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去年と今年の誕生日で違った、小さなこと。

1月28日は、一般的には星野源さんの誕生日らしいが、僕と息子の誕生日でもある。

というわけで本日誕生日だったわけだが、思うに10年という単位に、人はメモリアルな感傷を抱きがち……ということを、去年の今日に、Facebookに書いた自分の文章から感じた次第。

=====一年前の感傷=====

49歳になったときから、50歳になるのが嫌だった。
嫌というより、50代の自分をまったくイメージできなかった、というほうが正しい。

思えば30歳のときは、「天誅」を一緒に作った仲間がお祝いをしてくれた。
朝まで飲んだくれ、はしゃいでいるうちに30歳は過ぎていった。
40歳のときは、PlayStation CAMP!の運営仲間がお祝いをしてくれた。
結婚し、子供が8歳と6歳のころ。背負うものも増え、40歳かあ…という感慨に耽る余裕もなかった。

比べると、50歳は、重い。

僕は、平成元年にゲーム業界で働き始めた。
最近、平成が終わることもあり、
「30年前はこんなモノが流行っていました」といったふうなことを、毎日のようにメディアが喧伝する。
その度に、あのころは20歳か…と、無理やり過去を振り返らせられるのだ。

ふと、50歳の自分を、もし30年後に振り返るとしたら。
その時僕は、80歳である。
生きているかどうかすら、もはや怪しい。
結構な割合で、死んでいる可能性が高い。
そんな時間の無常さや非情さが、とてつもなく怖かった。

という不安に塗れながらこの一年を過ごし、そして今日、50歳になった。
50歳になった今日は、実感として、割と普通の月曜日だった。

昨年11月、妻にいざなわれ、水郷の街、佐原を訪れた。
古き良き街並みを味わうのが目的だったのだが、そこにはたまたま、伊能忠敬が伊能家に入婿した際に暮らした旧宅があり、記念館があった。

年老いてから、日本地図を作るという偉業を成し遂げた人、伊能忠敬。

せっかくだからと、記念館を見学した。導線法、交会法について知り、忠敬の生を記した年表を熟読した。

忠敬は、50歳で隠居し、息子に家督を譲っている。
天文学を51歳で学び、そして第一次測量に出たのが56歳である。
測量は第十次まで続き、忠敬は74歳で亡くなった。
そしてその事実は伏されたまま、忠敬の没後三年経って、弟子たちが地図を完成させた。

忠敬の人生は、50歳からが本番だったのだ。

「ひょっとして、俺が年明けに50歳になるからここに連れてきたの?」
と、妻に聞いてみた。
「もちろん!よく分かったね」

それが軽やかな、適当なウソであることは一瞬で分かったが、50歳からの人生を賭して人のために尽くした偉人の、その足跡に「偶然」出くわしたこと。それ自体は、偶然ではない気がした。

そんな偶然を与えてくれる人が、ずっと傍にいてくれたこと。
それも偶然ではない気がした。

忠敬は、50歳で息子に家督を譲った。
受験真っ只中の僕の息子は、同じ誕生日の今日、18歳になった。
譲る家督などないが、彼は彼で、今後益々自分の人生を歩むことになるだろう。

僕はまだ、まったく何も成し遂げていない。
でも、支えてくれる人がいる。行く末を見守りたい人もいる。
歩くことをやめなければ、僕にもナニカを測ることができるかもしれない。

そう信じて、泥臭く歩こうと思う。

……はい、こんな感じ。
センチメンタルハンパねぇ。

で。

51歳の今日は、それこそなんてことはないただの火曜日で、ただの楽しい誕生日だった。家族で寿司を食べ、ケーキを食べ、プレゼントをもらった。

ただ、その日常さが、何ものにも変え難い宝物なんだなーと思った。変わらず過ごすことの価値、その再認識。

息子も、本日19歳になった。来年は、成人となる彼の誕生日でまた感情的になるのかもしれないが、さてどうなるか。

一年後の楽しみに向かって、また一年を過ごそう。


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