手がストレスなく受け入れられるのは、彼が自覚的に才能を封印していることを、第一回目で描き手と読み手が了解事項として切り結んでいるからだ。よって、負けも娯楽になる。

一方で佐藤明(仮名)は、封印を解かねばならないシチュエーションにも苛まれる。同業の、ハイレベルな殺し屋との対決も迫られるのだが、それでもいざとなると、圧倒的に、お話にならないくらいに強い。その圧巻さは、ストレスとは無縁。実戦においては楽勝なので、状況においてピンチを作る。才能に対するバイアスのかけ方として、この構造の娯楽性は素晴らしかった。

夏から始まる第二部が、心から楽しみ…。

#ファブル

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